坂本龍馬

君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかゝる 国の行末

文久3年4月、坂本龍馬は、勝海舟の使いで福井藩の松平春嶽公を訪れた。

目的は海軍の軍資金の調達だが龍馬は「海軍をおこし兵威を強くせよ」と説く横井小楠(よこい しょうなん)の助力を受けて、多額の軍資金を得ることができた。

この時、龍馬は小楠を自宅に訪ねた。

小楠は龍馬を連れ、由利公正の家を訪れた。

三人は国を憂い、大いに語り合った。

その際に、龍馬が詠んだと伝えられるのが、冒頭の歌。

君とは、当時の志士において孝明天皇。

龍馬の尊皇と愛国の思いが滲みでている。

勝海舟は、言っている。

「俺は今までに天下で恐ろしい者を二人見たよ。それは、横井小楠と西郷南洲であった…横井の思想の高調子のことは、俺などとてもはしごをかけても及ばぬと思ったことがしばしばあったよ」

(『氷川清話』)

勝が畏敬するほどの人物、横井小楠は西郷・勝と並び、幕末維新の三傑と呼ぶにふさわしい巨人と言われている。

小楠は、南洲翁や勝を始め、坂本龍馬・橋本左内・木戸孝允等にも強い影響を与えた。

竜馬の「船中八策」「大政奉還」は彼の案と思われているが、もとは横井小楠のもの。

維新後の日本が国是とした富国強兵も、小楠が唱えたもの。

小楠は文化6年に熊本で生まれた。

小楠が「小楠」と号したのは、楠木正成によっている。

大楠公と仰がれる楠木正成は、忠義の英雄であり、武士の鑑(かがみ)、日本人の模範として、当時、最も広く尊敬された人物。

大楠公に敬意を抱く小楠は、伝統的な精神を持った日本人。

それと同時に、彼は類稀なる戦略的思考と国際感覚をもった日本人でもあった。

小楠は、形骸化してしまった儒学を痛烈に批判され、現実に根ざした学問「実学」を説いて全国的に知られた。

安政5年、49際の時に越前福井藩の松平慶永公に招かれ、藩の財政改革を指導した。

特に由利公正と共に実施した、増産した絹や生糸を長崎で売却して農民に還元するという富国策は大きな成果を挙げた。

文久2年、慶永公が政事総裁職という大老よりも格上のポストにつくと、そのブレーンとして幕政改革と公武合体を推進する。

その後、失脚して一時、不遇の身にあったが、小楠の偉大さを知る西郷南洲翁らから、明治政府に招かれ、制度局判事や参与に任じられたが、その雄大な構想を実現できぬうちに、明治2年1月、尊攘派の浪士たちによって暗殺された。

小楠の死は、出発期の近代日本にとって大きな損失となったが、小楠の感化を受けた人材は、その思想を受け継いだ。

小楠は後進を育てた点でもめざましいものがあった。

「五箇条の御誓文」を起草し、また新日本最初の大蔵大臣として財政政策を担当した由利公正や、明治天皇陛下の侍講で「教育勅語」の実現に関わった元田永孚(ながざね)は、小楠の弟子にあたる。

