■■ 中川八洋著「歴史を偽造する韓国」2002年徳間書店 ■■
< 第十一章 「在日」の公務員権・参政権は「反日」運動 >
◆ 過剰寛容の逆効果
日本国民でないのに日本国の公務員への任用と参政権を要求する一部の在日韓国人(備考)があとを絶たない。健全な日韓関係を阻害するこの問題は、在日韓国人・朝鮮人の「(法定)特別永住者」(人管特例法第三条)に対して、日本がこれらの要求を認めてあげれば万事がすべて解決するほど、生易しい問題ではない。日本国に居住する「特別永住者」の一部がなしている、日本国に対するこの種の要求は必ず無限にエスカレートしていくから、この問題への安易な譲歩は、日韓両国に新しいトラブルをつくり、さらなる深い溝を掘るだろう。
(備考)在日の北朝鮮籍の方は、現時点では表向きの要求はしていない。が、在日の韓国籍に認めれば北朝鮮国籍者にも適用されるから、日本にとっては同じである。以下、韓朝の区別はしていない。
在日韓国人・朝鮮人(以下「在日」ともいう)は、今日の世界でいかなる国にも類例をみない破格の待遇を受けている " 外国人 " である。彼らの日本在留は無期限である。しかもビザなしで就労、商業その他の一切の活動ができ、それはまた無制限である。しかし、彼らは日本に感謝することはない。そればかりか、日本の過剰な寛大さが「特別永住者」の増慢を招き、ブーメラン的に日本は怨みを買っている。彼らが日本国民とほぼ同一に扱われて、差別が限りなくゼロであるそのことが、「反日」運動をし続けるしかない道に追いやっている。なぜなら、祖国は日本以外の国である(=日本国民ではない)と、心理的にたえず自らに証明していかない限りアイデンティティが定まらないのが、「在日」の実態であるからだ。ならば、「祖国」(朝鮮半島)に帰るべきである。
一般的にも、在日外国人のまま祖国の母国語すらうまく喋れなくなって、しかも日本人的な思考方法をするに至った二世以下にとって、帰化(日本国籍の取得)せずに自分は外国人なのだと自分に納得せしめる方法として「反日」運動ほど簡便なものはないだろう。特に、日本という国家そのものを「簒奪」する気構えほど自己の存在を簡単に確認させてくれるものはない。だから、理論的には、日本が日本国でなくなって「多民族の共生」する " 無主の地 " へもしくは " 共同統治の地 " になるまで、「在日」の国籍差別撤廃闘争は決して終焉しない。
なお、米国に移民した日本国民の二世以下はほぼすべて米国籍を取り米国民となった。「準・米国民」でなく「純・米国民」になった。そのことが、日米同盟という友好のレベル以上の今日の日米関係にとってもプラスになった事実は、永遠に「日本人に準じる外国人」としてあげる「特別永住者」制度には、制度疲労以上の欠陥があることを示している。
外国人とは、当り前すぎることだが、日本国民でない人々をいう。このことを適格かつ正しく表現すれば、外国人とは " 非・国民 " と定義される。故に、ある一国内に居住する " 非・国民 " と " 国民 " との間に区別(差別)をなくすとすれば、" 国民 " とは誰かが特定できなくなるから、国民をもって構成される国家は溶解する。朝鮮半島出身の「特別永住者」の一部は、この形での、日本国の溶解(メルトダウン)を最終目標としている。「在日」の公務員権と参政権問題の本質は、日本という国家の消滅に究極的につながっていく恐れの問題である。
なぜなら、公務員権と参政権を「在日」に付与することは、日本国民をこれらの " 非・国民 " と完全同一に扱うことであり、日本国民の方を " 非・国民 " 並みにすることである。日本国民の方が自らアイデンティティを喪失する事態に必ずなっていく。公務員権と参政権問題は、日本側のどんな形の譲歩でも、日本人の方が必ずその国民精神を喪失するに至る。しかも、この運動をしている " 非・国民 " の「在日」は、日本国民がどんな要求にも黙って従順に屈するまで攻撃の手を緩めない。この問題には解決がない。終りがない運動だからである。
一般に、世界の国々が、国民と外国人の間にとてつもない厚い壁の差別を実施している理由は、これである。この差別なくしては、国民と外国人とのボーダーが消えて国家そのものが " 浴解 " してゆくからである。現に、韓国も、外国人の在留は三年までと制限し、その延長は三年ごとに審査している。韓国はまた、外国人の土地(住宅)取得は二〇〇坪以下と厳しい。一方、「特別永住者」の「在日」に対し、日本はこのような制限をいっさいしていない。
