某学校の中学生と、学校の英語の宿題について話をした。

 

 

「なんでここ、答え合わせ終わってないの?」

「先生がまだ解答を配ってくれないのです。」

 

 

なぜこういう課題の出し方をするのか、不思議で仕方ない…

 

 

   チューリップ

 

 

とうのも、うちの塾は「復習こそ受験勉強」、と言い聞かせているし、復習できない物・するつもりのない物は、最初から手を出すなと言っている。

 

問題が終わったばかりの一番頭がホットな状態のときに復習できないとか、およそ勉強したことのある人なら賛同してもらえそうなのだが、かなり意味がない。 

 

 

「答なんか、最初から全員に配布しておけばいいのにね。」

「そうすると、答えを写す人がいるからダメなんです。」 

 

 

どうやら、毎回毎回課題を提出した人にだけ その都度、答えを配布するシステムになっているみたい。

 

でも、私だったら、答えを写して宿題を終える生徒がいるとしたら、どうぞ写してください、と言うだろう。

 

私なら、課題を出す側としての意図を伝える。それでも言うこと聞かないのなら、それはもう教師が土足で踏み込む問題ではないと考える。 

 

課題の分離、である。

 

そして課題テストは、問題に揺さぶりをかけて、実力をつけている学生が解ける問題を作るだろうから、宿題をやったかどうかという形式的なことは私なら全く意に介さない。っていうか、社会に出たら基本的にそういう仕組みじゃないか? 

 

 

なにより問題なのは、マジメに頑張っている奴が割を食うことだ。 

 

キリスト教的友愛とか、世界的教養人の育成を言うわりには、その教育哲学の根底が「不信」から始まっている感が否めない。

 

 

   チューリップ

 

で、学年通信にはこうあった。

 

塾や家庭教師に頼らず、学校で教員に質問し解決する。

学校を最大限利用し、自分自身で解決する経験を積みましょう。授業後にできるだけ早く不明点を質問し、その都度解決していくことが、学習への主体的な取り組みにつながります。 

 

 

私も塾に頼るような弱い学生がいたら困るから、そこは時間をかけて教育していく。 そして、学習への主体的な取り組みはものすごく大事だと思うので、上記記述には共感する。

 

が、書いていることとやっていることが違うだろ、違うだろー!?

 

 

   チューリップ

 

高校生の課題も3月の段階で全部目を通したが、端的に消化不良になりそうな気がした。 

 

突然学校が休講になったわけが、宿題の出し方が私には異様に見えた。

 

 

先生たちは、他教科の先生が何を課題として出したか、理解しているだろうか?

 

トータルで何時間かかると思っているのだろうか?

 

文系の化学基礎の子にやらせる課題量は、受験から逆算したのだろうか?

 

 

生徒には、ある程度の課題は必要だ。

 

しかし、ある程度は自主的に学習する余地を与えないと。

 

 

どうせ子どもたちは勉強しないからという「不信」に基づいてどさどさ出すというのは、出された方にしてみればたまったものではないし、それではマジメにやろうとしている子たちがやはり割を食うこととなる。