温暖化について2008summer-急- | 圭一ブログ

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圭一のブログです。1984年宮崎県生まれ

私がブッダのような聖人であり「過去は過ぎ去ってしまった」と

吐き捨ててしまえるならそれでよい。しかし抑えることの出来ない

私の拡大する意識は何億年前、そして何億年後にすら及んでしまうのである。
すなわち昔は氷河期というものがあり氷ばかりの時代もあったぞ?

となってしまうのである。そうするともう手がつけられない。


しかも時間のみならず空間まで支配しようとするから

自意識というのは困ったものだ。

宇宙規模で考えれば地球の温暖化なんてそんなものは単なる気まぐれ、

人類の生存を脅かす大問題が

今日の晩飯のおかずと同じ次元まで落ちてくるのである。

さらに意識は中島みゆき「瞬きもせず」の最後のサビを歌うかのように拡大を続ける。

「瞬きひとつのあいだの一生ぼくたちはみんな一瞬の星

瞬きもせずに息することさえ惜しむかのように求めあう」

仏教では人の意識には次のようなものがあったとする。

まず五感。視覚やら聴覚である。

私たちが世界をそれだけで認識しているかというとまだ足りない。

第六感すなわち心の動きというものがあるために

感動したり絶望したり恋をするのである。


さらに第七感として末那識があるとする。これは自我のことで、

例えば事故で五感が失われ絶望のあまり

第六感さえもその働きを失ったとしよう。

しかしあなたは生きており世界はそこにある。

それは心臓が動いているからではなく、

自我がその働きによって世界を形づくっているという考えである。


さらに第八感として阿頼耶識が存在する。これは無意識のことである。

あなたが死んでしまって第七感まで失われたとしても、

世界は終わらないと仮定する。

あなたがいなくなってしまっても朝はまた訪れ

残された人々は生き続ける世界が残るとする。

それはなぜか。全ての存在には阿頼耶識が内包されており

自我ではなくそれが世界をつくっているという考えである。


かつて自然が無限だとみなされていた頃、

地球環境問題はずっと後の子孫の問題であった。

しかし次第に、近い将来の子孫の問題とされ、

今ではすでに近い将来の自分の問題となった。


環境問題は想像力を必要とするとよく言われるけれども

正確に言うと、想像力なしには

環境問題を考えることは出来ないのではないか。

(そして温暖化のように、空間だけではなく時間も果てしなく広がるときに

 想像力は、仏教でいうところの阿頼耶識と言い換えることも出来る。)


温室効果ガスの可視化、カーボンオフセットなどの運動は

我々の想像力を手助けするのか?

それとも環境問題から想像力を排除するのか?

流行りは廃れるし、ポップアイコンは飽きられる。

必要なのは政治か経済か、それとも宗教か、

はたまた芸術か、それとも革命か?