日曜日に、NHKスペシャル「世界初 極北の冒険 デナリ大滑降」を見た。
デナリと言えば、植村が死んだ場所。
およそ冒険家でデナリを目指すのであれば、間違いなく植村が死んだとこだと知っているだろうし、
デナリを目指すことははまちがいなく、命を賭けている自覚がその人にあることを意味する。
常人からしてみれば、なんと危ないことで、
そんなことやめればいいのに、と思うかもしれない。
スキーに価値を見出せない人は、間違いなくそう思うだろうし、
命を粗末にするな、命を大切にしろ、とこれまで学んできたら、なおさらそう思えるだろう。
しかし、日本男児として、なんというか、武士の心がまえ的なものとして、
どこで命を使うか、というのはなんか共感できる気がした。
命をただただ大切に、ではなくて、命をどう使うか。
不惑を過ぎて、そのようなことを思い始めた。
吉川英治著「宮本武蔵」の、木魂、という章を思い出す。
武蔵が吉岡一門と対決する前夜の記述だ。
長生きに必ずしも価値があるわけではなく、短くとも何をしたかで人生の価値は決まる、とあった。
受けた生をどこで使うか、そこにこそ自分の一生の価値が見いだせる気がする。
何気なく見た番組だったが、かなり説得力があった、
怖いくらいに自分には説得力のある番組だった。
自分は、命を守って守って守りきって死ぬよりかは、
どこかで命の行使をしてみたい、と思った。
要するに、人生の大切な場面では
惜しむことなく命を賭けなければ、と思った。