流しているのではないかと思えてきてしまう、この頃のものであるが、海外に
行った記者はそれなりに、国内の呪縛から解き放たれるのか、報道記者らしさ
で、記事を書いていたものを見つけた。
もっとも理想とする中立と商業ベースという営利企業の宿命の狭間は、意外と
分厚い上に「転び」も往々にしてあり、社会性の良心との葛藤も正常な人間な
ら持ち合わせていようが・・・。
この記事を戦前に知らされたら、さてどうだろうと考える出来事が先日あった。
そこで、古い映画と歌を思い出した次第である。
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読売新聞国際コラム リオデジャネイロ支局 小寺以作
「ところで、君の新聞はどっち派だ?」
今年初め、ベネズエラの首都カラカスで、反米左派のチャベス大統領が
率いる「ベネズエラ統一社会主義党」(PSUV)の幹部を取材していた時、
唐突にこう質問された。
ベネズエラでは、チャベス大統領が厳しいメディア統制を敷き、
メディアは多数のチャベス派と、少数の反チャベス派に分かれている。
読売新聞は、どちらに属するのかと尋ねているのだ。
想定外の質問に面食らいながらも、「どちらを支持している訳でもない。
事実を書きたいだけだ」と答えると、この幹部は「うそをつくな」と
声を荒らげた。
「中立のメディアなどあるはずないだろう。日本は、米国の同盟国で
はないか。米国政府から圧力を受けているのではないのか」
「あなたの国とは違う」
こちらも思わず声を荒らげ、どなり合いとなった。
ベネズエラに限らず、中南米では、メディアが特定の政党や政治家
と結び付き、ほとんど広報紙と化している例が少なくない。
ペルーでは、フジモリ元大統領の人権侵害事件の裁判が進行して
いる時に、大手紙が、起訴事実と異なる疑惑を報じながら、最後は
「これでフジモリの有罪は間違いない」と結んでいた。
ボリビアで先住民出身のモラレス大統領の演説を間近で取材して
いると、私の背後から「ハヤヤ、モラーレース」(先住民のアイマラ語
でモラレス万歳の意)と叫ぶ声が聞こえた。振り返ると、首からプレス
カードをぶら下げた女性が、誇らしげにほほ笑んでいた。
こうした国々では、メディアが支持する政党や政治家を有利に導く
目的で、虚実を交えて報道するため、国民のメディアに対する信頼
度は限りなく低い。
今年6月、ホンジュラスで、チャベス大統領に近いセラヤ大統領が、
憲法に反して再選準備を強行したとして、クーデターで国外追放された。
この時、反セラヤ派は、米CNNテレビが、チャベス、セラヤ両大統領
の言い分を過大に取り上げ、セラヤ氏の非にはほとんど触れなかっ
たとして反発。街頭デモで、CNNを「CHAVEZ NEWS
NETWORK」(チャベス放送局)とやゆするプラカードを掲げて
抗議した。
そのセラヤ大統領は9月下旬、政権復帰を目指して極秘に帰国し、
ブラジル大使館に駆け込んだ。軍や警察はすかさず大使館を包囲、
緊迫した空気が漂う中、セラヤ大統領は、自派や外国のメディアに
「警察が、大使館の敷地に催涙弾や毒ガスを打ち込み、負傷者が
出た」と訴えた。これに対し、警察幹部も国営テレビに出演し、
「そのような事実は断じてない」と反論、非難合戦を繰り広げている。
外国人記者としては、大使館には近づけず、情報を確認するすべ
がないだけに、一体、どちらが真実なのか頭を抱えるばかり。
国民の多くは、自分に都合の悪い情報はすべて「メンティーラ」
(うそ)として片付けているため、支持政党が異なると議論すら成り立
たない状態だ。
政治家や官僚が事実を語り、メディアが正しく報道する――。その
難しさと重要性を、地球の反対側の中南米に赴任し、改めて痛感して
いる。(2009年10月9日 読売新聞) YOL
http://www.yomiuri.co.jp/column/world/20091009-OYT8T00251.htm
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果たして正しいとは、という自問は当然持ったのだろうと甘く解釈して
やると、この記事はまぁまあ、及第点は上げられるだろうが、甘い性根
が透けている・・・。
これがあの先の大戦の戦前・戦中だったら、モロ国威発揚な過激な文章
満載で、国民をより洗脳に走らせていただろう・・・。
もっともマスコミの卑怯な論法に拠らなくとも、「国を思う人」にとって
危ないとなれば、人身なげうって・・・。
今ではこう書くと、教育の成果で鼻で笑われるか、軽蔑の対象となりそう
だが、過去において他国へのなんたらとかよりは、何より自国の犠牲者へ
の弔いとか敬いを忘れていては、はなはだ人間としての姿勢に疑問が浮か
んでくる。
若くして志願して「自らの身体でもって国を守ろうとした若者達」がこの
国には存在したし、その人々がいてこそ「今がある」ものである。
そんな若者達の中に「予科練」の志願兵も含まれるだろう。
その予科練に十四歳で志願して故郷を後にした人の葬儀が、先日行われた。
昭和十八年、十四歳で志願して「霞ヶ浦」へ、血気盛んな若者といえるか
どうか、今で言う中学卒業程度の高等小学校卒業と同時には、若者という
より少年、幼き者が、今では似合うだろうが・・・。
この人物はその業界ではそれなりに名の知られた人物だったから、参列者も
多く、何より「予科練」の制服姿の写真も会場に「思い出の品」として展示
されていた。
生前話す機会があれば、当時のお話しをされていて、熱心に聞き時を忘れる
程に、話されていたものだった。
そしてその昭和十八年入隊の時に、公開された映画が下のものである。

