以下、産経抄より引用。
居眠りする生徒が悪いのか、単調な授業が悪いのか
いまは亡き立川談志さんが地方で務めた高座で、事は起きた。「やってられるか」。名人芸に満座がどかんと沸く中、談志さんが仏頂面で座布団から立った。最前の客が1人舟をこいでいる。客はつまみ出された。
▼毒舌で鳴り響く人の前で居眠りとは、よほど太く丈夫な神経の持ち主に違いない。退席させられた客は後日、主催者側に損害賠償を求め、あえなく敗訴した。談志さんも、いい面の皮である。判決直後の談話が残っている。「今度は、居眠りしないで聞きに来い」。
▼演者と客の関係を教師と生徒に置き換えても、同じ真剣勝負の舞台だろう。ただし居眠りさせた側の力不足と居眠りした側の気の緩み、どちらに非があるかは判断が難しい。授業中に「居眠りする」と答えた高校生の割合は、日本が15・0%と突出しているという。
▼国立青少年教育振興機構が日本や米国、中国、韓国の高校生に行った、昨年の意識調査である。「居眠り」は授業態度とリンクしているらしい。「問題意識を持ち、聞いたり調べたりする」は12・3%で、中国の52・7%や、米国の34・5%と比べて極端に少ない。
▼「高い社会的地位に就く」(13・8%)や「リーダーになる」(5・6%)など将来的な野心も、4カ国の中で最も低い。脂ぎった欲が薄いということかもしれない。授業態度に見られる「受け身」の姿勢が、淡泊な人生観に投影されているのだとすれば悩ましい。
▼「単調は退屈の母」とは漫談家、徳川夢声の警句である。機構側は教員の側に「授業観の改善が必要」と生徒の意欲を引き出す工夫を求めるが、若者たちの人生観を変える刺激も必要だろう。泉下の談志さんに、お知恵を借りたいところである。「やってられるか」とは言うまい。
以上。引用終わり。
http://www.sankei.com/column/news/170319/clm1703190004-n1.html
正直、うちの塾にも寝ている人はいるw
そして、それに対する自分の態度も、相手や時に応じて、様々だ。
叱ったり、放置したり…。
さて、立川談志の上記の件は、よく覚えている。
当時の自分は、客が正しい、と思っていた。
というのも、サービスを購入した客は、そのサービスをどう受けようと、それは客の自由だと思っていたから。
しかし、裁判所は客を敗訴にしたというのは、理由はよくわからないが、それは牛丼屋に入って牛丼を購入しながら、それを食わずに持ち込んだ弁当を食っているのが許されないと考えれば、わかる気もする。
つまり、食堂には、食堂としての目的があり、その目的にかなった使用をすべきという義務が客にはあり、経営者はその施設運営権がある、ということだ。
だから、漫才を聞きに来て寝ている客がいたら、それは営業妨害、という見方も十分に成立する、のかもしれない。
しかし、レストランと違って、教室での睡眠というのは、もっともっと深い問題である気がする。
子どもたちが寝る理由というのは、実に様々だと思うからで、致し方ない場合もあると思う。
だから自分の対応も、一概にどうするかは言えないし、今後も決まった対応を取ることはしないと思う。
それでも、何度も何度も寝てばかりいると、ドカンといくのだがw
先日、中学1年生があまりにも授業中に落ち着きがないので、「子どもたちはなぜ人の話を聞かないのか、不思議で仕方ない」と言ってみた。
そしたら、「先生の授業がつまらないからだ」と即答されたwww
しかし、中学生の英語を面白く教えろと言われても、それは結構ムチャな注文で、
英語の授業は英文の内容により面白さが左右されるのだから、習い始めはとくにつまらない。
世の中には、テレビはケータイなど、ワンタッチで娯楽・快楽を与えるものが氾濫しているから、英語の授業よりも面白いものは山ほどあるだろうけど、
自分にとって楽しいものしか受けつけないという姿勢も誤りであると、知ってもらいたい。
勉強、あたまを使う、ということは、楽しいことでもあるし、大変なことでもあるし、しかしとても大切なことなのだ。
あと、やはり教える側の問題だろうが、日本の教育は受験でスコアが取れればよいという教育をやっているので、それではどうしても教室では、考えさせるということよりも、知識を伝えるということに終わってしまう気がする。
これでは、授業がつまらない、ということになりかねない。それこそ、単調は退屈の母になってしまうからだ。
要するに、授業中の睡眠については、どちらかが悪いのではなく、どちらも悪いということで、
やはり双方の理解が必要なのだと思う。