そればかりか、仮に日本が、憲法を含めて日本国の法令や " 当然の法理 " に反してまで公務員権や参政権を現在約五八万人の " 非・国民 " に付与すれば、相互主義(レシプロシティ)を原則とする国際社会の規範(ルール)において、日本は韓国・北朝鮮に対して対等な主権国家でなくなる。それは日本が、" 韓国(北朝鮮)の属邦である " と自ら宣言するに等しい。日本は、韓国(北朝鮮)を宗主国とする新・華夷秩序下の属邦となりつつある。
韓国に永住している日本国民に対して、韓国は、国レベルはむろん地方であれ参政権を付与していない。とすれば、同等の地位にある在日の韓国(北朝鮮)国籍者もまた、決して付与されてはならない。そうでないとすれば相互主義の国際ルールに反する。公務員権も同じで、在韓の日本人は誰も公務員になっていない。「在日」の参政権等の要求は、「国際化」にもとる。「国際化」とは国際社会のルールに従い、これを遵守することである。
また、「在日」にかぎらず、外国籍のものが「国民の権利(義務)」として日本国民のみに与えられた日本国の国政や地方の政治に参画することは、在日外国人による日本の国家主権に対する侵害行為である。それなのに、二〇〇二年一月十八日、滋賀県米原町は「特別永住者」ではなく、なんとたった三ケ月以上の町内在住の外国人滞在者を「永住外国人」と定義し、投票権を与えた。実際に十三名の外国人が投票した(同年三月三十一日)。日本は国として確実にメルトダウンしている。
◆ 直ちに全廃すべき「特別永住者」制度
戦後五十年を経て日本がなすべきは、入管法の特例を定めた入管特例法を改正して、「特別永住者」制度を全面的に廃止することである。国際社会の原則たる相互主義に従って、韓国と同じく、「在日」に対して在留三年毎にこの在留許可を審査する制度に改正するのが正しい。
韓国併合によって、「在日」の彼らはかつて「日本国民(日本臣民)」の地位を与えられ、選挙権も被選挙権も日本人の日本国民と完全に同一であった。つまり、一九六五年の日韓基本条約の付属協定において日本が認めたこの特別永往者制度こそは、韓国併合の残滓である。「在日」は韓国併合を非難し糾弾する。それなのに、韓国併合時代を懐しむかのごとく、「圧制」の象徴の一つと彼らがなじる前世紀の遺物を、戦後五十年以上も経った二十一世紀に、「在日」はなぜ既得権益として保持しようとするのか。附属協定第一条の全面改訂こそ急がれる。
一九四五年八月の日本の敗戦によって、韓国も北朝鮮も日本から独立し、主権国家となった。在日韓国人・朝鮮人にそれぞれの国籍が与えられた。彼らがこれらの国々を「我が祖国」と選んだ意志を日本国は尊重した。そして、一九五二年のサンフランシスコ条約によるGHQ占領の終了とともに、「在日」の朝鮮半島人はすべて、日本にとって完全な " 外国人 " となった。 " 外国人 " であれば、日本国の法令に従ってもらわねばならない。国際社会の基本ルールも尊重してもらわねばこまる。
公務員権も参政権も、彼らの各自の祖国に帰国すれば与えられるのである。帰国は自由であって、日本国は歓迎する。帰国を強制的に阻んではいない。日本とは、北朝鮮のごとく、日本人妻の帰国を約三十年以上も阻む、人権の全面無視すらする「悪の帝国」とは対照的な文明国家である。日本の国家主権に対する損傷的行為をなそうとする " 外国人 " に対して、帰国を強制する立法を日本は考える時がきている。
戦後五十年を経て今も日本を苛む、「在日」の無理難題は、韓国併合政策が軽率にもその名の通りの「併合」であって「植民地」でなかった、日本外交の拙劣で愚かさであったことに帰因している。彼らを「植民地人」でなく、日本国籍を与え「日本国民」とし、日本国民と平等の地位と権利を与えたことが原因である。「在日」の彼らには、選挙権はむろん被選挙権まで与えられた。帝国議会の衆議院議員になったものもいる(朴春琴、一九三二年と一九三七年に当選。市会議員も延べ三〇名ほどいた。日本国の公務員や軍人になったものは無数であった。
なお、この事実は朝鮮が日本の植民地でなかった端的な反証である。独立前の植民地のインド人は、「在英」してもその宗主国のイギリスの国会議員に一人でもなりえなかった。そもそも被選挙権どころか、選挙権すら与えられなかった。
もう一つ、日本が決して忘れてはならない事実がある。マッカーサー元帥のGHQ(総司令部、一九四五年九月五二年四月)は、「在日」の韓国人・朝鮮人の " 帰国(引揚げ) " に過剰なほどの支援をなした。すべての希望者に帰国のための無料の船便を提供した。日本の官憲に対して「全員帰国を達成せよ」と厳しく命じた。つまり、現在の在日韓国人・朝鮮人とは、このとき、たとえ政治的に差別されようとも " 外国人 " として日本に残った方が経済的に有利であるとか、日本の方が自国よりも相対的に好きとか、の自由意思を頑なに貫き、GHQの「好意」を断固拒絶したもの、およびその子供や孫たちである。自ら " 外国人 " の地位を選択したが故の「在日」であり、その子孫である。それなのに " 外国人 " として扱われることを「差別」と称するのは、詐欺そのものであろう。
