【映画評】キック・アス | じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

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このブログは、田舎で暮らすおっさんの独り言を日々書き綴っています。ブログタイトルの「じゃんご」とは秋田弁で「田舎」のことで、偶然にもマカロニウエスタンの主人公の名前でもあります。何となく付けてみました。お時間があれば、広い心で御覧になってください。

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ニューヨークに住む冴えないオタク少年のデイブは「誰もがスーパーヒーローを好きなのに、なぜ、誰もスーパーヒーローになりたがらない?」と思い立ち、何の特殊能力も持たないまま、ひとりコスチュームを着てスーパーヒーロー「Kick-Ass(キック・アス)」になる。だが、正義の味方として悪者を退治するのは骨の折れる仕事で、かなり痛い。やがて、傷だらけになりながらもキック・アスとしての活動を続けるデイブの前に、同じ稼業のビッグ・ダディとヒット・ガールが現れる(映画.comより引用)。2010年日本公開作品。監督はマシュー・ヴォーンで、出演はアーロン・ジョンソン、クリストファー・ミンツ=プラッセ、クロエ・グレース・モレッツ、マーク・ストロング、ニコラス・ケイジ。
 
とにかくヒット・ガール役のクロエ・グレース・モレッツが素晴らしいです。撮影当時、小学6年生くらいの小さな体で、汚いスラングを吐きながら、悪党どもを大量殺戮します。ビッグ・ダディ(ニコラス・ケイジ)に仕込まれた高度な戦闘能力と、時折見せる少女の表情のギャップに萌えます。ロリコン趣味の人も、そうではない人もハートを鷲掴みされるでしょう。
 
ヒット・ガールが暴れるシーンで女の子らしいポップな曲を流したり、敵地に乗り込むシーンで『夕陽のガンマン』の曲を流したりと、クエンティン・タランティーノ作品のような音楽の使い方をしています。脚本を務めた『トゥルー・ロマンス』や、監督作の『キル・ビル Vol.2』でアメコミへのこだわりを見せたタランティーノとは、本作が感性的にリンクしているのかもしれません。
 
本作はアメコミ・ヒーローに対する批評をポップで軽やかに表しています。こうした批評をより毒気を強めた表現にすれば、『ウォッチメン』のような作品になります。本作の監督であるマシュー・ヴォーンはイギリス出身であり、「アメリカ的なもの」を客観視できるから、そうした批評ができたのでしょうか(『ダークナイト』三部作でリアルなバットマン像を創造したクリストファー・ノーランもイギリス出身です)。
 
大概のアメコミ・ヒーローは、特殊能力を身に付けたことや特別な境遇にあることで悩みますが、キック・アス(アーロン・ジョンソン)はそれらがないことで悩みます。前者が超人であるのに対し、後者は凡人です。そんな凡人が短い時間だけでも超人に劣らぬヒーローになれる展開は感動的で、「ヒーローとは?」という問題に対する批評になっています。
 
また、本作は「正義とは?」という重い問題に対する批評にもなっています。ビッグ・ダディが悪党を成敗するモチベーションは個人的な復讐心であり、社会治安を守るという正義ではありません。この不確かで揺らぐ「正義」は『ダークナイト』でも描かれており、ビッグ・ダディのコスチュームがバットマンと似ていること関連付けられます。
 
更に、フランク(マーク・ストロング)ら悪党一味は、キック・アスとビッグ・ダディを捕まえ、その「処刑シーン」をインターネットで動画配信します。これは、アメリカがベトナム戦争やイラク戦争において、敵国の兵隊や指導者の「処刑シーン」をテレビ放送したことを思わせます。フランクは「正義のヒーローなんていない」ことを周知させるために行ったのに対し、アメリカは「我らが正義で、彼らは正義ではない」ことを国民に印象付けるために行っています。他者の正義を否定するという点で両者は共通しています。本作はアメコミという枠を超え、国家や社会における正義の問題にまで踏み込んでいます
 
笑わせるアメコミ・ヒーロー物のパロディを装いながら、深く考えさせられるテーマも包含している本作は、只者ではない傑作です。
 
★★★★★(2016年12月5日(月)DVD鑑賞)
 
ニコラス・ケイジは自分の芸名と長男の名前をアメコミから引用するほどのマニアです。
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