■1.沖縄戦「住民自決命令」裁判
『鉄の暴風』(沖縄タイムス、朝日新聞社、昭和25(1950)年刊)は記している。
「地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った汎(あら)ゆる食料を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。
これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛憤した。
映画でも見ているようなドラマチックな場面であるが、ここに登場する知念少尉は、後に次のように証言している。
「渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘ばかり書くから、私は読んでいませんよ」
知念氏は『鉄の暴風』を書いた沖縄タイムスから、一度も取材されたことがない、として、「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と言う。そして住民自決という「軍命」があったことを真っ向から否定した。
こういう本から、「住民自決命令」という神話が一人歩きして、教科書に載るまでになってしまったのだが、本号では、この沖縄タイムスの「見てきたような嘘」を、誰がどのような過程で創作したのか、を追ってみたい。
■2.「思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた」
その前に『鉄の暴風』が描く「見てきたような嘘」を、もう一つ、見ておこう。住民自決の「軍命」が伝えられ、実行された場面である。
「恩納河原(おんながわら)に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた」
「こと、ここにいたっては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから全員玉砕する」というのである。
(中略)
「住民たちは死場所を選んで、各親族同志が一塊(かたまり)り塊り(原文のママ)になって、集まった。手榴弾を手にした族長(ママ)や家長が「みんな笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった」
「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された」
「手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然(ごうぜん)たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、--男、女、子供、嬰児(えいじ)--の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻(あび)叫喚の光景が、くりひろげられた」
「死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀(かみそり)で、自らの頸部(けいぶ)を切ったり、鍬(くわ)で、親しいものの頭を、叩き割ったりして…」
■3.「あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」
実際に地元の駐在巡査として村民と行動を共にし、赤松大尉と接触もあった安里(あざと)喜順氏は、沖縄タイムスに反論の手紙を出した。
「私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。責任者として天地神明に誓い、真実を申し上げます…」
「『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時にはすでに遅く、全国に販売されてをったようです」
「それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります」
「沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません」
安里氏によれば、赤松隊長に村民の避難場所について尋ねたところ
「作戦の邪魔にならない、部隊近くのどこか安全なところに避難させておったらいいでしょう。我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」と答えた。
ところが集まった村の幹部たちは動揺しており、自決した方が良い、ということになった。
自決が始まったが、手榴弾の使い方が分からない、あるいは不発弾も多く、生き残った村民たちが部隊の陣地になだれ込み、銃を貸してくれ、と頼んだ。
部隊はこの要請を拒否。
そこに米軍の迫撃砲が撃ち込まれ、
5,60人が死亡。それを見て皆われに返った。
赤松隊長は自決の知らせに驚き
「早まったことをしてくれた」と嘆いたという。
米軍が上陸すると、赤松隊長は軍の食料の半分を民間と分け、安里氏はその分配に立ち会った。
「部隊は最後まで頑張る。あなたがたは、このあるだけを食べて、あとは蘇鉄(そてつ)でも食べて生きられるだけ生きなさい」と言った。
ところが同社社長に瀬長亀次郎氏が就任すると、米軍との関係が悪化。
ウルマ新報の代わりとして、米軍が協力を約束して発行を認可したのが、沖縄タイムスだった。
同紙の創刊は、昭和23(1948)年7月1日だが、その紙面のトップには米軍幹部のメッセージが掲げられている。
その一つとして、軍政府情報部長R・E・ハウトン大尉は、こう述べている。
「沖縄タイムスが沖縄人民の情報、時事並びに軍民両政府から発せられる司令や命令を報道することは軍政府の要望するところである」
「その下に、高嶺朝光社長の次のような創刊の辞が掲載されているのだが、この位置関係が、米軍との関係を示している」
「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している、この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に対する協力であり、また、これが沖縄を復興する道である」
当初は2ページ立てのガリ版刷りで、週2回の発行だったが、軍からの用紙の補給が困難という理由で、第14号以降「本紙は軍命により」として週1回に変更している。