◆ 納税と選挙権
「在日」の公務員権・参政権の要求は、一種の「反日」闘争である。だから、ヒットラーが政権を掌握していく過程に似て、さまざまな偽情報宣伝を展開する。偽情報宣伝の主なものは、① 税金を払っているのに選挙権・被選挙権等がないのはオカシイ、② 参政権等は「人権」であるから、参政権等の制限は「人権」制限である、③ 国際協調主義の日本の国是においてもボーダレス化か世界の趨勢であることにおいても外国人への参政権等の禁止は時代錯誤である、④ 地方分権の名において住民自治は拡大されるべきであり、永住の在日外国人とは「住民」にほかならず、地万参政権も地方公務員への任用も自治の拡大の一貫として当然、などである。
だが、一見もっともらしいが、これらのいずれも、真摯に考察すれば全く合理性がない。詭弁もしくは政治宣伝(プロパガンダ)ばかりである。
まず納税についていえば、これが参政の権利(義務)に直結しないのは明らかすぎる。在日外国人は、納税額以上の反対給付を得ている。日本の安全(犯罪発生率の低さ)、充実した子弟のための公教育、高度な経済政策による高賃金、道路や他の交通機関の発達、・・・・などは、過去の何世代にもわたる祖先を含めて " 日本国民 " が長い歴史を通じて営々と積み重ねてつくり上げたものであり、" 日本国民 " である日本人の祖先の汗の結晶である。ところが、在日外国人は、祖先の汗と納税なしにこれを享受できる。在日外国人の所得税や住民税の額は、日本国民の三四倍ぐらいにしてもなお公平ではない。
もしそうでないと「在日」の朝鮮半島人が思うならば、それぞれの祖国に帰国して同額の所得税等を払えば韓国や北朝鮮で日本と同一水準の日々の生活が可能になるのか、自問してみればわかろう。例えば、一日二食で米すらもなく魚や食肉はむろんない、餓死寸前もしくは大量の餓死がでている北朝鮮人民の悲惨なあの実情において、この地で日本在留時の十倍あるいは百倍の所得悦を納税しても北朝鮮で日本並みの生活は可能とはなりえない。
すずめの涙ほどの納税をなした、それを理由にしての、「国民の権利」たる参政権や公務員権まで破廉恥にも要求する非常識な「在日」の " 非・国民 " は、「在日」のほんの一部であろうから、彼らの「帰国」の強制措置を考える時がきている。日本は「特別永住者」の朝鮮半鳥人を必要とはしていない。国家主権を侵害する在日外国人と " 共生しない権利 " を主権国家は有している。別な表現をすれば、日本は在日韓国人・朝鮮人の税金(所得税や住民税等)を一円も必要としていない。払ってもらわなくてよい。その代りに、帰国してもらいたい。
「人権」の理屈も、納税のそれと同様に、巧妙なレトリックである。しかし、日本では「人権」の二文字は魔語である。日本人の多くは「人権(人間の権利)」の前に怯え、おののき、ひざまずく。二文字魔語「人権」は現代日本を支配する " 妖怪 " である。だから「特別永住者」の参政権闘争も公務員権闘争も、悪質なその脆弁に「人権」をふり回す。
「人間の権利」とは「国民の権利」と似ているが同じでない。「人間の権利」は、「国民の権利」のほんの一部であって、つまり一部のみ重なるが全部でない。なぜなら、「人間の権利(人権)」とは、国家誕生(文明)以前の未開人や動物ですら有している生存の権利のことを意味する。一方、「国民の権利」の方は、文明の精華としての歴史と伝統をもつ国家を前提としてその国家を発展せしめてきた各世代の国民が有していた権利を " 相続 " した権利を指す。「人間の権利」と「国民の権利」は、その本質において決定的に相違する。
政治亡命者や難民受け入れが「人権」問題とされるのは、彼らが母国において、動物や家畜ですら享受できる生命すら不当に奪われたり、最低限の生活すら不可能な事態に対して、それらから救済してあげたい倫理性と仁慈性を我々がもつからである。
一方、「特別永住者」について言えば、日本に威張って居住し、なかには日本国民以上の高い生活をし日本人以上にふんだんに金儲けをする自由まで付与されている。その生命や生存が保障されているだけでなく強制帰国の心配も皆無である。それは「人権」保障としては余りに十全にすぎ過剰である。また、日本国憲法の第三章すべては、「国民の権利及び義務」の規定であって、「人間の権利(義務)」を定めたのではない。日本国憲法から在日外国人のための「人権」を論じることは法理において無理であり謬論にすぎない。
