昭和天皇が、即位されたのは御歳25歳の時で、即位の大礼は喪服明けの昭和3年11月10日に京都御所で行われた。
この即位の祭礼の一環として宮城前広場で東京及び近隣4県の青年男女8万名の御親閲が行われた。
この日東京は氷雨まじりの豪雨となった。
玉座は天幕で覆われていたが、昭和天皇は「今日の大雨に青年たちは朝から濡れているのだ。どうして自分だけが天幕の中に立っていられるか。」と仰り、宮内大臣の説得にも頑として応じられなかったので、せめて防水マントだけは着ていただくということで、天幕は取り外された。
ところが雨中に立たれる陛下に感動した若人が雨具を脱ぎ捨てたのを見て、陛下もマントを脱ぎ捨てられた。
そうして分列行進の終わる80分間微動だにされず、各集団に挙手の礼で答えられた。
陛下が硬直した足取りで下りられた台上には雨を吸い色が変わった絨毯が残され、その真ん中には60度にひらかれた足跡がくっきり残されていた。
肌を刺すような冷たい雨風の中で、陛下は足ずり一つなさらなかったのである。
昭和初期より戦争続きの状態を、昭和天皇はとても心配され、首相や陸相にたびたび親善を基調とした外交や、軍規の振粛をはかるように言われたりした。
戦争が始まると、日本軍は緒戦の戦果は目覚ましかったが、陛下の御心は晴れず「人類平和のためにも徒に戦争の長びきて惨害の拡大し行くは好ましからず」とローマ法王への使節派遣等の停戦方策を模索し続けられるのだった。
昭和20年5月の空襲で、明治宮殿は焼失し、両陛下は“お文庫”と称する所に住まわれた。
ところがこのお文庫は、戦時中、空襲に耐えられるように建てた急造の防空建築で、狭いうえに陽はささず、風も入らない。
おまけに猛烈な湿気で、とても日常のお住居として耐えうるようなものではない。
当然御住居建設の声がでたが「いまどきの国民の苦労を思えば雨露をしのげるだけでも結構だ。」と一言の下にはねつけられ、それでは手入れだけでも、との申し出にも「戦災者や引揚者の寮にいる人達はこんなどころではなかった…それに私は今どこも悪くない」となかなかご許可にならず、16年間もお文庫で不自由な生活を続けられた。
国民の暮らしが楽になるまではというお考えから許可されぬ陛下を、やっと説得申し上げてできたのが、吹上御所なのである。
「こんな気持ちのいい所に生活できて嬉しい。これもみんな国民のおかげである。」と感謝されながら、お暮しになった。
日本が復興していく中、昭和天皇は犠牲となった英霊をお忘れになることはなかった。
終戦以来、毎年8月15日にはどこへも外出されずに英霊の冥福を祈っておられたし、38年に政府主催の全国戦没者追悼式が催されるようになってからは、必ずご臨席された。第一回の追悼式の数日後の記者会見で、そのご感想を尋ねられると、陛下は、サッと“気をつけ”の姿勢をされたと言う。
終戦間際の御前会議において、昭和天皇は次のように言われました。
「…私の任務は祖先から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本国民に生き残ってもらい、その人たちに将来再び起ち上がってもらうほかにこの日本を子孫に伝える方法はないと思う。それに、このまま戦争をつづけることは、世界人類にとっても不幸なことである…私のことはどうなってもかまわない。たえがたいこと、しのびがたいことではあるが、この戦争をやめる決心をした」
(迫水恒久『大日本帝国最後の四カ月』)
列席していた閣僚たちは号泣しました。
会議が終わった後、部屋を出て行かれる陛下に、阿南陸軍大将は取りすがるようにして慟哭しました。
陸軍の立場として、「一戦後和平」を考えて、徹底抗戦、本土決戦を主張してきた大将の男泣きでした。
勝利の見通しをつけられない微忠を詫びての涙でした。その時陛下は
「阿南、阿南、おまえの気持はよくわかっている。しかし、私には国体を守れる自信がある」
(藤田尚徳『侍従長の回想』)
と言われました。先の御覚悟と この御確信は、全国御巡幸でお示しになり、みごとその成果となって現れました。
昭和天皇の御巡幸は昭和21年の2月19日の神奈川県下の昭和電工を皮切りに、昭和29年の北海道御視察に至るまで日数にして165日、総距離33,000キロに及ぶ驚異的な御事績でした。
