怠け数学者の記 (岩波現代文庫)/小平 邦彦
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著者紹介

東京生まれの数学者。生年1915。数学界のノーベル賞とも目されるフィールズ賞を日本て初めて受賞。また、わが国の教育、特に数学教育に対して積極的に提言・批判されたことでも有名。没年1997。

この本は、数学者である作者のエッセー集。前半にはプリンストン高等研究所滞在中の日記が書かれており、後半には数学に関するいくつかのエッセーが収録されている。内容は作者の数学観や、数学教育への批判など。

さて、本書の中では「数学理解は論理的というよりは感覚的なものである」とする、著者の数学観が紹介されてます。著者はこの数学理解の源泉となる感覚を「数覚」と名づけ、たとえばある公式なりを学ぶ際にその証明に取り組むのは、その論証の正しさを確かめるためではなくて、証明を通じて公式の感覚的理解(すなわち「数覚」)を養うために他ならない、と述べ、ひとたびその公式に対する感覚的理解が養われたなら、証明自体は忘れてしまってかまわない、と述べています。

こう書くと、なんだか著者が論証自体を軽視しているような印象を受けますが、一流の数学者である著者が論理を軽視するはずはないわけで・・・

~ヒルベルトの幾何学基礎論では、「点」、「直線」、などは意味のない無定義語であって、「鯨」、「豚」、などで置き換えてもいっこうに差支えないということになっていますが、われわれが、たとえば「三角形の内角の和はニ直角に等しい」という定理を証明するときには、やはり三角形を紙上に描くかまたは頭の中で想像しているのであっ
て、その代わりに三頭の鯨と三匹の豚の絵を眺めていれば、証明は不可能でしょう。(p164)


数学を理解するには数覚によってその数学的現象を感覚的に把握しなければならないのであって、論理だけではどうにもならないのである。 (p24)


要は、著者にとって、論理は、数学的実在を捉えるための必要条件であるが十分条件ではなく、論理は、数覚を磨くための手段・理解の事後的保証とはなるが、数学を理解する上での決定打とはなりえない。決定打はあくまで「数覚」に他ならない、と言っています。

非常に納得のいく話で、自分が昔読んだときに、「なるほどっ!」と思った記憶があります。


さて、受験レベルの数学でももちろん「センス」があるに越したことはないわけですが、仮にそれほどなくても、本人に「その気」があって、さらに時間とエネルギーを十分割けば、センターレベルなら6割とらせられると思います。


(元楽天の)野村監督の「弱者の兵法」ではないですが、苦手なら苦手なりの戦い方があると思うわけですね。

それについては、また次回、書いていきたいと思います。