「自分探し」考察~碇シンジ、竹本君、ヒース・スワンソンの比較による | 圭一ブログ

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圭一のブログです。1984年宮崎県生まれ

2010年、サブカルの命題は「成熟」を描くことになってる。「セカイ系」なんてものがもてはやされているけど、それは表面上のもの。主人公が“自分の殻を破ること”読者は、小手先のシナリオにだまくらされながら、成熟することを追体験してる。

つまり「セカイ系」みたいな大げさな物語は単なる隠れ蓑。みんな「自分探し」を求めてるんだ。

「自分探し」のロールモデルを欲するということ。その欲求はいつの時代も変わらない。だけど冷静に考えてみてほしい。「自分探し」はそんなに重要なテーマなのか?

20歳を過ぎた「童貞」はかつてこんな風に揶揄された。“ケツにひっついた殻”“犬に食わせろ”
今じゃどうだ?今は20歳を過ぎた処女のことを“傘の柄に張り付いたぼろぼろになったプラスチック“なんて言ったりしてる世の中だ。女子のオナニーをテーマにした漫画だって、普通の女の子が普通に読んでる。

セックスをたまたま例に挙げてみたけど、これは単なる一例で何が言いたいかっていうと要するに「自分の殻を破れない若者」が常態化しているってことだ。

一昔前の漫画や小説をみてみろよ。
世界滅亡を防ぐとか、自分や自分の大切な人の命を守るってことが
堂々と作品のテーマになってた。

今の漫画や小説をみてみろよ。
そんなものを堂々とテーマにしてるのは、週刊少年ジャンプくらいだぜ。

「自分探し」は確かに重要なテーマだ。だけどそれは、あくまで一人ひとりの個人的な、ちっぽけな問題であるはずだ。精通を迎えた小学生のパンツを黙って洗う母親、あるいは少女が対峙する食卓の赤飯みたいに、個人が粛々と処理する人生の些事だ。

どうしてみな堂々と「成熟」の物語を描き、読者は大真面目に感動するのか?

そして虚構世界のみならず、現実でも、どうしてみな短い人生のもっとも充実している時期を「自分探し」なんぞに費やすのか?

「自分探し」なんてものは、自分のパンツを洗ってる母親を無視するフリする自分がいたことをきれいさっぱり忘れてしまうみたいに、もっと軽やかに処理するべきだ。

30も間近になって海外逃亡なんてナンセンスだ。
バックパッカーを手放しに賞賛するサブカルの雰囲気が気に食わない。
(そもそも「自分探し」なんて概念はサブカルの雰囲気の中にしか存在しないはずだ)
そして、それを冷ややかに眺める大人たちの視線はもっと気に食わない。

サブカルにおける「自分探しヒーロー」は実は誰かってことを明らかにする必要があるだろう。

90年代の自分探しヒーローは、「新世紀エヴァンゲリオン」の碇シンジくんだ。
そして00年代の自分探しヒーローは、「ハチミツとクローバー」の竹本くん。

碇シンジの置かれた荒唐無稽な状況と、痛々しいまでにハマっていく姿はアニメヲタクのみならず、多くの中高生と精神年齢の低い大人のハートをわしづかみにした。「ガンダム」も似たようなものかもしれないが、あれは所詮閉鎖的なコミュニティの中の祭りみたいなものだ。「ガンダム」がmixiなら「エヴァ」はtwitterみたいなもので、シンジくんは「自分探し」が自己増殖する機能を備えてた。青臭くて見てられないはずの「自分探し」に市民権を与えたのだ。これが90年代後半の出来事。

それからいろんな人たちが影響を受けて、いろんな作品が生まれた。「セカイ系」なんて言葉が生まれ、三島由紀夫の逆ヴァージョンみたいに「文化」はベクトルを外界から内面へ逆行させていった。

そんな閉塞的な雰囲気の中で大ヒットしたのが「ハチミツとクローバー」登場人物全員が片思いの男根喪失物語。(ビームサーベルはもはや時代遅れだってことだ)

主人公の竹本君は、素直で真っすぐで、読者がみんな好きになりそうな好青年だ。だけど20世紀と決定的に違うのは、竹本君が男根を獲得する方向に突っ走るのではなく無計画にママチャリで北海道まで行ってしまうような、額入りの「自分探し」に没頭するってことだ。
(いびつにねじれた「青春の塔」という男根はどこにも到達しない)

