ここはどこ?、私はだぁれ状態を示す映画「欲望」 | 流浪の民の囁き

流浪の民の囁き

映画を通した過去・現在・未来について、なぐり書き

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」などということわざが日本にはあるが、その日本
国内にいながら、まったく自分達の立場を変えることなく「時代の変遷」からも
上のことわざも通用せず、「時代錯誤」な喚きたてを行う人々がいる。

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『コリアンの血をもって生まれた者は日本人にはなれないし、日本という土壌
に生まれたのも運命。起こった問題は、その都度解決していくしかないと思う。
これまで日本人になりたいと思ったことは一度もなく、これからも変わらない
と思う。』
『「在日コリアンはどうあるべき」というのは、もうやめた方がいいと思って
いる。あたりまえだけれど、「在日にはいろんな人がいる」でいいと思うし、
その生き方も自分で決めればいいことだから。』
『ただ、今の日本社会は、在日が自由に生きられるようになってはいない。
本名を名乗るか、日本名を名乗るかも自分で決めればいいことだが、本名で生
活したいと思っても、それができない社会は変えないといけない。自分が何者
であるかを言うことができない社会はおかしい。』
『韓国、日本、在日とトライアングル状態だ。そこに北朝鮮を入れると四角形
になるが、それぞれがどこまで理解し合えているか疑問だ。これからは交流の
質が問われる時代になると思う。』
『在日コリアンの人権は、基本的に日本国内の問題のはずなのに、朝鮮半島と
の関係に翻弄され続けてきた。
それも本来おかしいことだ。日韓関係・日朝関係がどうだろうが、本国がどの
ような国家であろうが、日本人がその気になれば、在日コリアンが尊厳をもっ
て生きられる社会を今すぐにでも作ることができるはずだ。
そのことを日本人への課題としたい。』

http://www.toyo-keizai.co.jp/news/society/2010/post_4073.php

吉賀町の県立吉賀高校で、3日間にわたって文化祭と体育祭「第7回よしか祭」が
開かれた。
文化祭初日の3日、「浪花の歌う巨人・パギやん」こと趙博(ちょうばく)さん
(54)の講演とライブがあり、生徒のほか、保護者らが熱心に聴き入った。
趙さんは、大阪市出身の在日2世ミュージシャン。当日はギターや太鼓を片手に、
「グーチョキパーの歌」、「一本の鉛筆」「死んだ男の残したものは」「珍島アリ
ラン」など、自作曲から反戦歌、韓国の民謡まで10曲を熱唱。
歌の合間には自らの半生も語り、「日本で生まれ育って、これだけ日本語がしゃべ
れても日本人じゃあらへん。
それは日本が世界でも珍しい血統主義を取ってるから」などと、時に冗談も交えな
がら在日として日本で暮らす現実を語りかけた。
3年の山本弘貴さん(18)は「ジャンケンにたとえて、人間は皆、強いところも
弱いところも持っていることを歌った『グーチョキパーの歌』が印象に残った」と
話していた。

ソース:毎日jp/島根
http://mainichi.jp/area/shimane/news/20100908ddlk32100589000c.html

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この記事を読む限りにおいて、まさに「時代錯誤」やら「思考停止」を起こして、
寄生する「パラサイト」を拒否しながら、そのものずばりな「パラサイト」を行って
いる実体を見る。いや見ないようにする姿勢も、それはそれで「精神衛生上」は健全
に過ごせる対処かもしれないが、もしかしたら「大それた」ことをしている自覚が芽
生えれば、精神崩壊に向かうのか・・・。

といった行動様式を考えた時、傲慢に過ごす時間から離れて、いや自分の存在自体へ
の「不確かさ」に疑問を持ち、結論が「見ていたもの、見たもの」が実在しないかも
と、不可解な気持ちが芽生えて、自分を見つめなおすきっかけとしたなんて映画を
思い出した。それが「欲望」という、六十七年の映画である。
当時としては、難解で意味不明なラストとかに、見る人によって意味合いが異なる
と、十人十色な感想が出てくる。しかしそれを今見ると・・・。


$流浪の民の囁き

http://www.youtube.com/watch?v=2Xz1utzILj4&feature=related
「欲望」 六十七年公開作

その業界では「売れっ子」なファッション・カメラマンの傲慢で不遜な態度を
前半に徹底して描き、その世界では「やることがなくなった」虚無的心情を観客
に納得させ、横暴な「成り上がり」として認知とさせ、そこにさまざまな「風俗」
を描きこんで、当時の台頭してくる「イギリスの価値観の変遷」をカメラマンの
傲慢な態度に見せることで、後半の「混迷し疑心暗鬼」そして「見えているもの
と見えたもの」の不確実性を主人公の心の変遷へと凝縮させて、「無常世界」の
構築を映像化した・・・。
といえば、聞こえの良いものだが、単に「エアー・ギター」ならぬ「エアー・テ
ニス」を「見えぬもの、不確かなもの」と捉えて、見ているものが実存するか、あ
るいは「見えていないもの」にこそ、真実が隠されている・・・。

$流浪の民の囁き

と、言うように「難解な解釈」つきで見る映画というものも、疲れるものである。
第一、公共の場所にある「公園」がその舞台で、時間の経過を無視していては、
公務員の「怠慢」も、そして「死体」となれば、公共施設で目立たぬ、そっと
させておくという、死角が存在しているでは「公共施設の問題」となりそうで、
自分達の「思考」には、入り込まない「他のもの」を排除して、独善であるが
「不条理」に付きまとう。
この映画も「砂丘」同様に、今一「時代錯誤」を感じずにはいられないもの。
流行というものを「自分なりに解釈」していても、「時代錯誤」が自分達の
意識外にあっては、それりゃ「正当な評価」を得るのは難しい。
もっとも「風俗」に対する熱気と、その州から離れれば、全く別の意識が働き
「別の世界」が存在している。
それを比較してみるのは、それなりに「時代の変遷」を見せているとも見える。
単にそれだけの映像には、サスペンスもなければ、訴えかけるものもない。
それでも当時としては、イギリスのカルチャー変遷をそれなりに描き出したと、
見ているからそれなりの賞を取ったと、見ることが出来る。



この映画の見所は、残念ながら映画の主題からは離れて、このライブのものが
伝説的ギタリストの映画出演として貴重なものであるだけと、今となっては
いえるのではないだろうか・・・。
時代の変遷は、時として当時との相田に「時代錯誤」を作り出して、陳腐なもの
へと追いやったり、また違った価値が生まれたりと、評価はゆり動く・・・。

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                 といったところで、またのお越しを・・・。