村松友視の著書に『ダーティ・ヒロイズム宣言』(1981年7月初版)があります。“プロレス者”としての視点から、プロレスのみならず、芸能まで語ったエッセイ集です。
その中に「タモリと桑田佳祐のプロレス」という章があります。プロレスと言っても「タモリがホストになっている深夜番組のなかでの、アドリブによる歌試合の話」です。おそらく、この深夜番組は「今夜は最高!」のことだと思われます。村松は「このセンスとヴォルテージ、そして歌詞派を蔑む感性によって同じリングに立った二人の歌合戦を」「プロレスの試合を見るようにして画面に食い入った」そうです。
元々タモリは博多の面白い素人でしたが、赤塚不二夫の誘いで上京し、30歳で“ゲテモノ・タレント”として芸能界デビューしました。その後、「笑っていいとも!」で30年以上もフジテレビお昼の顔を務め、ビートたけし、明石家さんまと共に“お笑いBIG3”と称される大御所タレントになったのは、周知の事実です。
桑田は、サザンオールスターズの「勝手にシンドバット」でデビューした時、世間は「コミック・バンド、あるいはその延長」としてとらえていました。その後、「いとしのエリー」で音楽性を評価され、サザンは国民的バンドに成長し、桑田は紫綬褒章を受章するほどになりました。
両者について、村松はこう綴ります。
「(前略)二人を取り囲む者が少数であったとき、その少数との交流を支えた感性が原点であり、それは世間の目からすればダーティであった。その原点と世間との“関係”を表現しながら、二人はデビューしたからだ。
だが、何度もかみしめるように、世間はしたたかな蟻地獄だ。個人がどんなにあがいても、一ミリずつ自分の陣地へと引きずりこんでゆく異様な力をもっている。これは、防ぎようのない現実ではないかと私は思うのだ。」
タモリも桑田も大衆化するにつれ、マンネリという批判も浴びてきました。世間の期待に応えようとすれば、本来の異端の輝きが薄れていくというジレンマを両者は抱えてきたでしょう。本著の刊行は今から34年前の1981年であり、村松の慧眼に恐れ入ります。
更に村松はこう綴ります。
「(前略)蟻地獄の真ん中で、世間に対する最後の悪あがきを見せてくれそうな気配は察することができる。その日まで、一ミリずつ、一ミリずつ、世間という蟻地獄に埋まっていく二人を観察しつづけようと思う。それは、この二人のすべての筋道が消え入らんとする寸前に渾身の力を込めて実現する最大のイベントへの布石となっているからにちがいないからである。」
世間という蟻地獄に埋もれる寸前に、二人が渾身の力を込めて実現する最大のイベントとは何でしょう。その答えは、この文字が新聞のテレビ欄に載った時、見えてくると思います。
ヨルタモリ「桑田佳祐来店!」
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