http://www.youtube.com/watch?v=AIoK5HHKJq4
「決戦の大空へ」 四十三年公開作
戦中のこととて、勿論この映画は「国威発揚」目的の国策映画である。
しかし露骨なものというよりは、予科練の若者の暮らし振りと鍛錬ぶり
とか良く実写を多用して、一部父兄にとっては「報告」的要素もあったのでは
と思える。
で、その中の訓練がこれまた厳しいが、それらを溌剌とこなし俊敏な動きを
見るにつけ、覚悟の様によっては「人間いかようにも変る」ものだと思えた。
その「予科練」の卒業生は総勢で二十四万余りであり、うち一万八千五百六十
四人が戦死されている。
戦局の悪化に伴い履修期間もどんどん短縮して行き、戦況の悪さが促成栽培を
余儀なくさせた結果だが・・・。
幸いに先日なくなられた人物は「生き残った組」であったが、もとより志願
イコール死をも覚悟・・・、もっとも志願したてではそこまでの視野はなかっ
たろうが、それでも「俺が国を守る」の使命感は、マスコミに躍らされたので
はなく、本来の気質と風土が育んだものではなかったか・・・。
で、その霞ヶ浦に、「土浦海軍航空隊」予科錬記念館がある。
今は自衛隊の敷地となったところにあるのだが、その記念館には予科練から
特攻作戦に従事し、命を落とした人の遺品が展示されている・・・。

「雄翔館」前には、平成になって湖底から発見された「山本五十六元帥」の
銅像が飾ってある。敗戦時アメリカ軍によって破壊されるのを恐れた者達に
よって「霞ヶ浦」に沈められた物を引き上げたのである。
私の見学当時は、この銅像はなかった・・・。

「雄翔館 内部」

「練習機 赤とんぼ」
「若鷲の歌」
この予科練の代名詞となった歌。
映画の挿入歌としても、耳にした当時の若者達はやはり憧れも持っただろう。

「若鷲の歌」歌碑
「同期の桜」
若鷲の歌が予科練であるなら、そこを巣立った「荒鷲」の連帯をうたったもの。
若鷲に「荒鷲の歌」もあるけれど、こちらの方がより身近なのは「同期」の者達の
連帯が海軍だけでなく日本軍全体の同期の者達の境遇に当てはまるから・・・。

「予科練の碑」二人兵碑
これは「生き残った予科練卒業者」の懇親団体「海原会」の寄付によって
「山本五十六像」同様に建立されたもの。
そしてこの懇親団体は、ハワイの「アリゾナ記念館」あちらにすれば「愛
国心を掻き立てる場所」であるパールハーバーにあるものであるが、そこ
での日本人観光客に対するアメリカ人観光客の罵声に憂慮して、親善を深
めるため互いの退役軍人で「握手を交わす」セレモニーを執り行い、また
雄翔館の予科練慰霊祭に米英の元軍人を招待して、蟠りの払拭に努めた。
もっともその民間親善は報道に適する素材とマスコミはどっと押し寄せるが、
日本の御霊慰霊に相応しい施設に案内すると、マスコミは一斉に引き上げて
しまった・・・、と、偏向してしまった日本のマスコミの面目躍如の一面を
曝け出し、米英の元軍人達にとっては、理解出来ない行動を取る・・・。
勿論御霊が安置されているのは「靖国神社」である。
だけにこの時の米英の元軍人とその家族にすれば、自国の犠牲者に対する
尊敬の念もない日本のマスコミ関係者は、宇宙から攻めて来る「エイリアン」
に映ったろう・・・。
「新聞は嘘ばかり書いている」亡くなった人物の口癖だが、こういった仕打ち
を知れば、一切合財信じなくなるのは当然であるだろう。
自国への感情が、他国の干渉で阻害されるなんてのは、はなはだおかしな論理
であり、戦没者は「死してなお貶される」存在ではない。
世界広しといえど、こんな報道機関は日本にしか存在し得ない稀有なものである。
それでも戦後教育の歪みは、検索して見つけたサイトにも散見出来、流石日教組
洗脳は行き届いていると感心する。
何も先人を敬うから「戦争を肯定しているのではない」、何より自己犠牲の尊さ
に、自分主義蔓延し「他人事政権」下であっても、人間の尊厳は生死に拘わらず
尊いものである。
「バルジ大作戦」 六十五年公開作
このシーン、指揮官が配属された新兵の若さに不安と落胆する様子
を見て、新兵が「軍歌」を歌い出し、その心意気を指揮官へ伝えた
名シーンで、祖国を守るため士気を鼓舞するドイツの少年兵と、
やはりあの予科練の少年兵が歌う「若鷲の歌」が被さってくる。
イギリス人監督の作品でも、ドイツに対するいや犠牲になった少年兵
に対する尊敬と愛情が、このシーンを撮らせたと思えば、日本のマス
コミの非人道的行動様式は、反吐が出るものである。
若き日に「日本を救おうと予科練」に志願した、少年のままの生き様で
生涯を終えた人物に、敬意と尊敬を込めて哀悼を・・・。
決戦の大空へ

¥4,252
といったところで、またのお越しを・・・。