例年の戦後慰霊の日には、例の如く「狂信的マスコミ」の喚きことが報道されるのだが
「相も変わらず、住民を守らなかった軍隊」と、国土防衛のために散って行った人々も
いるものを「一切斟酌せず、感謝するでなく、権利主張」を繰り広げて「顰蹙を買う」
相変わらずの自分達だけの「言論の自由」を謳歌してしまう南の島のメディアは、「感謝
知らず」の身勝手ぶりだけが、紙面から溢れる。
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戦後67年、慰霊の日がまた巡ってきた。きょう23日、糸満市摩文仁で沖縄全戦没者
追悼式が催され、県内各地の慰霊碑でも祈りがささげられる。
激しい地上戦に日本軍が意図的に住民を巻き込んだ結果、おびただしい命が失われ、
生き残った者も無残な生を強いられた。
こうした犠牲を払って得た教訓を、無にするかのような動きが近年、活発化している。
先人が味わった辛酸を、無念を、決して無駄にしてはならない。次代にその教訓をつ
なぐ使命の重さを、鎮魂の日にあらためてかみしめたい。
○珍妙な理屈
今年3月、県は首里城公園内に旧日本軍第32軍司令部壕の説明板を設置した。
沖縄戦史の有識者で構成する設置検討委員会がまとめた説明文から、日本軍による
住民虐殺の記述と、壕周辺での「慰安婦」の存在を示す記述を削除しており、削除へ
の批判を押し切っての設置だった。
県の説明は実に珍妙な理屈だった。虐殺については「あったという証言と、なかったと
いう証言の両方があって不確か」だから削除したという。
「あった」というのは目撃証言であり、虐殺の存在をまさに証明するものだ。これに対し
「なかった」という証言は、本人がその場にいなかった、目撃しなかったことを示すに
すぎない。これを同列に扱い、「見ていない」旨の証言で目撃証言を消去するとは、こ
の種の証言史料を扱う態度として、およそ信じがたい。
まるで、ナチスのユダヤ人連行を見たことがない人がいたから、「アウシュビッツの悲
劇は存在しない」と強弁するかのような暴論だ。こんな理屈は世界に通用しない。
「慰安婦」についても同様だ。第32軍司令部の史料にも軍が女性75人を南部に移動
させる命令があり、いくつかの証言から辻の料亭や朝鮮人の女性たちが「慰安婦」に
され、壕内にいたことは分かっている。
だがこれも、「見ていない」人がいたから「なかった」ことになった。
これらは県教育庁が今年まとめた「沖縄戦日本軍史料」でもあらためて明らかになっ
たものだ。
住民虐殺や「慰安婦」の存在は2007年の県平和祈念資料館の証言集でも既に明ら
かだ。県は自らの資料で明らかな事実を、消去したことになる。
昨秋、説明文の内容が報じられた後、県に電話やメールで80数件の記述削除要求
が来た。この動きが、県の削除の背景にあったのは間違いない。
○頼もしい動き
多くの証言があるのに史実をねじ曲げるのは、歴史教科書の「集団自決」(強制集団死)
軍命削除検定とも通底する。
一部のグループの圧力で沖縄戦の史実がなかったことにされるのを許してはならない。
時がたち、生存する目撃者がいなくなれば、一部のグループは今以上に史実をなかった
ことにしようとするだろう。
史実をきちんと次代に引き継ぐことの重要性が、今ほど問われる時期はない。
その意味で、最近の若い人たちの動きは頼もしい。
自治体の平和学習事業を体験した高校生や大学生が、沖縄戦を語り継ぐ活動をしたり、
病院壕のガイドをしたりしている。
本紙連載「未来に伝える沖縄戦」で体験者の話を聞いた中学・高校生は、友人や次の
世代に語り継ぐ決意を語っている(本紙22日付)。
史実を風化させようとする動きへの抵抗の意思が、無意識のうちに広まりつつあるので
はないか。こうした継承の機運を広げたい。
軍隊は住民を守らないという教訓、軍の存在が島に敵の攻撃を呼んでしまったという教
訓、命こそが何よりの宝であるという教訓を、われわれは沖縄戦という甚大な犠牲を払
って学んだ。
昨今の自衛隊配備強化の動きは、その教訓に照らして正しいと言えるのか。
戦争につながる動きは注意深く排除したい。
(終)
琉球新報
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-192945-storytopic-11.html
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「守らない」とかの枕言葉を延々使い続けて、「守るために必死で散って行った日本人
