「ひとりつむ言の葉草(ことのはぐさ)のなかりせばなににこころをなぐさめてまし」

これは明治天皇の御製の和歌。

明治天皇は歴代天皇の中でも群を抜いて膨大な数、何と93032首の歌を残された。

未発表のものを合わせればもっと多い数を詠まれたと考えられます。

この一首の言の葉草(ことのはぐさ)というのは和歌のことをさしていると思う。

明治天皇は幕末に36歳の若さで崩御された孝明天皇の後をついで萬15歳で即位された。

大政奉還を経て天皇親政の世となり、開国、文明開化、そして西欧列強の植民地主義の脅威の中、国を整え早く西欧に追い付こうと懸命の時代、その激動の日本の中心として、ただ一人、民の上に立つ天皇としてのお立場は、非常に孤独な部分がおありだったと思う。

確かに明治には優秀な政治家、軍人がいたでありましょう。

そうした臣下との信頼の絆も強かったでありましょうが、そうしたこととは関係なく、天皇というお立場がもたらす孤独感は、すごいものであろうと拝察する。

ことに日露戦争のような国の生存をかけた戦いの中では、それは一層厳しいものがおありだったではないか?

そうした心情を素直に歌われたのがこの和歌であろうと思う。

しきしま=敷島と言うのは、日本の別名。

敷島の道と言えば、日本人が踏み行うべき倫理と言うところ。

それとは別に「しきしまのみち」という言葉で表わされるものに和歌がある。

古来より、道と名のつくものは多く、茶の道、剣の道、仏の道など、あらゆる芸術や武道、宗教等に使われてきた。

その中で、なぜ和歌だけが「しきしまのみち」と呼ばれるのか?

和歌の起源は古く、聞いた話によると、古事記に出てくる須佐之男命が詠まれたという

「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」

がわが国の初めての和歌らしい。

ヤマタノオロチを退治した後、めでたく妻となった櫛稲田姫との新居を構えられた喜びの歌。

それ以来、日本人は、身分の上下に関係なく和歌を詠んだと思われる。

日本初の和歌集である万葉集には数多くの一般庶民の和歌が載せられている。

たしかに和歌は、五七五七七の三十一文字であらわされる短い詩であるから、貴賎貧富に関わらず、だれでも詠める。

とはいうものの短いながら詩であり、芸術的な表現の一つであると考えるなら、一般の庶民にまで多く広まっていたことに驚かされる。

もっともその頃の日本人は芸術とかいう意識もなく、素直に自分の気持ちを表現する手段として、まったく本当に素直に気持ちを込めて詠んだのだと言うことが、万葉集を読めばわかる。

万葉集の、防人の歌のひとつに、

「父母が頭(かしら)掻(か)き撫(な)で幸くあれて言ひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる」

と言うのがあって、すごく印象に残っている。

東国出身の若い防人の兵士の歌らしく、東国訛りがあるため、言葉が、けとばぜになっているのが素朴さを感じさせる。

まだ十代の少年であろう若い兵士、その吾が子を送りだす父母が頭をなでながら無事を祈ったその情景を想像し、さらにその時の父母の顔や言葉が心に残って忘れられない、この防人の兵士の心を想像すると、まるで第二次大戦の時の特攻隊員の姿と重なって、今読むとさらに涙が出そうになる。

東国と言っても、その当時の事だから今の関東位だと思うが、防人と言えば九州の守りやから、当時では、その別れは一生の別れになったかも知れない。

万葉の歌は、とにかく素直に詠まれているために、そこに嘘が感じられない。

だから感動する。

この三十一文字の中に言葉をつづるのは、意外に難しい。

短いだけに嘘や見栄でつづった心情はすぐに不自然さが出る。

そらぞらしさがでる。

きれいにまとめたつもりでも、ちっともそこに感動が感じられないこともある。

その意味で、万葉の日本人の心根の素直さ、またそうした貴 賎老若に関係なく和歌が選ばれていることのすばらしさを日本人として誇りに思う。

和歌がしきしまのみちと呼ばれるようになったことについて、小田村寅二郎氏がこのように仰っている。

『“心懐を和歌の定型の枠組の中に詠み上げる”という「作歌という行為」そのものが、日本人としての人倫・社会関係を整えていく上に、またそれを正していくうえに、欠くことのできない大切な行為、と見られるに至ったからであろう。』

『推 古天皇から今の今上天皇(当時は昭和天皇の時代)まで九十二人の天皇方が即位しておられるが、この方々の御製で今日まで残されているもののある方が実に七十九人おられ、あと残りの 十三人の方々の中には、大変幼くして亡くなられた六条天皇や安徳天皇といった方々の御名が拝されるところを見れば、ご歴代の天皇がたが、すべて“この道を 履み分けて”来られたことは、余りにもはっきりしたことである。』

さらに氏は、『歴代天皇がたが、かくも熱心に「しきしまのみち」を実習してこられたことと、国民の上に立たせ給う天皇としての御心組みとのあいだ』の関係について、こう仰っている。

『世間一般では、人の上に立つ人物は何かしらの権力・力に依存してその地位を確保するが、その際その人物は自分の心の中をあからさまに下の人たちに示したりはしない。

むしろ心の中を見せてしまうようでは、人の上に立てないとさえいわれる。

ところが、天皇が国民に対せられるお心組みは、これらと対照的に拝せられる。

天皇は、祭祀の御厳修によって、ご祖先がたがなされた博愛仁慈の統治精神に、 そのお心を整えられると共に、“無私・公平”と“まごころ”の涵養については、「しきしまのみち」をお励みになってこられたのである。

すなわ ち、天皇がご自分の御心中を、次々に和歌の上にお詠みになられるということは取りも直さず、天皇ご自身の“主観”をご自身のご努力によって積極的に“客観 化”なさっておられる、ということである。

“主観の内容”を具体的に正確に外に表そうとする時には、人は誰でも、その“主観の内容”を一再ならず心の中で 吟味し直してからそれを口に出すのが普通であるから、心の中にあることを外に表現しようときめると同時に、自らの心の中を省察し直す行為が開始される。

さらにその表現をするに当たって、「しきしまのみち」のような定まった枠の中に、“文字にして表現”するとなれば、その折の自己省察は、さらにきびしさを伴うこと必定であろう。

しかも、詠み上げた和歌は、改めて自分の目を通して読み直すことになる。

すなわち“主観”を文字の上に“客観化”して見直す行為がそ こで展開し、詠者自身が自己の心の中を、改めて冷静に吟味し直す、ということになる。と同時に、人々にその和歌を示して批評を求める、ということになれ ば、その批評を受け入れるだけの柔軟な雅量、謙虚なこころがはじめから用意されていなければならない。

これらの関連を見つめていくと、ご歴代の 天皇がたが「しきしまのみち」にいそしまれたという御事の中には、国民の上に立たせ給うお心組みの内容をより正しくなさろうとするご努力のプロセスを意味している、と見るのが正しいのではなかろうか。

かりそめにも、権力や財力に頼って人の上にたとうとしたり、心の中を隠し立てしながら人々を統御する、などという世の一般の上下関係と、天皇が国民に対される御態度とは、全く異なっていることが判ってくる。』

小田村氏はこのように言われている。

だとすると、宮中で歌会始が行われることも、単なる伝統文化の維持というだけではなく、天皇と和歌の切り離せない関係があるからだとわかる。

和歌を詠むということは、自身の心を見つめ直す努力であり、だからこそ、「しきしまのみち」と呼ばれる。