その間言葉をかけられたり、挨拶を交わされたりした国民は2万人に達し、御巡幸された土地の農産物や工業生産の能率は急上昇し、全国民の士気がよみがえったのでした。
昭和21年2月28日、昭和天皇は東京都世田谷区三宿の兵営住宅の戦災者3700名を慰問されました。
ご案内したのは賀川豊彦氏で、氏は述懐して次のように言っています。
「その時、私は初めて天皇が物腰低く、親切で、丁寧で、平民として平民に接せられるにも全く精神的で、人道主義者として最善の努力をしていられるのに感心してしまった。とても私であればあんな努力と勉強はできないと思った」
賀川豊彦氏は、この言葉にもあるように、昭和天皇を平民と呼ぶほどの社会主義心棒者であり、またクリスチャンでもあり、神戸の貧民窟で長年、最下層の人々と苦楽を共にした有名な思想家です。
その彼が一番びっくりしたのは、昭和天皇が、上野駅からどっと流れて来た浮浪者の群れに対して、一々丁寧に挨拶をされた時のことだと言っています。
かつて、昭和天皇がまだ皇太子時代、摂政の宮であった時に、難波大輔というテロリストによって狙撃された虎の門事件というのがありました。
氏はそれを思い出し
いくら時代の変化とはいえ、左翼は解放せられている時代だし、暗殺しようと思えば何でもないのだが…(陛下は)少しの恐怖もなく、親友に話するように、一人一人に、二、三尺の所に接近して
「あなたは何処で戦災にあわれましたか?ここで不自由をしていませんか?」
と聞かれている。その御姿を拝して、三十七年間社会奉仕事業に専念してきた私としては陛下に負けると思った。と白状している。
実際、陛下はあの時、疲れていらして歩行することにも非常に努力していられることが、すぐ二、三尺後から宮内大臣の命令でついて行っている私にはよく解った。
しかも、暗いトンネル長屋の昔を偲ばせる兵営住宅で、陛下は歩行困難な中を足をずらせて、探り探り歩いていらした。
かれこれ一時間半以上も費やされて、戦災者を慰問なされたのであった。
それはなかなかの努力であった。もし暗殺しようと思へば、どこにでもその機会はあった。三千七百名はすべてプロレタリアであった。
(賀川豊彦「平民『ヒロヒト』」より)
昭和20年12月23日から25日までサン・ニュース・フォト社企画の『天皇』の取材が赦されました。
新聞カメラマンとしては、神武天皇以来初めての天皇取材とあって、記者の二宮徳一氏はその思い出を克明に、『毎日グラフ』別冊「天皇・近代日本の70年」に執筆しています。
それによると、撮影に入って2日目は、昭和天皇の書斎での取材でした。
昭和天皇ご自身、先に立って、書斎に入られたが、入口でまず電気ストーブのスイッチを切られたのでした。
侍従がそっと二宮氏に耳うちしました。
「お上はわれわれが、気をきかせてストーブを入れても、必ず、ご自身で消されるのです。夜遅くまで、寒いお部屋でお仕事をされるのです。」
そして二宮氏が初めて昭和天皇の部屋で目にしたものは、机の上の電話、ペン皿、書類箱でした。
一国の元首のそれを想像させる調度や文房具は何一つとしてなかった。
ただ、今までページを繰られていた横文字の専門書と、ご自身で採集されたという貝殻の標本が生物学者としての陛下のお机であることを物語っているにすぎなかった。
ペン皿のちびた鉛筆、その横にインクの瓶。
俺の家とあまり変わりないと思ったことを今も覚えている。
と二宮氏は書いている。
さらに、仕事の終わったことを申し上げると、陛下はすぐに部屋を出て行かれたが、その足許をみると当時の言葉でいえば、玉歩を運ばせたまうそのスリッパは、後半分がすり切れて、爪先だけの、つっかけにすぎないお粗末な品だったことを付け加えておこう。
スリッパを、後ろ半分がすり切れて無くなるまで、履き古すほどの節約ぶりは、想像を絶している。
陛下は戦災によって、宮殿を焼かれ、お文庫と言われる防空施設に御移りになって以来、昭和36年までそこに住んでおられた。
冬はしんしんと冷え、夏は蒸し暑く壁がじっとり湿気って汗をかくほどでした。
天井は戦後数年立つと、雨漏りがし始めました。
漆喰が水を含んで天井が抜け落ちたこともあり、危険なこともありました。
やっと昭和36年にお文庫のすぐ脇に新御所ができて、普通の住居にお移りになられました。
新居にお体を運ばれたとき、昭和天皇の御手には、それまで仮住まいで使い古されたスリッパを提げておられたのでした。
(高尾亮一元宮内庁管理部長“吹上御所、新宮殿”から)
