ブラジルという国がある。
その昔、日本の貧しい農家の口減らしも手伝って、移民としてこの国に
やってきた日本人は多い。
それだけに親近感も湧く地球の裏側の映画には、今では日本もノスタルジィー
となったような情愛が生き続けている映画があった。
http://www.youtube.com/watch?v=Drhrc-PBG5w&feature=related
「セントラル・ステーション」 九十九年公開作
駅構内で代筆屋を営む中年女、そこに代筆を頼みに来る母子、いつもの依頼と
感情もなく、手紙を書く中年女・・・。
ここから物語りは、この少しへその曲がった中年女と、母を失ってしまう子供の
「父親探しの旅」に向かうのだが、代筆屋で驚きがある。
それは昔、日本にも恋文を代筆してやる職業があり、その名残の「恋文横丁」の
名が確か渋谷に残っていたと思うが・・・。
文盲率が半端でない証の代筆屋である。だけにほんの少し学があり、文を書ける
人にとって、上から目線は仕方がないと思えてしまう。
その中年女が、道中での出来事を通してどんどん「可愛い女性」へと変化していく
なんだか「バクダット・カフェ」の女主人的変化を見ているようなのだが、違いがあ
るとすれば生きる喜びに目覚める女主人と、こちらは母性に目覚めた女性てな、
分け方が出来るのではないだろうか。
都会の駅を離れ、風景は一変して悲惨という形容が当てはまる田舎の家、そして
それとは逆に美しい自然、清清しい風景はロード・ムービを印象付ける。
そしてやっとたどり着いた家には、腹違いの兄弟が父を待っている。
中年女は旅の役割を終え、早朝そっとそこを抜け出す。
で車中で、書いた手紙を読み出して、そっと思い出に触れていく・・・。
気づいた子供がバスを追っかける大地の赤さが、なんともいえない。
出会いがあれば、別れがあるロード・ムービーだが、これはなかなか辛いものが
あった・・・。 にしてもこの擬似親子的中年女と子供の道中は、このへそ曲がりを
どんどん可愛い女性へと変貌させていく過程は、日本でも忘れかけられている
隣人愛を想起させる。
ここでは悪知恵の働く中年女が道中の危機を乗り越えていくが、あの「ペーパー・
ムーン」ではおしゃまな娘が、舌を巻く詐欺で・・・、と見比べると女は幾つになっても
生活力は男の数倍はあるを実感出来る・・・。
この中年女が唇に紅を塗るシーンは、なんともいえず自然に泣ける・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=ACIXsCuIo34&feature=related
「フランシスコと二人の息子」 〇七年公開作
この映画は、有名になったデュエット歌手のサクセス物語なのだが、
その範疇から飛び出て、その極貧の生活ぶりでも希望を失わず、
けなげに生きる人々を活写している。
自然の美しさと、そこで暮らす極貧の家族、この映画はもう日本の昭和初期
である。
にしても題名だが、日本ならきっと父親の名を冠してはないだろう。
視点がサクセスに当てられ、歯の浮く物語を作ってしまいそうである。
そこの視点が、ことブラジルでは貧しくとも子供には夢見ることの大切さを教え
込んでいるように見える。
だからこそ、無邪気な笑顔の裏に隠れた哀しみが如実に見せられる。
ラテンとかという問題でなく、これは家族の絆の深さや教育に起因するものだと
思う。サクセス物語で欠けることの多い貧しさの本質、そして何より貧しい生活を
送りながら、財産をアコーディオンに変えてしまう父親の後ろで、ただただ黙って
支えようとする母親、ここらは「かばい・はぁちゃん」の極貧を笑い飛ばすものと相
通じる。
だから失いつつある日本の原風景とも取れる映画である。
有名になった歌手を育てたのは、間違いなく貧しい父親・母親であり、路上ライブも
聞いて欲しくてではなく、金のためである。
この生活を助けるけなげさが、人々の心を打つ歌声となって広まっていった。
そう解釈できる素晴らしい映画である。
にしても、この二本の映画が、どちらも人と人の繋がりの濃密さを描いていて、切な
過ぎるものが、親近感を抱くブラジルであったのも、なんとも心地良い・・・。