
岩松(新田)家は、群馬県新田郡下田嶋村(現・群馬県太田市)の百二十石のお殿様。
百二十石なのに、十万石の大名扱いをされていた。
というのは、徳川家康と同じ新田家の血筋を引いていた。
徳川家康に新田の家系を奪われそうになったときに機転を利かせて、新田嫡流の家系を守るが、今後新田の姓を名乗らずに岩松姓を名乗るということで乗り切った。
岩松家は百二十石しかないのに、家柄がいいために五年に一回、大名格の行列で参勤交代を行うことになっていた。
参勤交代制度の目的の一つは、諸大名に行列のために大金を使わせて勢力を削ぎ、謀反などを起こさないようにするため。
岩松家の安政六年の「金銀出入万控帳」によると、七割近くが借入金になっていた。
家柄だけは抜群にいいのに、かなりの窮乏生活をしていたようで、当時、岩松新田氏は農民たちに貧乏の代名詞のように考えられていたそうだ。
岩松氏(新田)の十八代から二十一代までの殿様が、ネズミ除けの猫として猫の墨絵を描いていました。温純(あつずみ)徳純(よしずみ)道純(みちずみ)俊純(としずみ)の四代に渡って150年以上も猫絵を描いてきた。
代々の殿様が墨で猫絵を描いて、大切な収入源にしていたとのこと。
新田猫絵は「八方にらみの猫」 「満次郎の猫」とも言われ 岩松(新田)家の殿様が描いた、猫絵のこと。
それぞれのお殿様により猫は個性があり、一人のお殿様が何タイプかの猫を描いている。
お殿様の猫絵は肉筆なので、同じタイプの猫でも、違いそれぞれ味がある。
昔から群馬県は養蚕の盛んな土地。
ネズミは蚕を食べてしまい、ネズミ退治をする猫は大変重宝がられていた。
養蚕農家の信仰の対象として、殿様が描いた猫絵は、特に御利益があると思われていた。
養蚕農家では「蚕の神様」と称して床の間に掛けて信仰していたようだ。
新田猫絵は上州から発したが、ネズミ除けの効果が抜群だという評判を聞いて、養蚕の盛んな信州、下野、武蔵の養蚕農家までが鼠害から蚕を守るために護符の感覚で新田ネコ絵を競って買い求めた。
お殿様の肉筆の猫絵だけでは足りなくなり、他の絵師による肉筆や刷り物の新田猫絵までも出回るようになった。
幕末の横浜開港以降は、ヨーロッパに蚕種を輸出するようになった。
何日もかけて船でヨーロッパまで運ぶから、その間に蚕種が鼠に食べられないように新田猫絵が添付された。
最後のお殿様の俊純氏は、明治維新で男爵になったのでヨーロッパでは「バロン・キャット」と呼ばれていた。
新田猫絵は、美術品というよりも、暮らしの中で使われた生活用具のような物だったので、現在残っている作品は、風雨や日光にサラされて殆どがボロボロ。
「よく働いたなあ、一体何万匹のネズミを追い払ったのよ」と感心するくらい痛んでいる。
たまに、群馬や長野などの養蚕が盛んな地方から出てくる。
四代に渡って猫を描き続けたお殿様は、新田猫絵が時空を越えた現代になって、珍重されている。


