「爆撃にたおれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも」
「身はいかになるともいくさとどめけりただたおれゆく民をおもひて」
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」
「外国(とつくに)と離れ小島にのこる民のうえやすかれとただいのるなり」
これは終戦当時の昭和天皇の御製。
昭和天皇の御製は新聞や雑誌に発表されたものがまとめられて新聞社などから歌集として発刊されているが、この四首 はこうした歌集には載っていない。
これらの御歌が載っているのは、昭和天皇の側近をされていた木下道雄氏の『宮中見聞録』で、木下道雄氏の『宮中見聞録』で、木下氏が終戦の時の御製を後日に氏が再び側近となられたときに(氏は8月15日の時点では会計審査局に勤務されていた)拝見させていただいたものを、この著書の中で独断で公表されたようである。
たぶん氏はこの和歌を拝見した時に非常な感動を覚えられたことと思う。
「鳥にたとえてははなはだ恐縮ではあるが、猛禽の襲 撃に対し、雛を守る親鳥の決死の姿を、涙して想うだけである」
と記しておられる。
昭和天皇の生涯を通じての御製の中でも最も重要な記念すべき歴史的な和歌 であるこれらの御歌、昭和天皇の御心を表すこれらの御歌を、たとえ後でおとがめがあろうとも、木下氏は、国民に向けて発表せずにはいられなかったのではなかろうか?
一首目の歌は、短歌の定型五七五七七の枠をはみ出した五八六七九という字余りになっており、自らの強い気持ちのほとばしるままに率直に詠まれている。
爆撃にたおれゆく民を思う気持ちに心がとらえられ、戦を止めようという強い決心がわが身の事よりも何よりも先立つように詠まれ、そのあとに身はいかにならむともという字余りの句で 重くとめておられる。
二首目は一首との連作で、同じ内容が、身はいかならむともという、一首の最後の句を受けて、こころの中でくりかえしくりかえし思いをこらして、なお変わらぬ不動の信念で決意の心を詠まれ、ただたおれゆく民を思いてと、民への深い同情の心を述べられている。
三首目に出 てくる国柄とは、そうした民を守るために天皇が決心をつらぬかれること、そんな天皇のみ心に感応して国民が答えること、その天皇と国民とのつながりこそが 日本の古来よりの国柄であり、天皇陛下にとっては、国民を身はいかになるとも守るということなのである。
昭和天皇が、死を覚悟されての強い決意で、終戦を 決断され、さらにマッカーサーとの会見にのぞまれた一連の出来事は、国民への深い愛情、そして勇気、信念において、涙なくては思い返すことが出来ない。
四首目はほとんど同じ歌が「折にふれて」と題して当時の新聞に発表されている。
「海の外(と)の陸(くが)に小島にのこる民の上安かれとただいのるなり」
これは「ただいのる。いのるほかはない」という意味であり、昭和天皇の民を思われる悲痛なお気持ちを表している。
まさに親が子供の無事をひたすら祈るそのままのお気持ちであろう。
終戦当時、昭和天皇が、マッカーサー元帥を訪問してどんなことをおっしゃったか戦後十年もたってから、マッカーサー元帥自身の口から発表された。
「私は戦前には、天皇陛下にはお目にかかった事はありません」
「初めてお出会いしたのは、東京の米国大使館であった」
「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました」
「しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました」
「すなわち、“私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります」
「また私は、日本の名においてなされた、 すべての軍事指揮官、軍人及び政治家の行為に対しても直接に責任を負います」
「自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分に は問題でない」
