ったメディアは、今では反米ウンタラで「煽動・偏向報道」に勤しむなんとも
なものに育って、やたら沖縄県民を洗脳するのに躍起になっている。
そこには「反日メディア」として「アサヒる」情報機関の影響や変なイデオロ
ギィーに凝り固まった労組とか、沖縄だけが酷い大戦の犠牲者であると、喧伝
して廻っているが、大戦のそれは一般市民がどこにいても犠牲のそれを強いら
れたもので、市井の名もなき犠牲者は存在していたのである。
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“仇討(あだう)ちの時が来た”沖縄県に揚(あ)がる歓声
日本軍のハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった、1941年12月8
日の翌9日付朝日新聞「鹿児島沖縄版」の記事の見出しだ。
全国紙も地方紙もラジオ局も、メディアはこぞって開戦をもり立てた。
沖縄タイムス社の初代社長で、戦時中、沖縄新報に在籍した故高嶺朝光氏は著書
「新聞五十年」で開戦時の様子に触れている。
「首里坂下の日本放送協会沖縄放送局でも、いち早くラジオで放送をはじめた。
(中略)翌年三月の放送開始予定を急ぎ繰り上げて電波を流したら、その日のう
ちに那覇のラジオ店の受信機が売り切れたという話だった」
国の一県一紙令で沖縄の地元紙は当時、沖縄朝日新聞、沖縄日報、琉球新報の3
紙を統合した「沖縄新報」のみ。同紙は40年12月から45年5月25日に解
散するまで、沖縄戦のさなかも発行を続けた。
言論統制の岐路になったのは25年に制定された治安維持法だ。高嶺氏は「その
ころの一般的な空気としては、治安維持法に警戒しても、特に深刻に考えてはい
なかった。それが次第に拡大強化、解釈されて自由を侵害する猛烈な悪法になろ
うとは、想像もつかなかった」と回想している。
開戦後、新聞は戦意高揚の役割を積極的に担う。南洋群島などでの日本軍勝利を
大々的に伝える沖縄新報の記事には「死中に活あり「冷静沈着に この一大試練
に勝て」など勇ましい見出しが踊る。
戦時報道は「軍神大舛」の登場で勢いを増す。
43年1月、日米の激戦地だったガダルカナル島で、与那国島出身の大舛松市陸
軍中尉が戦死した。軍部は同年10月に大舛大尉(没後昇進)の武功が軍人最高
の名誉とされた「上聞」(天皇への報告)に達した、と公表。沖縄新報は43年
12月から「大舛大尉伝」と題した伝記ものを、計136回にわたって掲載した。
当時の連載記事を全て保管している大舛大尉の弟重盛さん(84)=浦添市=は
「あくまで戦意高揚、士気を鼓舞する目的で書かれたことは容易に想像できる」
と話す。
戦後、元部下から戦場の実態を聞いた重盛さんは、華々しい美談に彩られた報道
とのギャップにがくぜんとなる。
元兵士たちはガダルカナルの「ガ」を飢餓の「餓」になぞらえ、「餓島」だった
と振り返った。地図も渡されずに上陸し、食糧も届かず、けがをして歩くことも
できない状態で、最後は十数人で敵に向かっていった。
「実際は残酷極まりない戦場だった。当時の大本営は何を考えてこんな愚かな戦
いに向かわせたのか。なぜ撤退命令を出さなかったのか…」
重盛さんの訴えは、職責を果たせなかった当時の報道を穿(うが)つものでもある。
米軍の反攻が一段と激しくなったこの時期、沖縄をめぐる情勢は緊迫化していた。
44年8月には、第32軍の司令官に牛島満中将が着任。
沖縄は「本土の防波堤」としての役割を担わされていく。
沖縄新報は45年1月2日付の社説で「郷土は彼我の決戦場」のタイトルを掲げた。
南西諸島が本土の一部であり、国防内線の最重要拠点である以上、ここを死守す
ることは絶対的に必要-。こう論じ、県民に死への覚悟を説くに至る。
メディアは今、インターネットの普及で激変期を迎えている。「売国奴」「反日」
といった匿名の罵詈(ばり)雑言がネットを飛び交い、書店には「嫌中」や「嫌韓」
をあおる単行本や雑誌があふれている。
メディアの権力への迎合や誤った世論誘導が戦争を引き寄せる。新聞が過去の反省
に立ち、「非戦の砦(とりで)」の役割を果たせるかが問われていることを肝に銘
じたい。
沖縄タイムス 2014年12月5日 05:30
https://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=93309