彼女が最終兵器とか、サードインパクトがどうのとか、この時代における少年少女が自我を獲得する過程はいろいろややこしかったけど、あまりに清々しい原点回帰だ。竹本君の登場は、ノストラダムスの訪れなかった世紀末アフターにおける一つの帰結だろう。

ただし、シンジくんも竹本君も、社会的に自立している存在ではない。

そう、恐ろしいと思うのは、二人の偉大なヒーローの物語が保護者、あるいはそれに準ずる存在によって庇護された「人生のモラトリアム期間」に起きた出来事だということ。さらにいうなら二人が童貞だっていうことだ。

そんな二人に自分を重ねて、自分が認識できるだけのセカイを重ね合わせて僕らはいつの間にか肉体的に成熟してしまっている。

僕らが人生を生きるなら、こいつらに心酔して終わるんじゃなくてとっととこいつらを越えていくべきだ。パーマネントなロールモデルは提示されず、モラトリアム期間限定のロールモデルだけが提示され、もてはやされる時代。それが今なんだよ。

じゃあ一昔前はどうだったんだ?80年代から90年代半ばにかけては「自分探し」なんてテーマは少なくとも漫画においてはまともに扱われなかった。それは日本が経済的に潤っていたり冷戦構造のあれこれとか、社会的な要因があるのだと思う。ではそれ以前はどうか?60年代70年代なんてのは、今よりもっと熱血的に現実的に「自分探し」が描かれていた時代だ。

そうして現れた、最大の、70年代から80年代の自分探しヒーローは、カリフォルニア物語のヒースだ。
(ヒースを生みだしたのが当時20歳の少女漫画家だったなんて何たる皮肉だろう)

ヒースの過ごした、「保護者、あるいはそれに準ずる存在によって庇護された」時代、それは旅をしてたわけでも、セカイの危機と直面してたわけでもない。ヒースは地元の名士である父親、優等生の兄に反抗しながら
「しこたまドラッグをやって」「ハイスクールのグラウンドをぐるぐる回ってた」

やがて家出して、アメリカ中を旅して、ニューヨークに一旦腰を据えた。

「皿を洗い床をふきツナサンドを作りコーヒーを入れる
 ……そういうことはあなたにとっていったいなにになるのかしら…
 あなたの夢っていったいなに?」

恋人に聞かれて、ヒースはこう答える。

「――難しい質問だな
 そう…前者についてこたえれば…まずカネになる
 ということは生活できるということさ」

「じゃあ後者は?」

「それに関してはまだ未定
 なにしろ生きることにいそがしくてさ
 ツナサンドを作るのもコーヒーを入れるのも
 これすなわち人生!
 ほかにご注文は?」


ヒースは成長したのだろうか?
答えはYesだと思うけれど、そうじゃないかもしれない。「相棒はどうした?」って聞かれて、涼しい顔で「死んだんだ」って答えるヒース。この描写を、少年が大人になったと解釈するか、それとも純粋な少年のままだと解釈するか、それは読者一人ひとりに委ねられるべきだろう。
(ラストでインディアンは、ヒースのことを「少年」と言ってる。
 走り書きを残していなくなるような奴が果たして成熟した大人と言えるのか……)

ヒースが「自分探し」の末に最終的にどのような状態になったか、それは、未知の世界と相対してるってことじゃないだろうか。

シンジくんは成長したのだろうか。
ある結末では彼は自分の閉ざされた世界の中で自己実現を果たし、ある結末では彼は望むと望まざるに関わらず新世界のアダムになった。

竹本君は成長したのだろうか。
4年間の学生生活で彼が出した答えは、宮大工になることと「はぐちゃん、僕は君を好きになってよかった」
ってことだ。

「90年代型自分探し」~シンジくんは未知の世界と相対してるというよりは、既存の世界からひたすら逃げ
「00年代型自分探し」~竹本君においては実年齢と精神年齢がようやく一致したってとこだろうか。

このように、それぞれの時代において、物語世界における「自分探し」の終着点は微妙に異なる。しかしどのような形の答えであっても、すべての「自分探し」において、間違った答えなどないと思う。
そのために体力・気力の充実している時間を投資するのもいいだろう。
学歴や、積み上げてきた社会的信用を犠牲にするのもいいだろう。
ただし、その答えが単に「スタートラインに立つ」ことに終始するのであれば、
以上で紹介した漫画を読むほうがいくらかマシだと真剣に思うのである。

新世紀エヴァンゲリオン (1) (角川コミックス・エース)/貞本 義行

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ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス―ヤングユー)/羽海野 チカ

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カリフォルニア物語 (1) (小学館文庫)/吉田 秋生

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