大和撫子の哀しみ「樺太1945夏 氷雪の門」 | 流浪の民の囁き

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映画を通した過去・現在・未来について、なぐり書き

「戦場のなでしこ」を取り上げれば、こちらも取り上げないわけには行かない。

満州の哀しい出来事は、南樺太でも起こっていた。

こちらも日ソ中立条約の一方的破棄により窮地のうちに、非業の死を遂げた

女性達の物語である。



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「氷雪の門」 七十四年公開作

この映画は、当時のソ連からの横槍で、一般公開されることはなかった。

ということになっているが、これは製作者側の思惑ともあって、各地で小規模

公開はされていた。しかし大々的に劇場公開はされなかったものである。

それをVHSにて、公開したのが祭られている「靖国神社」の遊就館であったが、

今ではDVD販売もされている。

ただフィルムが現存しているのであれば、再び命日となる八月二十日に公開

する劇場があれば、より広く見てもらえる環境が整う、あんな中国人の作った

「靖国」の喧伝でない、大和撫子の悲惨であるが壮絶な死が、理解出来ると

思う。物語は戦禍のそれほど酷くない樺太の真岡郵便局の電話交換手の、

日ソ中立条約を破っての、突然のソ連侵攻に対する真摯な職業として最後ま

で通信という手段を守り抜いた九人の「青酸カリ」による服毒自決を扱ったもの

で、涙なしには見られない映画となっている。

下に詳しいサイトからの引用を参照してもらえれば・・・。

映画では集団自決した女性の身体の上に、ウサギが何も知らずに乗っている

というシーンもあり、そのはかなさは言いようがない悔しさも映像から溢れてくる。


「ある通信兵のお話」サイトからの引用
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当時、南樺太(現在のサハリン、北緯50度以南)には、40万人以上の日本人が住んでいましたが、

比較的に平穏な状況下でした。
しかし、ソ連軍の侵攻により、突如として戦場となったわけです。
日本軍は約3万人の将兵がいましたが、航空部隊は皆無でした。
日ソ中立条約との関係から、対ソ戦に備えた積極的な準備行動が採れていなかったものと思われます。
優勢なソ連軍に対し、非力ながらも徹底抗戦した日本軍の奮闘のおかげで、ソ連軍の侵攻が遅れ、そ

の結果、北海道の分割を避けることができたのです。
沖縄戦については、戦後、あらゆるメディアによりその悲惨な情況が紹介され、当時のことを知る人は多い

です。しかし樺太については、何故か人々から忘れ去られていました。

ポツダム宣言を受諾して戦争は終結したにも関わらず、ソ連軍は樺太の国境線を越えて南下を続けていま

した。8月20日には、樺太南端の真岡市に上陸して街を蹂躙しました。

この時、最後まで残った9人の女子決死隊が電話局を死守し、本土との電話回線を確保していましたが、

ついに電話局が砲撃を受け、全ての電話線がソ連軍により切断されました。
回線が切断される直前の悲痛な電話、
「これが最後です。さようなら、さようなら」
を最後に、9人の乙女達は青酸カリを飲んで自決したのです。

最期の通信は、責任者であった可香谷(よしがだに)シゲからの無線でした。
「ワレニンムヲオエリ。サヨウナラ。サヨウナラ。サヨウナ・・ラ」
彼女は服毒後、最後の力を振り絞ってキーを叩いたようです。
当時、無線は、局相互の中継回線が輻輳した際に、待ち合わせている次の電話番号を送る

ために使っていました。(速度は分速50字程度)従って、電話回線で「さようなら」と告げた後に

「可香谷主事補」が最期の「サヨウナラ」を無線で通報したそうです。
有線の電話も無線連絡も、受信した電話局は「稚内電話局」です)
この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退し

たといわれています。殉職された方々は、次の9名ですがいずれも独身であったそうです。
  可香谷シゲ 23才(主事補、現在の主任)

