【映画評】猿の惑星:新世紀 | じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

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このブログは、田舎で暮らすおっさんの独り言を日々書き綴っています。ブログタイトルの「じゃんご」とは秋田弁で「田舎」のことで、偶然にもマカロニウエスタンの主人公の名前でもあります。何となく付けてみました。お時間があれば、広い心で御覧になってください。

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猿のシーザーが天性のリーダーシップを用いて仲間を率い、人類への反乱を起こしてから10年。勢力を拡大し、手話や言語を操るようになった猿たちは、森の奥深くに文明的なコロニーを築いていた。一方の人類は、わずかな生存者たちが荒廃した都市の一角で息をひそめて日々を過ごしていた。そんなある日、資源を求めた人間たちが猿たちのテリトリーを侵食したことから、一触即発の事態が発生。シーザーと、人間たちの中でも穏健派のグループを率いるマルコムは、和解の道を模索するが、彼らの思惑をよそに、猿たちと人間たちとの対立と憎悪は日に日に増大し、やがてシーザーは生き残るための重大な決断を迫られる(映画.comより引用)。2014年日本公開作品。監督はマット・リーヴスで、出演はアンディ・サーキス、ジェイソン・クラーク、ゲイリー・オールドマン、ケリー・ラッセル、トビー・ケベル、コディ・スミット=マクフィー。
 
猿の惑星:創世記』の続編で、猿インフルエンザウィルスの蔓延によって、人類は滅亡寸前の危機にあります。本作の原題が『DAWN OF THE PLANET OF THE APES』であり、ジョージ・A・ロメロ監督によるゾンビ三部作の二作目『DAWN OF THE DEAD』(邦題『ゾンビ』)へのオマージュのようにも受け取れますが、人類の弱り具合は三作目の『DAY OF THE DEAD』(邦題『死霊のえじき』)に近いです。
 
猿のVFXが前作より格段に進歩しています。表情や体の動きはアンディ・サーキスら演者のモーションキャプチャーによりますが、毛並みの動きはCGで描いたものですからね。しかも、その猿たちが群れを成して動くのですから、驚嘆の一言です。
 
原作の『猿の惑星』は、原作者のピエール・ブールが第二次世界大戦中に日本軍の捕虜になった屈辱的な体験を基にしており、猿は日本人のメタファーです。それを映画化した『猿の惑星』は、制作された1960年代の公民権運動を反映し、猿は黒人のメタファーになっています。この猿を異なる人種や民族のメタファーとする設定は、本作も踏襲しています。
 
本作では人間と猿の交流と対立だけでなく、人間同士または猿同士の交流と対立も描かれています。特に家族愛の描写は丁寧に描かれており、人間も猿も変わらないという視点に立っています。それは人間界における人種や民族を超えた共生を願うものでもあります(『映画ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年』の「友達に国境はな~い!」というキャッチコピーに、いちいちケチを付けたアホな日本の国会議員もいますけどね)。
 
猿は人間の悪い部分も真似します(猿真似?)。人間にも猿にも対話重視派と武力強硬派がいて、猿側の武力強硬派は自作自演で侵略を捏造し、仮想敵を作ることで戦争を起こすのです。人類の歴史で何度もあったパターンです(戦争をする口実だった大量破壊兵器が、実は存在しなかったのがイラク戦争です。日本の自衛隊もイラクに派兵されており、その実態を踏まえ、総括するために当時の日報が必要なのですが、それがずっと無かったことにされていました。「反省だけなら猿でもできる」というCMコピーもありましたが、反省するための資料を探せないのは猿より劣るでしょう)。
 
人間を模倣するだけではありません。猿側のリーダーであるシーザー(サーキス)は、武力強硬派であるコバ(トビー・ケベル)の謀略で一度死んだことにされますが、復活して更に強固なカリスマ性を得ることになります。これはキリストの復活をなぞったものであり、猿が人間どころか「神の子」を模倣したと解釈できます。人間は猿から進化したというダーウィンの進化論を頑なに否定する、キリスト教右派が大きな社会的勢力であるアメリカにおいて、本作は攻めの姿勢を秘めた映画なのです。
 
★★★★★(2018年3月23日(金)DVD鑑賞)
 
朝倉世界一の漫画で『おさるでグラッチェ』というのがありました。
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