朝日新聞が、一方的な歴史観に基づき作成したとされる教材「知る沖縄戦」を希
望する中学や高校などに無料配布していた問題で、大阪府松原市の市立小学校が
10月、授業で活用した後に記述内容を「不適切」と判断、回収していたことが
6日、分かった。
この教材の回収が判明したのは初めて。市教委は強姦(ごうかん)の記述を問題
視し、「児童の発達段階を超えた部分があった」としており子供たちにとって適
切な内容かどうか改めて議論を呼びそうだ。
教材は新聞スタイルの学習資料で、昭和20年の沖縄戦について、県内の戦争体
験者らへのインタビューを交えて解説。
日本軍が沖縄住民を虐待する場面が繰り返し登場する。
朝日新聞は主に中学生以上を対象としてホームページ上などで8月末まで申し込
みを募り、全国の学校などに計約38万部を無料で配布した。
松原市教委などによると、今回の小学校は6月、ファクスで6年の2学級分、8
0部を注文して取り寄せ、10月下旬に45分間の総合学習の授業で活用。
約2週間後に控えた広島への修学旅行に向けた平和学習の一環だった。
1学級の授業では、担任教諭が戦争体験者の証言や沖縄戦をQ&A形式で解説し
たページを読み上げた。
教諭が教材を補足で説明したり、児童が質問や意見を述べたりすることはなかっ
たが、授業後に児童の一人が「日本の兵隊が沖縄の人を多く殺したとか、日本の
悪いことばかりが書かれるのはなぜなのか」と保護者に相談。保護者は「殺人や
性的暴行など悲惨な話ばかりで子供が疑問を持った。
一方的な歴史観に基づく教材で、授業で使うのはおかしい」と学校側に抗議した
という。
http://www.sankei.com/west/news/141206/wst1412060032-n1.html
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相当に偏りすぎた「メディア」の捏造体質が明らかになってなお、懸命な反日
に励むのだから、教訓として「馬鹿は死ななけりゃ、治らない」は真理である。

慰安婦捏造が明るみになっても、いささかもブレかのメディアの醜悪さは、
こんな大戦の犠牲にも発揮されて、一地方だけでなく市井の人の犠牲は相当
広範囲に渡って「日本人皆殺し」のアメリカの野蛮すぎる「無差別空爆」の
ものであってと、なるはずが「まるで日本軍が虐殺した」という洗脳に励む
「決定的な反日」であるを表明している。
戦争といえば「九条」を大上段に掲げて、国民は皆何によって守られていると
すれば「九条」によってであるなんて「世迷言」をつれづれ言い放ってはいるが、
それらの人達が自然災害でも何でもそれらを阻止したなんてのはないし、まして
紛争の最前線で「平和を唱えた」なんてのも、聴いたことがない。
あるのは言論も保証され、平和そのものの日本内だけっのに、笑いが起こる。
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集団的自衛権の行使容認に反対する市民グループ「戦争をさせない佐賀県10
00人委員会」が8日夜 評論家・佐高信さんの講演会を佐賀市で開いた。
佐高さんは「今の日本は国民よりも国家が前面に出ようとしている」と指摘し、
戦争への道を進まないよう政治の流れを変える必要があると訴えた。
佐高さんは、集団的自衛権をめぐる論議が「国民を守るため」という前提で行
われていることに違和感があるとし、「自衛隊は国の独立と平和を守るために
あり、国民の生命財産を守るためではない」という元制服組トップの言葉を紹介。
「そもそも軍隊は本当に国民を守ってくれるのか。旧満州や沖縄戦であったこ
とを考えても、疑ったほうがいい」と話した。
また、「ふるさとを愛するように国を愛しなさい」という愛国心教育について
「ふるさとと国家を一緒にしてはいけない。
ふるさとは軍隊を持っていないし、愛を強制することもない」と指摘。国家が
強調されている状況に、危機感を持つよう呼び掛けた。
講演会は太平洋戦争開戦の日に合わせて開かれた。
2014/12/10(水) 12:54:45.32
http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/134226
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そもそも軍隊は本当に国民を守ってくれるのか
このイカサマロジックは、どうしたものだろう。
では「市民グループ」が守ってくれるのか、文句を言うやつが先頭に立って敵と戦
うかと反論されたら、一体なんと返答するのだろう。
一方的な批判でなく、では誰が守るとなれば、災害でも何でも頼ざる得ないのは
日本にあっては「自衛隊」しかない。まさか念仏の九条が弾丸を防ぐと思う国民
は存在しない。不戦のための抗弁としてであって、敵に通じる念仏はない。
日本人を貶すに遠慮は要らない「アサヒる」系のメディアは、購読者さへも
俎上に上げて、何が何でも「日本が悪い」方向に持っていこうとする第三国人
に占拠されているようである。
実際、「偏狭なナショナリズム」なる語句も、「かの国」に当てはめるとぴたり
と当てはまるのだから、あちらの民族性を色濃く残す人の言ととして、日本語で
書かれている「かの国の性根」と読み解けば、何のことはない「かの民族性の欠
陥」を書けばそれが日本語であるから、日本批判となるだけのこと。