さて、「国際化」だから外国人にも参政権・公務員権をという、謬説にも触れておこう。政治分野の国際関係はすべて国家を絶対単位としてなりたっており、「ボーダレス」は経済その他の分野では現象として存在するものの、政治や宗教の分野では存在していない。政治の「ボーダフル」性は永遠に変らない。この「ボーダフル」とは逆の、国際政治に「ボーダレス」を持ち込むことは帝国主義的な行動であって、例えば日本と韓国の間の「ボーダレス」化か、一九一〇年の韓国併合ではなかったか。一九四五年の韓国の主権回復とは、「ボーダレス」を排して「ボーダフル」の達成であった。が、こんなことが「在日」には理解ができないのである。
「ボーダフル」こそ、一部の強大な国家を除き、自由を希求する世界の大多数の民族の悲願である。「ボーダフル」は国際政治における永遠の価値として追求されている。これは人類の未来永劫に変らない。チェチェン人もコソボの人々も命を棄てて「ボーダレス」からの脱却を図っている。国家否定的な「ボーダレス」礼讃を背景にした「国際化」論は、現実を無視している。胡散臭さに満ちている。他民族支配の " 目由の圧搾 " を是としている。
在日朝鮮人は、「祖国」北朝鮮に宗教的なほどの忠誠を誓い、この祖国のためにさまざまなスパイ活動までなしている。それは、在日朝鮮人が日朝の間に極度のボーダ(国境)を設定しているからである。日本を害して北朝鮮を益することは、反「ボーダレス」の極みではないか。
国際関係は相手国の存在を前提とし相手国との相対で成立している。だから、不法かつ異常な「ボーダフル」論に立脚する相手国に対して、日本が「優しさ至上主義」で無原則の「ボーダレス」論にとらわれた対応は、相互主義に反するし、これはどの双方の非対称性を全面無視することにおいて国際関係の道理・条理にも反している。
また、人類の文明社会は法秩序で成り立っており、それは国家を単位にしたときのみ実効あるものとなりうる。それなのに、アフリカの草原における雑多な野生動物の共存共生のあり方を理想とした、仮構の「多民族共生」をイメージして、日本人を惑わし洗脳し、それをもって「国際化」であるとか、時代の趨勢であるとか、などの奇論が在日外国人と法曹界・学界から執拗にキャンペーンされている。その狙いが、日本を国家として機能不全と自己破壊に陥らせることにあるのは、いうまでもないだろう。
◆ 外国人による日本支配・・・・大激減する出生率の結果
日本の出生率はすでに一・四を割っている。病気や交通事故で若くして死亡するものがいるので出生率二・〇八が人口維持の最低ラインであるのに、日本史始まって以来の最悪の危機である、この出生率問題に日本は取り組もうとはしない。ある学者は、技術革新その他で人口減のデメリットを補い、国力や社会保障その他が維持されうる最低ラインは一・八六だという。日本のは、それすら大幅に下回っている。このような異常なほど低い出生率は敗戦国のドイツと日本など僅かしかない。数字一・四未満は、日本の近未来を絶望的なものにしている。日本の亡国は確実だと断定してよい。
著者(中川)は、二〇八〇年頃に、日本の人口は三千万人以下となると計算している。もしこの推計が正しければ、現在の住宅・・・・すべて堅牢だとする・・・・の四分の三は廃屋となるか、外国人が入居している。荒涼たる風景である。少なくとも、百年先の日本で外国人の方が、日本国民と同数以上の過半数になっている事態は、ありうる未来像である。外国人の人口比三〇%ならば、まず確実に発生している。国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口」は、年金財政などの破綻を国民の眼からごまかすために将来人口を徹底的にごまかしている。そこにある数字は何もかも、数学的に改竄された嘘にすぎない。
この三〇%を仮定して、仮に在日外国人すべてに地方参政権を与えるとすれば、彼らは日本の特定地域に集中して居住するので、地方によってはこれらの流入してきた外国人やその子孫たちの方が絶対多数を占めている。これらの地方自治体では、外国人が主役で日本人は脇役(支配される少数民族)となるはずである。国政レベルでも三〇%もあれば、外国人が、日本の政治をほとんど牛耳ることが可能である。今は一%にすぎないから問題ないと参政権や公務員権を与えれば、あとになってとんでもないことになったと騒いでもとり返しはつかないのである。すべての不幸は、我々の子孫にふりかかってくる。
政治は「国家百年の計」であり百年先まで考えるべきである。とすれば、日本がすでに直面しているのは、" 国家とは国民による統治の共同体 " という、世界に普遍的な国家の原理をいかに死守していくかである。「在日」の公務員権・参政権要求の問題に対する日本の正しい選択と解答は、すでに明らかである。
