文禄・慶長の役(1592~1598年)で、島津義弘公に従って朝鮮へ出征した7匹の猫のうち、日本に生還した2匹の猫の霊が祀ってあります。

『猫の目のように』といったり、『猫の目玉と秋の空』『女の心は猫の目』ということわざがあるように、移り変わりが激しい、変化しやすいことの例えに、“猫の目”が使われます。

眼の内側に入る光の量を調節する黒色の開口部を瞳孔(どうこう)あるいは瞳といいますが、猫の瞳孔は人間と違って縦に細長くなっています。

これは、瞬時に瞳孔の大きさを変えるのに有利で、また草むらのような縦長の視界で視覚を働かせるのに有利なためと考えられています。

猫の瞳孔は調整範囲が広く、明るいところでは細長く、暗いところでは出来るだけたくさんの光を取り込むために目一杯広げて真ん丸にします。つまり、猫の目は明るさによって瞳孔の形が変わるわけです。

真昼に近い時刻には瞳孔の広さは狭くなり、逆に真夜中に近づくほど広くなるので、時計というものがなかった時代、時間帯によって猫の目の瞳孔の形が変わると考え、忍者などが概略の現在時刻を知るのに活用したといわれています。

『六つ丸く五七卵に四つ八つは柿の核なり九つは針』という日本の古歌があって、意味は、猫の瞳孔は

・六つ(午前六時頃)は、丸く

・五(午前八時頃)と

・七(午後四時頃)は、卵形

・四つ(午前十時頃)と

・八つ(午後二時頃)は、柿の種

・九つ(正午頃)は針のように細い

ということだそうです。

島津義弘公に従って朝鮮へ出征した7匹の猫は、時刻を知らせる役目を担っていましたが、まさか戦場で食事時を知るのが目的で使用されたのではなかったでしょう。

7匹の猫がそれぞれの部隊に配られ、作戦開始のタイミングを示し合わせるための『陣中時計』として使われたのでしょうか。

文禄の役では国元の体制不備により軍役動員がはかどらず『日本一の遅陣』といわれ面目を失った島津軍でしたが、慶長の役ではその武勇を遺憾なく発揮したそうです。

慶長3年(1598年)の泗川の戦いでは、明軍・朝鮮の大軍を、それよりはるかに少ない寡兵で打ち破り、島津軍は『鬼石曼子(グイシーマンズ・おにしまづ)』と呼ばれて恐れられたそうです。

そうした島津軍の朝鮮での活躍の7匹の猫たちも貢献したのでしょうか。

5匹の猫が戦死、2匹の猫が生還しました。

朝鮮に出征した7匹の猫は、黄色と白の二色の波紋のある猫で、義弘の次子、久保(ひさやす)に愛せられ、”ヤス”と命名されていました。

久保は21歳の若さで朝鮮において病死しましたが、以来この種の猫を、鹿児島では”ヤス”と呼ぶようになったといわれ、現在もそう呼ばれています。

『猫屋』には、”ヤス”猫の置物(年期が経って多少汚れています)が7体置いてあります。

<以上>

後は、蚕の養育で鼠が蚕を食べまくるから天敵である猫が飼われたり色々…


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