これらも「被差別部落問題」からの援用で、行政への不当介入から始まって、
市井の善良の日本人の知らないところで、不当な権益拡大へと繋がっている
それがネットに転がる真実を眼にすることが出来て初めて、日本人の怒りと
なったもので、唾棄すべき「擁護」には、圧力に屈したメディアの卑劣さが
滲んでいる。
それが大戦での「日本軍の残虐性」なるまことしやかな嘘、うそが得意の「か
の国の人々」にとって、そこにいながら、そこの良さを享受ながら「日本人
のような感謝」する心が、全くないから何でも書けてしまう。
と、アサヒる報道機関やらの記者というものが、なにものであるか白日の元に
晒されれば「ヘイト・スピーチ」で言論弾圧と来るのだから、物凄い日本人
蔑視ではある。
何より沖縄だけでなく、日本各地に市井の大戦の犠牲者は存在しているし、そ
れら「かの国」のような被害者面しないのは、哀しみは慎ましくぐっと我慢、
の連綿と続く日本の美徳のなせる業であり、間違っても「売春」の業についた
者は「被害者面」など出来ないと名乗り出ないそれを見ても明らかである。
だけに偏屈極まりない被害拡大に躍起となる醜悪な人々を見ていると、哀れ
よりは「人でなし」の怒りも湧いてきてしまうものだ。
一生涯「尊敬」から縁遠い者達の名は「被害者面の反日人種」となりそうである。
で、沖縄だけでなく勤労奉仕は日本全国で繰り広げられたし、そこでは卑屈な
精神もなく「我慢を強いられても、絆の精神性で乗り越えようとする共通の意思
統一」が成されていて、それが平時でなくとも遺憾なく発揮された「日本人の美
徳と清廉な人間性」であった。
そんな一部分を描いていたのが実話のエッセーの映画化の「三十九枚の年賀状」
という映画である。

http://www.youtube.com/watch?v=_wxlfq5yQIU
「三十九枚の年賀状」 〇八年公開作
宮崎のメディアの公募で大賞を受けたエッセーの映画化されたもので、勿論
実話に基づいた「大戦の中での触れ合いと、その後の長い間の「音信を確か
めるような一年にいっぺんの年賀状」のやり取りと、現在では失われたかの
「年賀状に綴られる当時の思いやり」の文章から読み解く「変わらぬ心持ち」
と、短い文章から滲むあのころの思い出と、年に一度の近況と、それだけでも
色濃く滲む絆の力・・・。
薄っぺらな現在の「メール」のやり取りと違う人との繋がりに失われてしまっ
た何かを、静かに教えている。

映画化は、このセピア色の集合写真から始まる。
終戦三日前の夜半、鍼灸院を営む宮崎の西都市の一家庭に緊急の病の友人を
連れた兵士が訪ねてくることから始まる敗戦間近の日本のどこの地でもある
ところの「困っている人に対する思いやり」から、一家を挙げての看病とな
り、そこの一家の年若い娘と兵士のやり取りが軸になって、勤労奉仕が当然
だった女学生の集合写真と、どこまでものどかな田舎の遠景が、空の青さが
そののどかさをより強調する描写から、一閃の飛行機からの機銃掃射で、の
どかな風景に忍び寄って蹂躙する敵の攻撃・・・。戦争中であるを際立たせ
た描写から、この娘が丹精込めた「特攻人形」の製作と相まって、語らずと
も分かり合える心の豊かさのあった大変な時代・・・。
なにより一度くらいの出会いで、印象強く心に残る「たよなかな他人を思い
やる心情」に、ここが日本で、日本人なんだと悟らせるたった一枚のハガキ
の存在・・・。

語らずとも、分かり合える心の絆ってなものを、描かせる三十九枚のやり取り
にこそ、大変な時代の共有と、戦時でも平時でも「相手を思いやる」優しい時
代が、そこに存在していた。
どんな酷い戦争体験も含めて、他人を労わる素養を持つ日本人の生き方として
も、九条の会にはない「どれそれに守って貰える」でなく、誰でもそこに急を
要する人がいれば、援けるのは当然な日本的生き方は、こういった市井の人の
繋がりからも、当時でも濃密な人間関係が覗える。
こういったものが、教材としての「情操教育」には必要であり、どこか貶さな
ければならぬ「曲がった思考法」とは相容れない日本的情緒が映画の中に息衝
いていた。
日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争/井上和彦

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といったところで、またのお越しを・・・。