(一九九六年秋記、既発表、一部加筆)

< 第十一章 「在日」の公務員権・参政権は「反日」運動 >
◆ 過剰寛容の逆効果
日本国民でないのに日本国の公務員への任用と参政権を要求する一部の在日韓国人(備考)があとを絶たない。健全な日韓関係を阻害するこの問題は、在日韓国人・朝鮮人の「(法定)特別永住者」(人管特例法第三条)に対して、日本がこれらの要求を認めてあげれば万事がすべて解決するほど、生易しい問題ではない。日本国に居住する「特別永住者」の一部がなしている、日本国に対するこの種の要求は必ず無限にエスカレートしていくから、この問題への安易な譲歩は、日韓両国に新しいトラブルをつくり、さらなる深い溝を掘るだろう。
(備考)在日の北朝鮮籍の方は、現時点では表向きの要求はしていない。が、在日の韓国籍に認めれば北朝鮮国籍者にも適用されるから、日本にとっては同じである。以下、韓朝の区別はしていない。
在日韓国人・朝鮮人(以下「在日」ともいう)は、今日の世界でいかなる国にも類例をみない破格の待遇を受けている " 外国人 " である。彼らの日本在留は無期限である。しかもビザなしで就労、商業その他の一切の活動ができ、それはまた無制限である。しかし、彼らは日本に感謝することはない。そればかりか、日本の過剰な寛大さが「特別永住者」の増慢を招き、ブーメラン的に日本は怨みを買っている。彼らが日本国民とほぼ同一に扱われて、差別が限りなくゼロであるそのことが、「反日」運動をし続けるしかない道に追いやっている。なぜなら、祖国は日本以外の国である(=日本国民ではない)と、心理的にたえず自らに証明していかない限りアイデンティティが定まらないのが、「在日」の実態であるからだ。ならば、「祖国」(朝鮮半島)に帰るべきである。
一般的にも、在日外国人のまま祖国の母国語すらうまく喋れなくなって、しかも日本人的な思考方法をするに至った二世以下にとって、帰化(日本国籍の取得)せずに自分は外国人なのだと自分に納得せしめる方法として「反日」運動ほど簡便なものはないだろう。特に、日本という国家そのものを「簒奪」する気構えほど自己の存在を簡単に確認させてくれるものはない。だから、理論的には、日本が日本国でなくなって「多民族の共生」する " 無主の地 " へもしくは " 共同統治の地 " になるまで、「在日」の国籍差別撤廃闘争は決して終焉しない。
なお、米国に移民した日本国民の二世以下はほぼすべて米国籍を取り米国民となった。「準・米国民」でなく「純・米国民」になった。そのことが、日米同盟という友好のレベル以上の今日の日米関係にとってもプラスになった事実は、永遠に「日本人に準じる外国人」としてあげる「特別永住者」制度には、制度疲労以上の欠陥があることを示している。
外国人とは、当り前すぎることだが、日本国民でない人々をいう。このことを適格かつ正しく表現すれば、外国人とは " 非・国民 " と定義される。故に、ある一国内に居住する " 非・国民 " と " 国民 " との間に区別(差別)をなくすとすれば、" 国民 " とは誰かが特定できなくなるから、国民をもって構成される国家は溶解する。朝鮮半島出身の「特別永住者」の一部は、この形での、日本国の溶解(メルトダウン)を最終目標としている。「在日」の公務員権と参政権問題の本質は、日本という国家の消滅に究極的につながっていく恐れの問題である。
なぜなら、公務員権と参政権を「在日」に付与することは、日本国民をこれらの " 非・国民 " と完全同一に扱うことであり、日本国民の方を " 非・国民 " 並みにすることである。日本国民の方が自らアイデンティティを喪失する事態に必ずなっていく。公務員権と参政権問題は、日本側のどんな形の譲歩でも、日本人の方が必ずその国民精神を喪失するに至る。しかも、この運動をしている " 非・国民 " の「在日」は、日本国民がどんな要求にも黙って従順に屈するまで攻撃の手を緩めない。この問題には解決がない。終りがない運動だからである。
一般に、世界の国々が、国民と外国人の間にとてつもない厚い壁の差別を実施している理由は、これである。この差別なくしては、国民と外国人とのボーダーが消えて国家そのものが " 浴解 " してゆくからである。現に、韓国も、外国人の在留は三年までと制限し、その延長は三年ごとに審査している。韓国はまた、外国人の土地(住宅)取得は二〇〇坪以下と厳しい。一方、「特別永住者」の「在日」に対し、日本はこのような制限をいっさいしていない。