「私は全責任を負います」
「これが陛下のお言葉でした…」
「私は、これを聞いて、興奮のあまり、陛下にキスしようとした位です」
「もし国の罪をあが なうことが出来れば進んで絞首台に上ることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかり でした」
(「天皇陛下を讃えるマ元帥」重光葵)
その後、陛下は日本各地を御巡幸される。
戦後御製の多くはこの御巡幸の中からのものが多いから下少し御紹介する。
(昭和二十年)
「戦いのわざわいうけし国民(くにたみ)をおもふ心にいでたちて来ぬ」
「わざわいをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ」
「国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし」
(香川県大島療養所 昭和二十五年)
「あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば」
「船ばたに立ちて島をば見つつ思ふ病やしなふひとのいかにと」
(愛媛県ごご島 昭和二十五年)
「静かなる潮の干潟の砂ほりてもとめえしかなおほみどりむし」
(三重県賢島 昭和二十六年)
「美しきあごの浦わのあまおみなとりし真玉は世にぞかがやく」
(東北視察の折に 昭和二十七年)
「秋ふかき山のふもとをながれゆく阿武隈川のしづかなるかな」
(輪島市の鴨ヶ浦にて 昭和三十四年)
「かづきしてあはびとりけり沖つべの舳倉島より来るあまらは」
(赤間神宮並びに安徳天皇陵に詣でて昭和三十三年)
(愛媛県ごご島 昭和二十五年)
「静かなる潮の干潟の砂ほりてもとめえしかなおほみどりむし」
(三重県賢島 昭和二十六年)
「美しきあごの浦わのあまおみなとりし真玉は世にぞかがやく」
(東北視察の折に 昭和二十七年)
「秋ふかき山のふもとをながれゆく阿武隈川のしづかなるかな」
(輪島市の鴨ヶ浦にて 昭和三十四年)
「かづきしてあはびとりけり沖つべの舳倉島より来るあまらは」
(赤間神宮並びに安徳天皇陵に詣でて昭和三十三年)
「水底に沈み給ひし遠つ祖を悲しとぞ思ふ書見るたびに」
昭和天皇の御製は、まるで万葉集の和歌に似て、素直でそのまま真心のあらわれたような、そして美しい音調。
作品にはひととなりがよくあらわれる。
昭和天皇の発表されている和歌は五百首以上あるが、おそらく未発表のものはそれ以上に多数あって、明治天皇と同じく、和歌によってお心を慰められてこられたのではなかろうかと思う。
昭和天皇の心の洗われるような御歌に接すると、昭和天皇がすぐれた歌人であらせられることがわかる。
「身はいかになるともいくさとどめけりただたおれゆく民をおもひて」
「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」
「外国(とつくに)と離れ小島にのこる民のうえやすかれとただいのるなり」
これは終戦当時の昭和天皇の御製。
昭和天皇の御製は新聞や雑誌に発表されたものがまとめられて新聞社などから歌集として発刊されているが、この四首 はこうした歌集には載っていない。
これらの御歌が載っているのは、昭和天皇の側近をされていた木下道雄氏の『宮中見聞録』で、木下道雄氏の『宮中見聞録』で、木下氏が終戦の時の御製を後日に氏が再び側近となられたときに(氏は8月15日の時点では会計審査局に勤務されていた)拝見させていただいたものを、この著書の中で独断で公表されたようである。
たぶん氏はこの和歌を拝見した時に非常な感動を覚えられたことと思う。
「鳥にたとえてははなはだ恐縮ではあるが、猛禽の襲 撃に対し、雛を守る親鳥の決死の姿を、涙して想うだけである」
と記しておられる。
昭和天皇の生涯を通じての御製の中でも最も重要な記念すべき歴史的な和歌 であるこれらの御歌、昭和天皇の御心を表すこれらの御歌を、たとえ後でおとがめがあろうとも、木下氏は、国民に向けて発表せずにはいられなかったのではなかろうか?
