昭和天皇は、本当の平和主義者であられた。開戦の詔に際しても、明治天皇の御製

四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ

を読まれて、ご自分の御心を示された。

そんな昭和天皇は即位されてから、日本が戦争へと進んでゆく様子を、とても心配され、悩まれる日々が続いた。

昭和13年ごろには、ベッドに寝たまま大臣を引見されるまでひどく憔悴されたという話である。

戦争になってからは、勝利と終戦の機会をとらえることに心を砕かれた。

もともと無口な方であった陛下が公の席で長く、その信念を述べられたのは、昭和20年8月9日深夜の第一回御前会議のみであったという。

御前会議は宮中防空壕の一室で開かれ、東郷外相の和平要求と、阿南陸相の抗戦勧告の両案をめぐって討議が始められ、10日午前2時まで激論が続いた。

鈴木貫太郎首相は自らの意見を述べて決を採ることをせずに、陛下のご裁決を仰いだ。鈴木首相は、天皇のみが国家を救うただ一人のお方だと思い詰めていたという。

昭和天皇が立ち上がられた時には、すでに手にメモを持っておられた。

メモには陛下が決意されたすべてが記されていた。

そしてお言葉を述べられた。

「我が国力の現状、列国の情勢等を観るとき、これ以上戦争を続けることは我が民族を滅亡せしめるのみならず世界人類を一層不幸に陥れるものである」

「自分としてはこれ以上戦争を続けて無辜の国民を苦しめるに忍びない。速やかに戦争を終結せしめたい」

「開戦以来、軍のいう所と実際との間にはしばしば食い違いがあった。現に軍は本土決戦などというけれども九十九里浜の防備さえできていないではないか」

天皇は気分が悪そうで、今にも倒れそうであったという。

会議室の縦9メートル、横2メートルの羽目板は汗をかいたように水滴でぬれていたと記録にある。

「今日まで戦場にあって陣没し、あるいは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思う時は、悲嘆に堪えぬ次第である」

「また戦傷を負い戦災を蒙り、家業を失った者の生活に至りては、私の深く心痛するところである。もちろん忠勇なる軍隊の武装解除や、戦争責任者の処罰などが行われるだろうが、それらの者はみな忠誠を尽くした人々で、実に忍びがたいものがある」

「しかし今日は忍びがたきを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の時のお心持ちを偲び奉り、自分は涙をのんで、連合国宣言を外相の示す立ち場に立って受諾する提案に賛成する」

という内容の聖断だった。

しかし、国家意思による最終決定は、8月14日の第二回御前会議に持ち越され、無条件受諾に反対する者の意見が述べられ、再度聖断を仰ぐこととなった。

指名によって、梅津総長、豊田総長、阿南陸相が再照会を必要とする旨の所信を声涙ともに下りつつ言上した。

3名の言上が終わると、天皇はほかに意見がなければ、自分の考えを述べると仰せられて

「自分の考えはこの前言ったことと変わりはない、終戦の決心は世界の大勢と我が国内の事情とを十分検討し、熟慮した結果であって、これ以上戦争を続けることは無理だと思う、連合国の回答は国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、自分は先方は大体我が方の言い分を入れたものと解する」

「外務大臣の言う通り、要は我が国民の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を受諾してよろしいと考える」

「みなもそう考えてもらいたいと仰せられ、さらに、陸海空の軍人にとって、武装解除や 保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その気持ちは自分にもよくわかる」

「また自分の信頼する臣を戦争犯罪人として出すことは情においてまことに忍びがたいとおおせられて、落涙を白き御手袋を以て払わせられ、更にお言葉をついで、しかし日本がまったく無くなるということなく、少しでも種子が残りさえすれば、また復興と言う光明も考えられる」

「この上戦争を続けては我国は全く焦土となり、国民にこれ以上苦しみを嘗めさせることは自分として実に忍びない」

「自分は如何になろうとも国民を救いたい」

「この際は堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、一致協力、将来の回復に立ち直りたい」

「国民のためになすべきことがあれば、なんでも厭わない、国民に呼びかけるのがよければ、マイクの前にも立とう」

「皆その気持ちになってやって貰いたい」

「この際詔書を出す必要もあろうから、政府は早速その起案をするように」

と、諄々として諭された。居並ぶ諸員皆深く頭を垂れ、感泣嗚咽した。その情景は正に終戦史の頂点というべきであった。

(『終戦史録』より)

天皇にとってその地位につくということは、実際の権力とは関係なく、この国を背負うという覚悟を深くもたれるということではないかと思う。

皇室にとって、神話は決して空虚な話ではない。

私たちでさえ、時たまの神社参りで非常に厳粛なある種の「気」を感じることがあるのである。

その「気」を皇室の方々、まして天皇は祭祀を通して常に感じておられるのではないかと思う。

皇室にとって、神々の存在感は常に身近にあるのだ。この国の行く末を背負うという神勅による約束事は、天皇という地位についた時から、天皇の肩にずっしりと重くかかってくるのではないかと推察する。

明治天皇の

ひとりつむ言の葉草のなかりせば

なににこころをなぐさめてまし

という和歌は、そんな天皇の孤独な心情をよく表している。

膨大な数の和歌を詠まれた明治天皇、やはり多くの和歌を詠まれた昭和天皇、発表された数は明治天皇より少ないが、未発表の数はとても多いと思われる。

いざとなれば身を捨ててでも国民を守るという御覚悟は終戦の御決断に最もよくあらわれている。

天皇は戦争中も孤独に思い悩まれることが多く、お部屋からは、よくこつこつと歩きまわられる音が響き、ご心痛の御様子がうかがわれ、その音が聞こえると職員は耳をふさぎたくなる気がしたという。

一人の戦争犯罪者も出したくないという思いで、マッカーサーに会いにゆかれて、戦争の全責任は自分にあると言われた天皇が、靖国にA級戦犯が合祀されたからと言って、それを不快に思われて参拝されなくなったということなどあり得ない。

常に国民を大御宝として、子を愛する親の気持ちでいつくしまれる天皇が、親としてすべての責任を取ろうとされる天皇が、戦争犯罪人とされた人々への深いいとおしみの心はあっても、不快感をもたれることはないと考えられる。

現に昭和天皇は東条首相の遺族を大変同情し気にかけておられたということを聞いた。

日経新聞が手に入れた富田元宮内庁長官のメモは、きちんとした検証もされずに昭和天皇のお心を勝手に判断し断定している。

こんなことが許されるのだろうか、歴史的な資料として取り扱うならばもっと公のきちんとした研究機関で検証すべきだし、ただのスクープ記事で、それがあたかも事実のように、独り歩きすることは、昭和天皇を傷つける行為であり、許しがたいのである。

昭和天皇が靖国参拝をやめられたのは昭和50年のときで、三木首相の参拝が公人か私人かという議論になって以来である。

A級戦犯合祀はその3年後である。

天皇が靖国に参拝されないのは、それが政治問題化しているからに他ならない。

私たちは、早くこの問題を決着して、国を守るために亡くなった人々を国家として慰霊するようにしなければ、天皇は参拝されたくてもできない情況が続く。