そればかりか、仮に日本が、憲法を含めて日本国の法令や " 当然の法理 " に反してまで公務員権や参政権を現在約五八万人の " 非・国民 " に付与すれば、相互主義(レシプロシティ)を原則とする国際社会の規範(ルール)において、日本は韓国・北朝鮮に対して対等な主権国家でなくなる。それは日本が、" 韓国(北朝鮮)の属邦である " と自ら宣言するに等しい。日本は、韓国(北朝鮮)を宗主国とする新・華夷秩序下の属邦となりつつある。
韓国に永住している日本国民に対して、韓国は、国レベルはむろん地方であれ参政権を付与していない。とすれば、同等の地位にある在日の韓国(北朝鮮)国籍者もまた、決して付与されてはならない。そうでないとすれば相互主義の国際ルールに反する。公務員権も同じで、在韓の日本人は誰も公務員になっていない。「在日」の参政権等の要求は、「国際化」にもとる。「国際化」とは国際社会のルールに従い、これを遵守することである。
また、「在日」にかぎらず、外国籍のものが「国民の権利(義務)」として日本国民のみに与えられた日本国の国政や地方の政治に参画することは、在日外国人による日本の国家主権に対する侵害行為である。それなのに、二〇〇二年一月十八日、滋賀県米原町は「特別永住者」ではなく、なんとたった三ケ月以上の町内在住の外国人滞在者を「永住外国人」と定義し、投票権を与えた。実際に十三名の外国人が投票した(同年三月三十一日)。日本は国として確実にメルトダウンしている。
◆ 直ちに全廃すべき「特別永住者」制度
戦後五十年を経て日本がなすべきは、入管法の特例を定めた入管特例法を改正して、「特別永住者」制度を全面的に廃止することである。国際社会の原則たる相互主義に従って、韓国と同じく、「在日」に対して在留三年毎にこの在留許可を審査する制度に改正するのが正しい。
韓国併合によって、「在日」の彼らはかつて「日本国民(日本臣民)」の地位を与えられ、選挙権も被選挙権も日本人の日本国民と完全に同一であった。つまり、一九六五年の日韓基本条約の付属協定において日本が認めたこの特別永往者制度こそは、韓国併合の残滓である。「在日」は韓国併合を非難し糾弾する。それなのに、韓国併合時代を懐しむかのごとく、「圧制」の象徴の一つと彼らがなじる前世紀の遺物を、戦後五十年以上も経った二十一世紀に、「在日」はなぜ既得権益として保持しようとするのか。附属協定第一条の全面改訂こそ急がれる。
一九四五年八月の日本の敗戦によって、韓国も北朝鮮も日本から独立し、主権国家となった。在日韓国人・朝鮮人にそれぞれの国籍が与えられた。彼らがこれらの国々を「我が祖国」と選んだ意志を日本国は尊重した。そして、一九五二年のサンフランシスコ条約によるGHQ占領の終了とともに、「在日」の朝鮮半島人はすべて、日本にとって完全な " 外国人 " となった。 " 外国人 " であれば、日本国の法令に従ってもらわねばならない。国際社会の基本ルールも尊重してもらわねばこまる。
公務員権も参政権も、彼らの各自の祖国に帰国すれば与えられるのである。帰国は自由であって、日本国は歓迎する。帰国を強制的に阻んではいない。日本とは、北朝鮮のごとく、日本人妻の帰国を約三十年以上も阻む、人権の全面無視すらする「悪の帝国」とは対照的な文明国家である。日本の国家主権に対する損傷的行為をなそうとする " 外国人 " に対して、帰国を強制する立法を日本は考える時がきている。
戦後五十年を経て今も日本を苛む、「在日」の無理難題は、韓国併合政策が軽率にもその名の通りの「併合」であって「植民地」でなかった、日本外交の拙劣で愚かさであったことに帰因している。彼らを「植民地人」でなく、日本国籍を与え「日本国民」とし、日本国民と平等の地位と権利を与えたことが原因である。「在日」の彼らには、選挙権はむろん被選挙権まで与えられた。帝国議会の衆議院議員になったものもいる(朴春琴、一九三二年と一九三七年に当選。市会議員も延べ三〇名ほどいた。日本国の公務員や軍人になったものは無数であった。
なお、この事実は朝鮮が日本の植民地でなかった端的な反証である。独立前の植民地のインド人は、「在英」してもその宗主国のイギリスの国会議員に一人でもなりえなかった。そもそも被選挙権どころか、選挙権すら与えられなかった。
もう一つ、日本が決して忘れてはならない事実がある。マッカーサー元帥のGHQ(総司令部、一九四五年九月五二年四月)は、「在日」の韓国人・朝鮮人の " 帰国(引揚げ) " に過剰なほどの支援をなした。すべての希望者に帰国のための無料の船便を提供した。日本の官憲に対して「全員帰国を達成せよ」と厳しく命じた。つまり、現在の在日韓国人・朝鮮人とは、このとき、たとえ政治的に差別されようとも " 外国人 " として日本に残った方が経済的に有利であるとか、日本の方が自国よりも相対的に好きとか、の自由意思を頑なに貫き、GHQの「好意」を断固拒絶したもの、およびその子供や孫たちである。自ら " 外国人 " の地位を選択したが故の「在日」であり、その子孫である。それなのに " 外国人 " として扱われることを「差別」と称するのは、詐欺そのものであろう。
