【映画評】斬、 | じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

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このブログは、田舎で暮らすおっさんの独り言を日々書き綴っています。ブログタイトルの「じゃんご」とは秋田弁で「田舎」のことで、偶然にもマカロニウエスタンの主人公の名前でもあります。何となく付けてみました。お時間があれば、広い心で御覧になってください。

どうも。池江璃花子を東京五輪開催のアイコンにしたい組織委員会とマスメディアです。もし強行開催して新型コロナウィルス感染大爆発となれば、池江は「自分のメダル欲しさに多くの国民を犠牲にした極悪エゴイスト」と評価されます。池江を応援している皆さんは、それでいいのですかね。

 

それはさておき、映画の感想文を書きます。今回は『斬、』です。

 

250年にわたって続いてきた平和が、開国か否かで大きく揺れ動いた江戸時代末期。江戸近郊の農村を舞台に、時代の波に翻弄される浪人の男と周囲の人々の姿を通し、生と死の問題に迫る(映画.comより引用)。2018年公開作品。監督と出演は塚本晋也で、出演は池松壮亮、蒼井優、中村達也、前田隆成。

 

塚本晋也が監督、製作、脚本、撮影、編集、出演を兼任しています。塚本監督の脳内にあるイメージを正確に映像化するためです。それでも昔より他人に任せられるようになりました(昔は美術や照明も兼任していました)。

 

浪人の都築役を演じる池松壮亮は、『ラストサムライ』で映画デビューしてから20年近く経ち、難役もこなせる良い役者に成長しました。少年っぽさが残る風貌で汚れ役もこなせる若手俳優は、業界に重宝されます。

 

農民の娘ゆう役を演じる蒼井優は、見かけは古風な日本人女性でありながら、大和撫子らしからぬ芯の強さを見せます。着物がはだけた時に見える太腿は肉感的で、働く農民のリアリティーを出しています。

 

衣装や美術の時代考証をしっかりしていながら、台詞は幕末であることを差し引いても時代劇らしくありません。故に本作は塚本監督初の時代劇という形式を装いながら、これまでの塚本作品の要素を組み合わせた「塚本晋也の映画」になっています。

 

冒頭の刀鍛冶で響く金属音は『鉄男』を思い出させます。都築を人斬りにしようとする澤村(塚本)は、同作で平凡な男を鋼鉄人間化させようとする“やつ”(この役も塚本)に重なります。また都築、ゆう、澤村の三角関係と、ゆうの暴力的な愛情表現は『TOKYO FIST』を思い出させます。同作のボクシングを人斬りに置き換えれば、本作は時代劇版『TOKYO FIST』にもなるでしょう。

 

『鉄男』から多くの塚本作品は「都市と人間」の対立構造が基になっています。都市=無機質=金属とコンクリート=死に対し、人間=有機質=肉体=生です。金属とコンクリートに囲まれた都市で、人間が肉体への痛みによって生を実感するという内容になっています。

 

ところが『KOTOKO』から「都市と自然の交差点にいる人間」という構造に変わったようです。都市に対置されるのは自然であり、その重なりにいるから人間は苦悩するという捉え方です。前作『野火』では、都市に代わる無機質なものは戦争であり、それに対置されるのは色鮮やかな南国の自然です。

 

本作において、無機質=刀剣=人斬りに対置されるのは森林や田畑など自然の風景です。剣術の腕がありながら人を斬ったことがない都築は、自然の中で平和に人間らしく暮らしたいと願うから、澤村からの誘いに対して苦悩します。

 

都築が苦悩する中、源田(中村達也)が率いる無害な野武士集団に対し、ゆうの弟で侍に憧れる市助(前田隆成)が偏見から危害を加えるも返り討ちに遭います。その敵討ちを澤村が行ったことから暴力の連鎖が始まります。ゆうに市助の仇を取れなかったことを非難された都築の苦悩は深まります。

 

この暴力の連鎖の結末は、ゆうの慟哭で終わります。終わると言っても、映画が終わるだけで現実の暴力の連鎖は終わっていません。都築を日本、澤村をアメリカ、野武士集団を中東諸国に置き換えてみれば、自衛隊を海外派遣するための集団的自衛権行使の問題と重なります。まだ暴力の連鎖が終わっていないから、本作のタイトルは「斬。」ではなく「斬、」なのです。

 

★★★★☆(2021年3月24日(水)DVD鑑賞)

 

 

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