1.武士道と企業犯罪

「武士道とは死ぬことと見つけたり」山本常朝の「葉隠れ」の有名な一節であるが、これが武士道とは主君のためにはいつでもおのれの生命を投げ出す、という時代遅れのファナティックな生き方、という誤解を招いた。

この一節のあとには、すぐこう続く。

「武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課(しおお)すべきなり」

それは生死を超えた自由を得て、一生、落ち度なく家職、すなわち、奉公の勤めを成し遂げるという、武士としての理想の「生き方」を述べたものなのである。

上司の命令にやむなく従って企業犯罪に加担した、などという事件が相継いでいるが、これなどは武士道から見れば、もっとも軽蔑すべき生き方。

武士としての理想の生き方とは、どういうものか、我が父祖らの考えに耳を傾けてみよう。

2.真の「忠節」とは

「葉隠れ」は、主君の命令に対する恭順を説いたのち、「さて気にかなはざることは、いつ迄もいつ迄も訴訟すべし」、すなわち主君の命令が自己の信念から見て理不尽だと思ったら、どこまでも「諫言」して再考を求めるべきであるとする。

企業犯罪を命ずるような上司には、その理不尽さを訴えなければならない。

そして「主君の御心入を直し、御国家を固め申すが大忠節」、上司の誤った心構えを正して、組織をまっとうにすることこそが、大忠節であるという。

かつて組織犯罪を犯した食品会社が解散の憂き目にあって、多くの罪もない従業員が路頭に迷うことがあったが、そういう事態を未然に防ぐことこそ、組織に対する「大忠節」というのは、よく理解できよう。

しかし、主君に向かって直接、諫言を行う「直諫」では手討ちにあう危険があり、さらには不忠者、反逆者の汚名を着せられて子々孫々にまで不利益を及ぼす恐れもある。

そんな危険を冒してまで主君に逆らうよりも、大人しくご機嫌取りしているほうが身の安全である。

しかし、そういう生き方こそが「不忠者」の生き方だと武士道では考える。

一身の危険、不利益を顧みずして藩全体のために「主君の御心入を直」すことこそ、忠節の士のなすべき事なのである。

3.わが身の災難を顧みず

名君と呼ばれた徳川吉宗の享保改革が軌道に乗り始めた頃、吉宗自身の始めた目安箱(現在の投書箱)に、山下幸内という浪人者が一通の投書を行った。

その上書は、全文、吉宗の改革の諸政策を徹底的に批判する内容のものであった。

その倹約政策を「しみったれたもので、天下を治める為政者のなすことにあらず」と断じ、吉宗の鷹狩り好きに対しては「いたずらに民を酷使するのみで無益である」と指弾した。

吉宗が老中以下の主だった役人を集めて、この上書を見せると彼らは「無礼きわまる」と怒りの色をあらわにした。

ところが、吉宗本人は「今の世にもなかなか面白いことを言う者がおるではないか」と言った。

そして

「この書面のごときは、いかにも無礼の極みではあろうが、わが身の災難を顧みず政治の是非得失を直言してくれるのは、天下の政道のためには貴重なことだ」

「もしこのような者を無礼であるという理由で処罰するならば、世人はもはや物を言わなくなってしまうであろう」

「それこそが、幕府の政治にとって取り返しのつかない損失となってしまうのである」

吉宗はこう述べて、山内幸内に褒美銀を与えて、その直諫の志を褒め称えたのである。

4.主君「押込」の義

しかし諫言しても、主君が聞き入れない場合は、どうなるのか?

現代のサラリーマンでは、諫言が最高度の抵抗であろうが、武士道ではもっと過激な手段があった。

藩主が放蕩や暴虐だった場合、あるいは過激な改革で藩政を混乱させた場合などに、家臣団が合意をして、主君を「押込(おしこめ)」と称して拘禁し、時には隠居させてしまうのである。

押込の手順も概ね、決まっていた。

まず藩主に対して、家臣が諫言を行い、それが聞き入れられない場合に、家老や重臣を中心に「押込」が議される。そして一同、藩主の前に列座して「お身持ち良ろしからず、暫くお慎みあるべし」といった定型 の文言を発して「押込」の執行を宣言する。

それとともに、家老の指揮のもとに、目付や物頭など中堅の武士が藩主の刀を取り上げて、藩主を座敷牢などに監禁する。

興味深いことに、藩主は数ヶ月監禁されている間に、家臣側との面談が断続的に行われ、改心の程度がチェックされる。

十分改心して、旧来の悪政を改めるだろうという見通しがついたら、藩主は解放されて、もとの地位に戻る。

その際に、行状を改めて善政を行うこと、そして「押込」を執行した家臣団に報復を行わない事を誓う誓詞を提出する事が義務づけられていた。

もし藩主に改心の情が見られない時には、そのまま強制的に隠居させられ、代わりに嫡子が藩主の地位につく。

5.公共のための忠義

諫言や押込は、武士の忠義の対象が藩主個人ではなく、藩というより「公」的な共同体に向かっていたことを示している。

そして一身の危険、災難という私的な利害を顧みずに、公のために尽くす、というのが立派な武士のあり方であった。

その背景には、江戸時代を通じて発展した公共性の理念があった。

徳川幕府に抱えられて、家康から4代家綱まで仕えて、儒書や史書を講じた林羅山(1583―1657)は、「天下は一人の天下にあらず。天下は天下の天下なり」と唱えた。

熊沢蕃山(1619―91)は、武士は藩主から人馬を預かり、藩主は領国を将軍から預かり、将軍は天下を天から預かったものゆえに、主君の天職は「仁政を行ふ」ことであり、臣下の天職は「君を助けて仁政を行はしむる」ことであるとした。