◆ 納税と選挙権
「在日」の公務員権・参政権の要求は、一種の「反日」闘争である。だから、ヒットラーが政権を掌握していく過程に似て、さまざまな偽情報宣伝を展開する。偽情報宣伝の主なものは、① 税金を払っているのに選挙権・被選挙権等がないのはオカシイ、② 参政権等は「人権」であるから、参政権等の制限は「人権」制限である、③ 国際協調主義の日本の国是においてもボーダレス化か世界の趨勢であることにおいても外国人への参政権等の禁止は時代錯誤である、④ 地方分権の名において住民自治は拡大されるべきであり、永住の在日外国人とは「住民」にほかならず、地万参政権も地方公務員への任用も自治の拡大の一貫として当然、などである。
だが、一見もっともらしいが、これらのいずれも、真摯に考察すれば全く合理性がない。詭弁もしくは政治宣伝(プロパガンダ)ばかりである。
まず納税についていえば、これが参政の権利(義務)に直結しないのは明らかすぎる。在日外国人は、納税額以上の反対給付を得ている。日本の安全(犯罪発生率の低さ)、充実した子弟のための公教育、高度な経済政策による高賃金、道路や他の交通機関の発達、・・・・などは、過去の何世代にもわたる祖先を含めて " 日本国民 " が長い歴史を通じて営々と積み重ねてつくり上げたものであり、" 日本国民 " である日本人の祖先の汗の結晶である。ところが、在日外国人は、祖先の汗と納税なしにこれを享受できる。在日外国人の所得税や住民税の額は、日本国民の三四倍ぐらいにしてもなお公平ではない。
もしそうでないと「在日」の朝鮮半島人が思うならば、それぞれの祖国に帰国して同額の所得税等を払えば韓国や北朝鮮で日本と同一水準の日々の生活が可能になるのか、自問してみればわかろう。例えば、一日二食で米すらもなく魚や食肉はむろんない、餓死寸前もしくは大量の餓死がでている北朝鮮人民の悲惨なあの実情において、この地で日本在留時の十倍あるいは百倍の所得悦を納税しても北朝鮮で日本並みの生活は可能とはなりえない。
すずめの涙ほどの納税をなした、それを理由にしての、「国民の権利」たる参政権や公務員権まで破廉恥にも要求する非常識な「在日」の " 非・国民 " は、「在日」のほんの一部であろうから、彼らの「帰国」の強制措置を考える時がきている。日本は「特別永住者」の朝鮮半鳥人を必要とはしていない。国家主権を侵害する在日外国人と " 共生しない権利 " を主権国家は有している。別な表現をすれば、日本は在日韓国人・朝鮮人の税金(所得税や住民税等)を一円も必要としていない。払ってもらわなくてよい。その代りに、帰国してもらいたい。
「人権」の理屈も、納税のそれと同様に、巧妙なレトリックである。しかし、日本では「人権」の二文字は魔語である。日本人の多くは「人権(人間の権利)」の前に怯え、おののき、ひざまずく。二文字魔語「人権」は現代日本を支配する " 妖怪 " である。だから「特別永住者」の参政権闘争も公務員権闘争も、悪質なその脆弁に「人権」をふり回す。
「人間の権利」とは「国民の権利」と似ているが同じでない。「人間の権利」は、「国民の権利」のほんの一部であって、つまり一部のみ重なるが全部でない。なぜなら、「人間の権利(人権)」とは、国家誕生(文明)以前の未開人や動物ですら有している生存の権利のことを意味する。一方、「国民の権利」の方は、文明の精華としての歴史と伝統をもつ国家を前提としてその国家を発展せしめてきた各世代の国民が有していた権利を " 相続 " した権利を指す。「人間の権利」と「国民の権利」は、その本質において決定的に相違する。
政治亡命者や難民受け入れが「人権」問題とされるのは、彼らが母国において、動物や家畜ですら享受できる生命すら不当に奪われたり、最低限の生活すら不可能な事態に対して、それらから救済してあげたい倫理性と仁慈性を我々がもつからである。
一方、「特別永住者」について言えば、日本に威張って居住し、なかには日本国民以上の高い生活をし日本人以上にふんだんに金儲けをする自由まで付与されている。その生命や生存が保障されているだけでなく強制帰国の心配も皆無である。それは「人権」保障としては余りに十全にすぎ過剰である。また、日本国憲法の第三章すべては、「国民の権利及び義務」の規定であって、「人間の権利(義務)」を定めたのではない。日本国憲法から在日外国人のための「人権」を論じることは法理において無理であり謬論にすぎない。
