身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置(とどめおか)まし大和魂

これは吉田松陰の遺書『留魂録』の冒頭に書かれた辞世の歌。

この和歌の意を表すように自ら留魂録と名づけた。

この留魂録は弟子にあてた遺書であり、肉親宛てには別に遺書を書いている。

そちらの方は

親思うこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん

という有名な辞世の一首で始まっており、こちらは完全に私的なもので、親族に語りかけたもの。

留魂録は16章からなっており、松陰が死を前にした心境やそこに至った心の変化や、死を言い渡されるにいたった役人とのやり取りの経過、その中で幕府への意見を述べたことやそれに対する幕府の反応、幕府の役人への感想や評価、哲学的な見方、死生観、更には安政の大獄でとらえられた人物との獄中での交流が語られ、その中には面識はなかったが、橋本佐内の死を惜しんでいる部分もある。

またそれらの人物についての連絡法や、そこからたどれる人脈についても書かれ、門弟にそれらの人びとと連絡を取り、同志として交流し、自分が果たせなかった約束を代わって果たしてくれるように頼んでいる。

またこれらの人に門弟達のことを話しておいたということと、それは今後のことを考えてのことだということを書いている。

松陰は、たとえ幕府の役人であろうと「至誠にして動かざる者は未だ之有らざるなり」という孟子の言葉を信念として動いたが「終(つい)に事をなすこと能わず、今日に至る」それはわが徳の薄さ故であって、誰を怨むことがあろうかと言って、従容と潔く討たれた。

松陰が死罪となったのは、老中 間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を企てたのを自ら自白したのが原因であり、そうでなければ死罪はありえなかったのである。

松陰は幕府の役人と話すことで幕府に諫言できると思い、幕府の政策への意見を述べるうちにうっかりしゃべってしまったようである、と松陰研究家の古川薫氏は言う。

それでも生きて帰ることに一縷の望みを懐いていたが、結局は叶わなかった。

うっかりとはいえ死罪に相当する自白までして、それでも自分の幕府への意見がまったく取り上げられずに、握りつぶされてしまったことや、罪状が自分の証言とは違って適当に役人に作り上げられてしまっていることなどに悔しい思いがあったようである。

死に臨んで、自分の憂国の情を弟子たちに引き継いでほしいという思いが、この留魂録を書かせたのであろう。

生きていれば自分が、ここで知り合ったすぐれた人物と交流し、尊王攘夷の運動をしていくであろうはずの未来を弟子に託そうとしたようにみえる。

松陰のことを読んだり考えたりするたびに、なぜわざわざ死罪になるような自白をしたのだろうと思う。

宮部鼎蔵と東北視察をする約束をして、待ち合わせに間に合うために脱藩したのはまだわかる。

密航や暗殺をわざわざ告白しなくてもと、どうしても思ってしまうのである。

ところが、林房雄氏は「言わなきゃよかったじゃないかと馬鹿なことを書いている歴史家がいるが、それでは、『かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』の意味はわからない」という。

西郷隆盛も三島由紀夫も同じように、わかっているけれどやむにやまれない。「こういうのを留魂というのであって、魂は訴える。」と言っている。

吉田松陰が、間部暗殺をうっかり言ったのか敢えて言ったのかは分からないが、松陰研究家の古川薫氏はうっかりであるようだとおっしゃっている。

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松陰は自分のことを二十一回猛士と呼んで、死ぬまでに全力をあげて二十一回の行動を起こすと誓って、この号を好んで使い、墓標にもそう書いてくれと頼んでいる。

結局三回目の行動で死を迎えるにいたったが、私には、この号を使い始めた段階で、なんだか生き急ぎ、死に急いでいる感じがするのである。

うっかりというけれど、心理学的には、表面の心でこそうっかりではあるが、こういう場合深層の心では、それを敢えてしていることが多いのである。私は松陰もそうであろうと思う。

意識的にしろ無意識的にしろ、あえて自分を死の危険にさらしているように思う。

なぜなのか、それが林氏のいうやむにやまれぬ大和魂なのである。

松陰には時代が見えたのだ。若いころから海外事情を書いた本を読みあさり、21歳で平戸長崎に遊学している。

日本が直面している状況に非常な危機感があったはずである。松陰はすぐれた教育者である。

たいへん感化力の強い人で、罪人として謹慎している時に松下村塾を開き多くの弟子を集め、牢内でも同じ罪人仲間に講義をして聞かせて尊敬を集めている。

そんな松陰が時代の危機を感じて、何をするかと言えば人々に強く訴えたいということではないか。

そしてその最も効果的な方法は、自分が死罪になることではないか。それははっきり意識したわけではないかもしれない。あるいは意識していたかもしれない。

しかしこの松陰の死によって、高杉晋作ははっきりと倒幕を決意したのである。

弟子たちは松陰の死によって動かされたのである。そうして時代が動いたのである。松陰の留魂録は門下生によって、ひそかに回覧され、写本が作られた。

そうして志士たちのバイブルとなった。まさに「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」である。

この留魂録は同文のものが二通作られた。二日でこれを書くにあたって、松陰と同じ牢にいた牢名主の沼崎吉五郎の好意がなければ完成も門下生への引き渡しもできなかったかもしれない。

沼崎は福島藩士能勢久米次郎の家臣で、殺人容疑で牢につながれていたが、冤罪であったようである。沼崎は松陰を尊敬し、松陰から孫子、孟子の講義を受けている。

親身になって松陰の世話をして、留魂録を含めた遺品を自分の手紙を添えて門下生に無事渡すことに成功した。松陰は留魂録が没収されることを考えて、もう一通を沼崎に託し、牢から出たら、長州の人間なら誰でもよいから渡してくれと頼んだ。

沼崎はこの遺書を肌身離さず持ち歩き、三宅島に遠島になるときには褌に隠して渡ったと言う。

そうして明治九年に自由の身となった沼崎によって、約束が果たされ、もう一通が陽の目を見た。弟子に渡った方は紛失してしまい、写本には抜け落ちた文章があった。

直筆の留魂録の完全なものが伝わったのは、この沼崎の松陰の心に感応した篤志によるものであった。

留魂録の終わりには、さらに五首の辞世の和歌が置いてある。

かきつけ終わりて

心なることの種々(くさぐさ)かき置ぬ思残せることなかりけり

呼だしの聲まつ外に今の世に待つべき事のなかりける哉

討れたる吾をあはれと見ん人は君を崇めて夷(えみし) 拂(はら)へよ

愚なる吾をも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々

七たびも生かえりつゝ夷(えみし)をぞ攘(はら)はんこゝろ吾忘れめや

十月廿六日黄昏書

二十一回猛士

参考文献 『吉田松陰 留魂録』 古川薫

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