に感謝するでなく、唾吐き同様の論調」わ展開させて、平和をもっとも味わっている身
ながら、「批判だけ」は一丁前の偏狭さは、いかがしたものだろう。
大震災時の「自衛隊」の活躍も、南の島には「レイシストばりの偏狭メディア」しか存在
しないから、東北の人々の感謝する姿には「苦々しく思っている」かも知れない。
にしても「ヘンテコロジックの住民を守らない」とかの言い回しには、守るだけの人員も
また「守るための特攻」もないこととされ、まして当時の避難通告を無視したとかは、な
かったことにするのだから、「言論を牛耳られている島の人々」も、なんとも哀れに思え
てくる。
敗戦が近づいた時の戦争は、消耗する兵員に補充がとなれば、どこの国でも若年層に
飛び火していくのは「国の防衛」という観点からは仕方のない施策ではないだろうか。
それを後になって批判・中傷するとかでは、死者に対する冒涜でそりものである・・・。
そんな敗戦の憂き目を見たドイツでも、若年層が駆り出されて、悲惨な戦いを強いられ
たものを映画にしたためれば、平和教育にもってこいの題材となる。
伝聞やら証言でなくとも、戦争の狂気を若年層の悲惨さで映像化すれば、平和の尊さ
や戦争の愚かさは、見ているものに伝わってくる。
そんな映画に、ドイツの「橋」もはいるだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=uecjvBaF_Oo
「橋」 五十九年公開作
敗戦濃厚となり、ドイツの片田舎にもその陰が忍び寄り、戦中でもそれなりに青春を
謳歌している若者達にも、「守るべきもの」を身をもって守れとの要請がやってくる。
町を家族を守る意識で志願した高校生七人の任務は町に続く橋を守ること。
連合軍の足音が近づき未経験の若者達は、いかに戦い散って逝ったかを、モノクロ
の画面にまざまざと描いて見せた。
戦争の善し悪しとか、ナチス・ドイツのウンタラでなく、戦争に巻き込まれた時の「人間」
の行動として、非戦でなく「家族を、地域を、そして国を守る」ことに意義を見出すのは、
至極当然の行動パターンであろう。
だけにこの若者達の奮闘も、そして当然な不安も無理なく描いていて、それらがいよい
よの戦闘になれば、悲惨さが見ている者に強烈なインパクトを与える。
反戦的意味合いもあるだろうが、それよりは育った土地と家族が殺戮の対象から外れる
ように奮闘する姿は、戦争の善悪を超越する。
何より必死に守った「橋」が、自軍の都合で「爆破」されようとすれば、それを阻止すると
する行動に、先人が作りともう「交通の利便さ」と友人達の犠牲の上に守った対象物を
破壊される理不尽さに、怒りを爆発させるところに「戦争の愚かさ」を見出して、泣き崩れ
る最後に残った少年兵の悲哀が、胸を打つ・・・。
ただ、戦争映画として出てくるアメリカ軍の戦車には、「ありゃま、こりゃま」と微笑ましく
なる造形で、その点は「少し緊張が緩む」ものであった。
http://www.youtube.com/watch?v=Cbo-Y2uxUUY&feature=relmfu
「1945 戦場への橋 ナチス武装戦線」 〇八年未公開作
上のテレビ放映での「リメイク」作も、日本の配給会社の「邦題」の戦争アクション並み
のものとしては、これまた「あれま、これま」な苦笑いだが、上の作品との比較をすれば
どうにも「さすがリメイクはダメだ」を再認識させてしまう。
こちらの作品から、過去のものへ辿るのなら、それなりに楽しめるかもな出来・・・。
にしても、沖縄の言論は、北の台地のメディアと似ていて、どうにも「花畑論調」が
鼻についてどうしょうもない。
この沖縄のものに対して検索したら、自衛隊の画像の以下のものがヒットして、
リンクしてみた。
関連リンク
「軍隊は住民を守らない」と言い募るマスコミは「住民を守れない」
http://erath0515.at.webry.info/201104/article_4.html
- 橋 [DVD]/フォルカー・ボーネット,フリッツ・ヴェッパー,ミヒャエル・ヒンツ
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- 1945戦場への橋─ナチス武装戦線─ [DVD]/フランカ・ポテンテ,フランシス・ゴルケ,ラース・ステインホヘル
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といったところで、またのお越しを・・・。