(-_-;){分かったかニダ~
この即位の祭礼の一環として宮城前広場で東京及び近隣4県の青年男女8万名の御親閲が行われた。
この日東京は氷雨まじりの豪雨となった。
玉座は天幕で覆われていたが、昭和天皇は「今日の大雨に青年たちは朝から濡れているのだ。どうして自分だけが天幕の中に立っていられるか。」と仰り、宮内大臣の説得にも頑として応じられなかったので、せめて防水マントだけは着ていただくということで、天幕は取り外された。
ところが雨中に立たれる陛下に感動した若人が雨具を脱ぎ捨てたのを見て、陛下もマントを脱ぎ捨てられた。
そうして分列行進の終わる80分間微動だにされず、各集団に挙手の礼で答えられた。
陛下が硬直した足取りで下りられた台上には雨を吸い色が変わった絨毯が残され、その真ん中には60度にひらかれた足跡がくっきり残されていた。
肌を刺すような冷たい雨風の中で、陛下は足ずり一つなさらなかったのである。
昭和初期より戦争続きの状態を、昭和天皇はとても心配され、首相や陸相にたびたび親善を基調とした外交や、軍規の振粛をはかるように言われたりした。
戦争が始まると、日本軍は緒戦の戦果は目覚ましかったが、陛下の御心は晴れず「人類平和のためにも徒に戦争の長びきて惨害の拡大し行くは好ましからず」とローマ法王への使節派遣等の停戦方策を模索し続けられるのだった。
昭和20年5月の空襲で、明治宮殿は焼失し、両陛下は“お文庫”と称する所に住まわれた。
ところがこのお文庫は、戦時中、空襲に耐えられるように建てた急造の防空建築で、狭いうえに陽はささず、風も入らない。
おまけに猛烈な湿気で、とても日常のお住居として耐えうるようなものではない。
当然御住居建設の声がでたが「いまどきの国民の苦労を思えば雨露をしのげるだけでも結構だ。」と一言の下にはねつけられ、それでは手入れだけでも、との申し出にも「戦災者や引揚者の寮にいる人達はこんなどころではなかった…それに私は今どこも悪くない」となかなかご許可にならず、16年間もお文庫で不自由な生活を続けられた。
国民の暮らしが楽になるまではというお考えから許可されぬ陛下を、やっと説得申し上げてできたのが、吹上御所なのである。
「こんな気持ちのいい所に生活できて嬉しい。これもみんな国民のおかげである。」と感謝されながら、お暮しになった。
日本が復興していく中、昭和天皇は犠牲となった英霊をお忘れになることはなかった。
終戦以来、毎年8月15日にはどこへも外出されずに英霊の冥福を祈っておられたし、38年に政府主催の全国戦没者追悼式が催されるようになってからは、必ずご臨席された。第一回の追悼式の数日後の記者会見で、そのご感想を尋ねられると、陛下は、サッと“気をつけ”の姿勢をされたと言う。
終戦間際の御前会議において、昭和天皇は次のように言われました。
「…私の任務は祖先から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本国民に生き残ってもらい、その人たちに将来再び起ち上がってもらうほかにこの日本を子孫に伝える方法はないと思う。それに、このまま戦争をつづけることは、世界人類にとっても不幸なことである…私のことはどうなってもかまわない。たえがたいこと、しのびがたいことではあるが、この戦争をやめる決心をした」
(迫水恒久『大日本帝国最後の四カ月』)
列席していた閣僚たちは号泣しました。
会議が終わった後、部屋を出て行かれる陛下に、阿南陸軍大将は取りすがるようにして慟哭しました。
陸軍の立場として、「一戦後和平」を考えて、徹底抗戦、本土決戦を主張してきた大将の男泣きでした。
勝利の見通しをつけられない微忠を詫びての涙でした。その時陛下は
「阿南、阿南、おまえの気持はよくわかっている。しかし、私には国体を守れる自信がある」
(藤田尚徳『侍従長の回想』)
と言われました。先の御覚悟と この御確信は、全国御巡幸でお示しになり、みごとその成果となって現れました。
昭和天皇の御巡幸は昭和21年の2月19日の神奈川県下の昭和電工を皮切りに、昭和29年の北海道御視察に至るまで日数にして165日、総距離33,000キロに及ぶ驚異的な御事績でした。
その間言葉をかけられたり、挨拶を交わされたりした国民は2万人に達し、御巡幸された土地の農産物や工業生産の能率は急上昇し、全国民の士気がよみがえったのでした。