一首目の歌は、短歌の定型五七五七七の枠をはみ出した五八六七九という字余りになっており、自らの強い気持ちのほとばしるままに率直に詠まれている。
爆撃にたおれゆく民を思う気持ちに心がとらえられ、戦を止めようという強い決心がわが身の事よりも何よりも先立つように詠まれ、そのあとに身はいかにならむともという字余りの句で 重くとめておられる。
二首目は一首との連作で、同じ内容が、身はいかならむともという、一首の最後の句を受けて、こころの中でくりかえしくりかえし思いをこらして、なお変わらぬ不動の信念で決意の心を詠まれ、ただたおれゆく民を思いてと、民への深い同情の心を述べられている。
三首目に出 てくる国柄とは、そうした民を守るために天皇が決心をつらぬかれること、そんな天皇のみ心に感応して国民が答えること、その天皇と国民とのつながりこそが 日本の古来よりの国柄であり、天皇陛下にとっては、国民を身はいかになるとも守るということなのである。
昭和天皇が、死を覚悟されての強い決意で、終戦を 決断され、さらにマッカーサーとの会見にのぞまれた一連の出来事は、国民への深い愛情、そして勇気、信念において、涙なくては思い返すことが出来ない。
四首目はほとんど同じ歌が「折にふれて」と題して当時の新聞に発表されている。
「海の外(と)の陸(くが)に小島にのこる民の上安かれとただいのるなり」
これは「ただいのる。いのるほかはない」という意味であり、昭和天皇の民を思われる悲痛なお気持ちを表している。
まさに親が子供の無事をひたすら祈るそのままのお気持ちであろう。
終戦当時、昭和天皇が、マッカーサー元帥を訪問してどんなことをおっしゃったか戦後十年もたってから、マッカーサー元帥自身の口から発表された。
「私は戦前には、天皇陛下にはお目にかかった事はありません」
「初めてお出会いしたのは、東京の米国大使館であった」
「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました」
「しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました」
「すなわち、“私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります」
「また私は、日本の名においてなされた、 すべての軍事指揮官、軍人及び政治家の行為に対しても直接に責任を負います」
「自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分に は問題でない」
「私は全責任を負います」
「これが陛下のお言葉でした…」
「私は、これを聞いて、興奮のあまり、陛下にキスしようとした位です」
「もし国の罪をあが なうことが出来れば進んで絞首台に上ることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかり でした」
(「天皇陛下を讃えるマ元帥」重光葵)
その後、陛下は日本各地を御巡幸される。
戦後御製の多くはこの御巡幸の中からのものが多いから下少し御紹介する。
(昭和二十年)
「戦いのわざわいうけし国民(くにたみ)をおもふ心にいでたちて来ぬ」
「わざわいをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ」
「国をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし」
(香川県大島療養所 昭和二十五年)
「あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば」
「船ばたに立ちて島をば見つつ思ふ病やしなふひとのいかにと」
(愛媛県ごご島 昭和二十五年)
「静かなる潮の干潟の砂ほりてもとめえしかなおほみどりむし」
(三重県賢島 昭和二十六年)
「美しきあごの浦わのあまおみなとりし真玉は世にぞかがやく」
(東北視察の折に 昭和二十七年)
「秋ふかき山のふもとをながれゆく阿武隈川のしづかなるかな」
(輪島市の鴨ヶ浦にて 昭和三十四年)
「かづきしてあはびとりけり沖つべの舳倉島より来るあまらは」
(赤間神宮並びに安徳天皇陵に詣でて昭和三十三年)
(愛媛県ごご島 昭和二十五年)
「静かなる潮の干潟の砂ほりてもとめえしかなおほみどりむし」
(三重県賢島 昭和二十六年)
「美しきあごの浦わのあまおみなとりし真玉は世にぞかがやく」
(東北視察の折に 昭和二十七年)
「秋ふかき山のふもとをながれゆく阿武隈川のしづかなるかな」
(輪島市の鴨ヶ浦にて 昭和三十四年)
「かづきしてあはびとりけり沖つべの舳倉島より来るあまらは」
(赤間神宮並びに安徳天皇陵に詣でて昭和三十三年)
「水底に沈み給ひし遠つ祖を悲しとぞ思ふ書見るたびに」
昭和天皇の御製は、まるで万葉集の和歌に似て、素直でそのまま真心のあらわれたような、そして美しい音調。
作品にはひととなりがよくあらわれる。
昭和天皇の発表されている和歌は五百首以上あるが、おそらく未発表のものはそれ以上に多数あって、明治天皇と同じく、和歌によってお心を慰められてこられたのではなかろうかと思う。
昭和天皇の心の洗われるような御歌に接すると、昭和天皇がすぐれた歌人であらせられることがわかる。