山鹿素行(1622―85)は、人君は天下万民の平和と幸福を保障するための政治的機関であり「忠」とは主君個人に尽くすことではなく「国家天下のために」心を尽くすことであるとした。

荻生徂徠(1666―1728)は「御政務の事柄というものは上(君主、藩主)の私事にあらず、天より仰せ付けられた御職分なのである。下(家臣)たる人にても御政務の事柄に関係することに携わる限りは、その時だけは上(君主、藩主)と同役なのである。家臣として藩主に少しも遠慮する必要はないのである。」とした。

ここまでくると、身分の上下は単に職制上の上下に過ぎない事になる。

したがって暗愚な藩主が悪政を行っていたら、諫言、押込によってそれを正すことこそ、武士の責務であるということになる。

武士道とは公共のために忠義を尽くす道であった。

6.改革の抵抗勢力

しかし主君への諫言といい押込と言っても、それはあくまで政治的意見の対立であり、主君と家来のどちらが正しいのかは分からない。

価値観の違いであったり、権力争いに過ぎないかもしれない。

その場合は、どちらが正しいか、どう決めたらよいのだろうか?

そこに出てくるのが、衆議公論である。

上杉鷹山は米沢藩の藩主として見事な藩政改革を行い天明の大飢饉の際にも、一人も餓死者を出さなかったという業績を残しているが、その鷹山が二十歳過ぎで改革を始めたばかりの頃、上杉家の重臣7名が打ち揃って、諫言の書状を呈示して鷹山に迫ったことがあった。

書状は鷹山の改革政治を批判し、改革の旗振り役だった執政・竹俣当綱一党の悪行・罪状を数え上げ、家中・領民の大半は困窮してお上の政治を恨んでいると弾劾していた。

7.衆議公論の尊重

鷹山はまず監察職の大目付らを呼び出して7重臣の書状を示して、その理非曲直を問うた。

大目付らは、竹俣一党の罪状はおよそ事実を歪曲したものであり、また家中・領民とも改革を支持していると述べた。

さらに組頭、物頭など、緒組の頭たちを召し出し同じ質問をした所、彼らも同様の回答をした。

こうして鷹山は家中の総意を確認した上で、7重臣を呼びだし、首謀者2名を切腹・家名断絶、残り5名を知行一部召し上げ、隠居という処罰を下した。

鷹山が周到に衆議の尽くしていため、その処置には誰一人逆らうものがなかった。

この事件を機に、家中の結束は強固となり、鷹山の改革政治は順調に進展していく。

ちなみに後年、断絶とされた2家は再興され、5家も閉門解除の上、嫡子への家督相続、知行回復が許されている。

鷹山は山鹿素行の影響を受けたと言われ、家督を譲るにあたって次代藩主に訓戒として与えた「国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候」などからなる「伝国の詞」は、同時代の西洋で発達しつつあったデモクラシーに迫る近代的公共思想である。

さらに鷹山の公を尊ぶ理念の基盤が、衆議公論にあった点も近代デモクラシーと似通っている。

8.終身雇用制は武士の自立を助けた

戦国時代の武士は、今日の欧米のビジネスマンのようにたびたび主君を変え、少しでも自分を高く売ろうとしていた。

それが17世紀の終わり頃、元禄の半ばを過ぎる頃から、多くの武士が一つの藩で一生を過ごす終身雇用制が定着していく。

この終身雇用制は藩、すなわち共同体への忠誠心を育むと同時に、武士の藩の一員としての権利を保障し、藩主が勝手気ままに解雇することはできない仕組みを提供した。

今日のように終身雇用制が崩壊して、いつリストラの憂き目に会うか分からない状態となると、社員も下手な物言いは解雇の危険につながるので、みな口をつぐんで、上司に対して言うべき事も言えなくなる。

終身雇用制は藩主の独裁権力を制約し武士の自立性を高めて、一人一人が信ずる所を堂々と主張する権利を守るという効果をもたらした。

同時に自分が一生勤める藩に対して忠誠心をはぐくみ藩主個人よりも藩という共同体全体に対して、忠義を尽くすという姿勢を涵養した。

自立した武士が自らの主体性のもとに、藩に献身するという武士道の姿勢は、終身雇用制によって護られていたのである。

9.年功序列制による実力主義

終身雇用制と同様、藩という組織の中で定着していったのが年功序列制であった。

それはどういう家柄に生まれたかという身分を超えて、下級身分の者でも長年の経験と功績の積み重ねによって、出世できるという能力主義の原理を織り込んだものであった。

吉宗が導入した足高(たしだか)制は、たとえば勘定奉行は3千石という基準を設け、その基準に満たない下級武士が勘定奉行に抜擢された場合は、差額分が支給されるというものであった。

500石の武士なら、在任中は2千5百石が追加支給される。

56人の勘定奉行のうち、千石以下の下級武士が49人、90%を占めるという人材登用効果を発揮した。

この年功序列制は、能力ある下級武士にも活躍の場を与えるだけでなく、その能力評価を長年の精勤と功績に基づく客観的なものにするという特徴があった。

ここでも上司の恣意的な抜擢や左遷を防ぎ、武士の自立性、主体性を高める役割を果たした。

こうして江戸時代の武士は、国家公共への奉仕を使命とする公共性理念に導かれ、同時に終身雇用制や年功序列制により主君の恣意的な支配を離れて、自立・自尊の立場に立って主体的に献身を行う生き方を理想とした。

その理想は、明治時代の官僚に引き継がれ、戦後は企業社会にも広まっていった。

バブル崩壊とともに、押し寄せたグローバリゼーションの大波に、終身雇用制も年功序列制も押し流され、公共性の理念も失った官僚や企業人が一斉に汚職や組織犯罪に手を染めるようになったのも、当然と言えようか。