昭和21年2月28日、昭和天皇は東京都世田谷区三宿の兵営住宅の戦災者3700名を慰問されました。
ご案内したのは賀川豊彦氏で、氏は述懐して次のように言っています。
「その時、私は初めて天皇が物腰低く、親切で、丁寧で、平民として平民に接せられるにも全く精神的で、人道主義者として最善の努力をしていられるのに感心してしまった。とても私であればあんな努力と勉強はできないと思った」
賀川豊彦氏は、この言葉にもあるように、昭和天皇を平民と呼ぶほどの社会主義心棒者であり、またクリスチャンでもあり、神戸の貧民窟で長年、最下層の人々と苦楽を共にした有名な思想家です。
その彼が一番びっくりしたのは、昭和天皇が、上野駅からどっと流れて来た浮浪者の群れに対して、一々丁寧に挨拶をされた時のことだと言っています。
かつて、昭和天皇がまだ皇太子時代、摂政の宮であった時に、難波大輔というテロリストによって狙撃された虎の門事件というのがありました。
氏はそれを思い出し
いくら時代の変化とはいえ、左翼は解放せられている時代だし、暗殺しようと思えば何でもないのだが…(陛下は)少しの恐怖もなく、親友に話するように、一人一人に、二、三尺の所に接近して
「あなたは何処で戦災にあわれましたか?ここで不自由をしていませんか?」
と聞かれている。その御姿を拝して、三十七年間社会奉仕事業に専念してきた私としては陛下に負けると思った。と白状している。
実際、陛下はあの時、疲れていらして歩行することにも非常に努力していられることが、すぐ二、三尺後から宮内大臣の命令でついて行っている私にはよく解った。
しかも、暗いトンネル長屋の昔を偲ばせる兵営住宅で、陛下は歩行困難な中を足をずらせて、探り探り歩いていらした。
かれこれ一時間半以上も費やされて、戦災者を慰問なされたのであった。
それはなかなかの努力であった。もし暗殺しようと思へば、どこにでもその機会はあった。三千七百名はすべてプロレタリアであった。
(賀川豊彦「平民『ヒロヒト』」より)
昭和20年12月23日から25日までサン・ニュース・フォト社企画の『天皇』の取材が赦されました。
新聞カメラマンとしては、神武天皇以来初めての天皇取材とあって、記者の二宮徳一氏はその思い出を克明に、『毎日グラフ』別冊「天皇・近代日本の70年」に執筆しています。
それによると、撮影に入って2日目は、昭和天皇の書斎での取材でした。
昭和天皇ご自身、先に立って、書斎に入られたが、入口でまず電気ストーブのスイッチを切られたのでした。
侍従がそっと二宮氏に耳うちしました。
「お上はわれわれが、気をきかせてストーブを入れても、必ず、ご自身で消されるのです。夜遅くまで、寒いお部屋でお仕事をされるのです。」
そして二宮氏が初めて昭和天皇の部屋で目にしたものは、机の上の電話、ペン皿、書類箱でした。
一国の元首のそれを想像させる調度や文房具は何一つとしてなかった。
ただ、今までページを繰られていた横文字の専門書と、ご自身で採集されたという貝殻の標本が生物学者としての陛下のお机であることを物語っているにすぎなかった。
ペン皿のちびた鉛筆、その横にインクの瓶。
俺の家とあまり変わりないと思ったことを今も覚えている。
と二宮氏は書いている。
さらに、仕事の終わったことを申し上げると、陛下はすぐに部屋を出て行かれたが、その足許をみると当時の言葉でいえば、玉歩を運ばせたまうそのスリッパは、後半分がすり切れて、爪先だけの、つっかけにすぎないお粗末な品だったことを付け加えておこう。
スリッパを、後ろ半分がすり切れて無くなるまで、履き古すほどの節約ぶりは、想像を絶している。
陛下は戦災によって、宮殿を焼かれ、お文庫と言われる防空施設に御移りになって以来、昭和36年までそこに住んでおられた。
冬はしんしんと冷え、夏は蒸し暑く壁がじっとり湿気って汗をかくほどでした。
天井は戦後数年立つと、雨漏りがし始めました。
漆喰が水を含んで天井が抜け落ちたこともあり、危険なこともありました。
やっと昭和36年にお文庫のすぐ脇に新御所ができて、普通の住居にお移りになられました。
新居にお体を運ばれたとき、昭和天皇の御手には、それまで仮住まいで使い古されたスリッパを提げておられたのでした。
(高尾亮一元宮内庁管理部長“吹上御所、新宮殿”から)
(-_-;){分かったかニダ~