さて、「国際化」だから外国人にも参政権・公務員権をという、謬説にも触れておこう。政治分野の国際関係はすべて国家を絶対単位としてなりたっており、「ボーダレス」は経済その他の分野では現象として存在するものの、政治や宗教の分野では存在していない。政治の「ボーダフル」性は永遠に変らない。この「ボーダフル」とは逆の、国際政治に「ボーダレス」を持ち込むことは帝国主義的な行動であって、例えば日本と韓国の間の「ボーダレス」化か、一九一〇年の韓国併合ではなかったか。一九四五年の韓国の主権回復とは、「ボーダレス」を排して「ボーダフル」の達成であった。が、こんなことが「在日」には理解ができないのである。
「ボーダフル」こそ、一部の強大な国家を除き、自由を希求する世界の大多数の民族の悲願である。「ボーダフル」は国際政治における永遠の価値として追求されている。これは人類の未来永劫に変らない。チェチェン人もコソボの人々も命を棄てて「ボーダレス」からの脱却を図っている。国家否定的な「ボーダレス」礼讃を背景にした「国際化」論は、現実を無視している。胡散臭さに満ちている。他民族支配の " 目由の圧搾 " を是としている。
在日朝鮮人は、「祖国」北朝鮮に宗教的なほどの忠誠を誓い、この祖国のためにさまざまなスパイ活動までなしている。それは、在日朝鮮人が日朝の間に極度のボーダ(国境)を設定しているからである。日本を害して北朝鮮を益することは、反「ボーダレス」の極みではないか。
国際関係は相手国の存在を前提とし相手国との相対で成立している。だから、不法かつ異常な「ボーダフル」論に立脚する相手国に対して、日本が「優しさ至上主義」で無原則の「ボーダレス」論にとらわれた対応は、相互主義に反するし、これはどの双方の非対称性を全面無視することにおいて国際関係の道理・条理にも反している。
また、人類の文明社会は法秩序で成り立っており、それは国家を単位にしたときのみ実効あるものとなりうる。それなのに、アフリカの草原における雑多な野生動物の共存共生のあり方を理想とした、仮構の「多民族共生」をイメージして、日本人を惑わし洗脳し、それをもって「国際化」であるとか、時代の趨勢であるとか、などの奇論が在日外国人と法曹界・学界から執拗にキャンペーンされている。その狙いが、日本を国家として機能不全と自己破壊に陥らせることにあるのは、いうまでもないだろう。
◆ 外国人による日本支配・・・・大激減する出生率の結果
日本の出生率はすでに一・四を割っている。病気や交通事故で若くして死亡するものがいるので出生率二・〇八が人口維持の最低ラインであるのに、日本史始まって以来の最悪の危機である、この出生率問題に日本は取り組もうとはしない。ある学者は、技術革新その他で人口減のデメリットを補い、国力や社会保障その他が維持されうる最低ラインは一・八六だという。日本のは、それすら大幅に下回っている。このような異常なほど低い出生率は敗戦国のドイツと日本など僅かしかない。数字一・四未満は、日本の近未来を絶望的なものにしている。日本の亡国は確実だと断定してよい。
著者(中川)は、二〇八〇年頃に、日本の人口は三千万人以下となると計算している。もしこの推計が正しければ、現在の住宅・・・・すべて堅牢だとする・・・・の四分の三は廃屋となるか、外国人が入居している。荒涼たる風景である。少なくとも、百年先の日本で外国人の方が、日本国民と同数以上の過半数になっている事態は、ありうる未来像である。外国人の人口比三〇%ならば、まず確実に発生している。国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口」は、年金財政などの破綻を国民の眼からごまかすために将来人口を徹底的にごまかしている。そこにある数字は何もかも、数学的に改竄された嘘にすぎない。
この三〇%を仮定して、仮に在日外国人すべてに地方参政権を与えるとすれば、彼らは日本の特定地域に集中して居住するので、地方によってはこれらの流入してきた外国人やその子孫たちの方が絶対多数を占めている。これらの地方自治体では、外国人が主役で日本人は脇役(支配される少数民族)となるはずである。国政レベルでも三〇%もあれば、外国人が、日本の政治をほとんど牛耳ることが可能である。今は一%にすぎないから問題ないと参政権や公務員権を与えれば、あとになってとんでもないことになったと騒いでもとり返しはつかないのである。すべての不幸は、我々の子孫にふりかかってくる。
政治は「国家百年の計」であり百年先まで考えるべきである。とすれば、日本がすでに直面しているのは、" 国家とは国民による統治の共同体 " という、世界に普遍的な国家の原理をいかに死守していくかである。「在日」の公務員権・参政権要求の問題に対する日本の正しい選択と解答は、すでに明らかである。
(一九九六年秋記、既発表、一部加筆)