  高石ミキ 24才    吉田八重子 21才   
  渡辺照 17才     高城淑子 19才
  松崎みどり 17才   伊藤千枝 22才
  沢田きみ 18才    志賀晴代 22才
九人は靖国神社に祭られ、同神社の遊就館には「九人の乙女」の写真などが安置されています。               沖縄戦の「ひめゆり部隊」は、映画、図書などで戦争の悲惨さを痛切に感じた人は多かったことと

想いますが、旧樺太の凄惨な戦い、それも8月16日以後に起きたことは、案外に紹介されることが

ありませんでした。
「真岡局」での悲劇は、終戦の詔勅が放送され、人々が「やっと戦争が終わった」と安堵していた、

『8月20日』であることが問題なのです。
ソ連軍の侵略は、「ポツダム宣言」を受諾する旨を天皇が全軍、全国民に対して通告した5日後の

ことです。勝者なら何をしてもよいのでしょうか?
 それにしても、人は絶対絶命の境地に立ったとき、自分では考えられないような気力と度胸が湧く

ことを、これらの方々の行動から察せられます。

http://okigunnji.com/ohanashi/backnumber/te117.htm
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引用終わり

下の画像は、樺太島民慰霊碑。


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■樺太島民慰霊碑 氷雪の門

かえらぬ樺太への望郷の念と、かの地で没した幾多の同胞の霊を慰めるため、

昭和38年8月に建立以来、稚内市では毎年8月20日に、樺太ゆかりの人々によ

る慰霊祭を行っています

碑文
人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った
戦後はその門もかたく鎖されたそれから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くな

った多くの同胞の霊を慰めるべく、肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、木原

豊次郎氏、笹井安一氏の熱意と、全国樺太連盟の賛同、並びに全国からの心あ

たたまる協力によって、ここに記念碑を造る
氷と雪のなかで、きびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石

を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がったこの記念

碑を氷雪の門と命名した

戦後建てられた稚内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳皇后は

深く頭を垂れ、冥福を祈られました。次の御製、お歌が残されています。

【樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる】

【からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのるぬる】



http://sakurakaido.kt.fc2.com/hyousetsu_t.htm

「靖国神社に祭られた乙女たち」

この映画は樺太の悲劇を綴った物語であるが、他にも北海道が今、日本の領土としてあるのは

下にリンクした島での、日本兵の孤立無援の戦いがあってであり、悲劇の島は沖縄だけではない

し、むしろ日本兵の果敢で国民を最後まで守り通した功績は称えられるべきである。


http://sidenkai21.cocot.jp/m582.html
「占守島の戦い」


大和撫子の潔癖で高尚な精神は、このニ作品ともに哀しい結末となっているが、今に伝えられる

事がなくなった。

だけに「ひめゆりの塔」の悲劇もあるが、今ではそれも変な利用のされ方であり、とても書いてみた

いと思えなくなった。

「人権」を上段に抱えながら、教育に携わるのであれば、ここはやはりこういった映画を子供に見せ

るのも一考かと思う。

理不尽に殺される「人権」が過去にあって、それが日本人であった事実は消せないのである。

そして「ビルマの竪琴」でもそうであるが、旧来の日本人はとても理知的であり、誇れる民族性を

有しているのを教育していかなければ、あの赤い旗を監視社会の一員が、他国で振り回す暴挙

に嫌悪する大多数の国民にとって、正義とは何かが失われていってしまう・・・。


こんな動画をリンクしておきます。

これも大戦で散っていった「桜花」のアニメである。


http://www.youtube.com/watch?v=zpATGf-1tA0&feature=related

「悲しい時は、いつも」 松田博幸


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          それにしても赤い発狂軍団は、後先考えない行動をとって、後も日本で平気な面し

          て留学生として暮らしていくのだろうか?。

          人間というより鉄面皮な思想は、洗脳と監視の産物で、あの「天安門」で民主化を

          訴えて、露と消えた人権は、省みられないのだろうか・・・。

          恐ろしい国が、隣国にある・・・。警戒せねばならないのは、食品だけでなく鉄面皮な

          人々なのを、長野はまざまざと見せ付けていた。


                             といったところで、またのお越しを・・・。