また、明治憲法と教育勅語の作成に尽力した井上毅(こわし)は、晩年の小楠の話を筆録している。

彼らは、小楠の思想を、近代日本の建設に活かそうとした。

近代日本の国家建設において、富国強兵は急務。

富国強兵とは、まさに横井小楠が唱えた政策。

小楠の富国強兵策は、福井藩主・松平春嶽に提出した『国是三論』に論述されている。

『国是三論』は、富国・強兵・士道の三論より成る。

それぞれ経済論・国防論・道徳論にあたる。

そして、そのまま日本国の方針ともなるものとして書かれた。

小楠はそこに、世界を念頭においた近代日本建設のグランド・デザインを描いた。

三論の第一である富国論は、殖産興業と通商交易の必要を論じ、民生を安定させ国を富ませる方針であり、小楠は福井藩でこれを実践し、藩に繁栄と成功をもたらした。

第二の強兵論は、列強のアジア進出のなかで、海軍の創設こそ強兵と説き、同じ島国から世界に雄飛した大英帝国に例をとり、イギリスに匹敵する海軍を創る方針を説いた。

このように小楠は富国強兵を説きながら、その限界をも看破しており、さらに重要なものとして、第三に士道論を説いた。

「士道」とは、儒学や武士道に基づく東洋的な政治道徳をいう。

小楠は、富と力を生かすために、己を修め人を治める「修己治人」の道を強調している。

『国是三論』は、次のような言葉がある。

「万国を該談するの器量ありて始めて日本国を治むべく、日本国を統摂する器量ありて始めて一国を治むべく、一国を管轄する器量ありて一職を治むべきは道理」

その論の高邁であることは、勝海舟を感嘆さた。

小楠が説いた士道論は、「富国強兵」によって国力を充実させたうえで、大義を世界に伝えるという国家目標へと高められていった。

幕末、攘夷の興奮が国内に満ち、多くの日本人が外国人を極度に警戒していた時、小楠は悠然とこう主張した。

「外国人もまた日本人と同じ『天の子』ではないか。そうであれば、外国と接するには、天地仁義の大道をもってしなければならない」と説かれた。

堯舜孔子の道を明らかにし 西洋器械の術を尽くす

なんぞ富国に止まらん

なんぞ強兵に止まらん

大義を四海に布かんのみ

暗殺される二年前、米国に留学する甥に、はなむけに送った、小楠の言葉。

わが日本国は、尭舜や孔子の行った東洋古来の道徳を明らかにし、また進んで西洋の科学技術を我が物とすべきだ。

新しい国家の方針は富国強兵。

しかし、目的は富国や強兵にとどまらない。

日本の使命は、充実した国力をもって、大義を世界に広めることにある…

これが、小楠の堅い信念。

「西洋の学はただ事業上の学にて、心徳上の学にあらず。心徳の学無きがゆえに人情にわたることを知らず。交易談判も事実約束を詰めるまでにて、詰まるところ遂に戦争となる。戦争となりても事実を詰めてまた賞金和好となる。人情を知らば戦争も停むべき道あるべし。事実の学にて心徳の学なくしては、西洋列強戦争の止むべき日なし」

と(井上毅の筆録による『沼山(しょうざん)閑話』)

小楠は晩年、上記のように語っている。

単に物質的な富や力を追求する「事実の学」でだけでは、戦争はなくならない。世界平和の実現のためには、「心徳の学」が必要だと小楠はいう。

小楠は富国強兵を実現するとともに、国民の道徳心を高め、日本を道義国家たらしめたいと思っていた。

そして、日本の政治を一新して西洋に普及すれば、世界の「人情」に通じて戦争をなくすことができると、小楠は確信されていた。

小楠は、弟子の元田永孚に向かって、次のように抱負を漏らしたと伝えられます。

「もし自分を用いる者があれば、自分は使命を奉じてまず米国を説き、一和協同を成し遂げ、その後に各国を説き、遂に世界の戦争を止めるであろう」。

大義を世界に伝えるために、まず米国と交渉して日米の協和を実現し、それをもとに各国を説得して世界平和を実現しよう。

小楠の政略は、1世紀以上も後の今日の世界をも見通していたかのようやな…

日本人は、ともすると偏狭で独善的な島国根性に傾きがちだが、しかし、日本人の精神の奥底には、世界平和を実現する精神的指導原理が内在している。

四海同胞・共存共栄の精神であり、世界に通じる世界精神ともいえるもの。

小楠は、真の日本精神は世界精神であることを、私たちに感じさせてくれる、偉大な先人。

明治の日本は、小楠の建策に基づく「富国強兵」を方針として国家建設を進め、政治的独立を守り、経済的発展にも成功を納めた。

また、「士道」という面では、「五箇条の御誓文」とそれに基づく「教育勅語」が、近代的な国民道徳を生み出した。

大東亜戦争後、米国の日本弱体化政策が行われ、日本は「強兵」どころか国防自体を制限された。

また、「士道」に表れたような精神的伝統を否定され、「教育勅語」も排除された。

国民はひたすら経済的な成長をめざす「富国」中心の路線を盲進した。

確かにまじめでひたむきな勤労により、わが国はかつてない物質的繁栄を得た。

しかし、ものの豊かさに反比例するように心は貧しくなり、唯物主義・利己主義が蔓延している。

道徳の低下は目をおおう。

さらに、わが国は国家の根幹をなす国防を他に依存しているため、米国から譲歩を迫られると言いなりになるしかなく、米国との経済戦争において、敗北を余儀なくされた。

大東亜戦争の敗北を「第一の敗戦」とすれば、今度は金融によるマネー戦争に敗れ、「第二の敗戦」を味わっている。

横井小楠の思想は、弟子の由利公正に受け継がれ、明治新政府の財政や日本の国是を示した「五箇条の御誓文」、明治天皇陛下の侍講で「教育勅語」の実現に関わった元田永孚(ながざね)に反映されていった。

日本の再建がなるかどうかの瀬戸際。

それには、大義に基づく精神的な建て直しが必要。

日本の再生のために、改めて先人・偉人に学ぶべきではないか?

昨今の政治家は、維新、革命と軽々しく口にするが、近代日本を開いた英傑は、岩倉具視を除く全員が明治10年前後の紀尾井坂の変までに暗殺もしくはなんらかの理由で死亡している。

滅私奉公の精神ここにあり…

って記載は二回目…

画像を見たければ初回記載の回覧を…