新聞社としても用紙の補給を米軍に頼っていたわけで、まさに「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している」と生殺与奪の権を握られていたのである。
こうして米軍の軍政下で、御用新聞として創刊されたのが沖縄タイムスだった。
■5.「沖縄人は虐げられてきたのだ」
米軍侵攻時、沖縄県民がいかに祖国日本のために戦ったかは、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」という沖縄根拠地隊司令官・大田實海軍中将の言葉で言い尽くされている。
この沖縄を米軍軍政で統治するためには、県民を心理的に日本国そのものから切り離さねばならない。
そのために米第10軍司令部内の情報部は、沖縄戦を前にして心理作戦チームを編成し、情報収集を開始した。
この一環として、ハーバード大学のアルフレッド・トッツア教授は「琉球列島の沖縄人・日本の少数集団」という心理作戦を立案し、次のように提言している。
「沖縄人は虐げられてきたのだという意識を高め、沖縄人は、日本人全体と対応する個別の民族であるというアイデンティティーを強調する趣旨の宣伝懐柔策が成功をおさめるだろう」
「この心理作戦に基づき、情報部は沖縄での空中散布用に570万枚ものリーフレットを印刷した。そこにはこんな文面があった」
「皆さんの家はこわされたり、畑や作物は踏み潰され又元気盛りの青年は殺され、沖縄の人は皆口に言えぬ苦労をしています。内地人はみなさん達に余計な苦労をさせます…」
「日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしている事は皆さん達に明らかでしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯(ただ)貴方達は、内地人の手先に使われているのです」
■6.「国境を民族を、超えた米軍の人類愛」
「日本兵が沖縄の人々を殺したり」というプロパガンダに呼応して、企画されたのが『鉄の暴風』だった。
この本の監修を担当した常務の豊平良顕(とよひら・りょうけん)氏は、「高嶺社長以下全社員の熱意によつて、沖縄タイムズ創刊当初より戦記刊行が企てられ…」と、経緯を綴っている。
その中に「沖縄戦記の刊行をタイムス社が承ったことは…」という一節があるが「承る」とは「上位者から命令などを『受け』『いただく』の意」(大辞泉)である。
その上位者とは米軍と考える他はない。とすれば『鉄の暴風』の執筆は米軍の命令だったことになる。
さらに豊平氏は、こうも述べている。
「なお、この動乱(沖縄戦)を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境を民族を、超えた米軍の人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。われわれは、そのことを特筆した」
「更生」とは「前科者の更生」というように使われる。
「米軍のヒューマニズム、人類愛によって、今まで内地人に虐げられてきた沖縄人は正しい道に戻った」という認識である。
ちなみに作家ジョージ・ファイファーは『天王山-沖縄戦と原子爆弾』で米軍による沖縄でのレイプ事件の被害者を1万人以上と推定しているが、米軍の「人類愛」を謳いあげる沖縄タイムスでは、当然、このような事実は闇から闇に葬られたことであろう。
■7.「また聞きのまた聞き」から創作された光景
こうした方針のもとに『鉄の暴風』は二人の執筆者によって、昭和24年(1949)春から、取材3ヶ月、執筆3ヶ月という短期間で仕上げられ、同年11月に脱稿。
その後、原稿を英訳して、米軍政府に出版許可を求めた。
結局、米軍政府の許可が降りたのは、脱稿から7ヶ月もたった昭和25(1950)年6月15日だが、許可が長引いたのは、時の軍政長官シーツ少将が読み始めて「これは面白い」と手元に長い間、置いていたからだという。
このシーツ少将は、『鉄の暴風』の出版広告に「沖縄人必読の良書」と最大限の賛辞を送っている。
さて、この「必読の良書」は、記者二人が取材3ヶ月で400字詰め原稿用紙750枚ほどを書き上げただけに、筆者の一人、太田良博氏自身が自ら言うように「まったく突貫工事」だった。
冒頭で「知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛憤した」という一節を紹介したが、知念氏自身が「作り話ですよ」と指摘した点については、太田氏は「あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」と弁解している。
太田氏は渡嘉敷島の集団自決について取材した人物として二人を挙げているが、一人は事件当時、南方にいて現場を目撃していない。もう一人は座間味島の村助役・山城安二郎で座間味島の自決場面は目撃していても、渡嘉敷島の自決は見ていない。
太田氏は、現場を見ていない二人の証言から、「また聞きのまた聞き」によって「悲憤のあまり、慟哭し」というようないかにも見てきたような情景描写を、当人に取材もせずに創作したのである。
「住民自決命令」は、事実を正確に記録しようというジャーナリズムでなく、沖縄を日本から分断しようとする米軍の方針に忠実に従ったプロパガンダの産物であった。
現地での取材もせず、一方的に想像力を働かせて描いた史実、一体彼らにとって歴史とはなにか?
しかもそうした捏造によって、貶められる人々に対して、どのように思っているのか?
史実として否定されても、いまだにプロパガンダとして生き延びる「住民自決命令」神話。
■1.米軍情報をもとに書かれた『鉄の暴風』
『鉄の暴風』は座間味島での集団自決に関しては、守備隊長・梅澤裕少佐が住民に自決を命じた後、こう行動したと伝えている。
「最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」
県立沖縄資料編集所主任専門員の経歴を持つ大城将保(おおしろ・まさやす)氏は、この記述に関して次のような指摘をしている。
「梅沢少佐は今なお健在であって、明らかに事実誤認である。それよりも気になるのは、「梅沢少佐のごとき」とか「朝鮮人慰安婦らしきもの」といった文章のアヤに執筆者の主観が濃厚に出ていて実証精神を疑わしめるところがある点である」
さすがに『鉄の暴風』第9版では、この事実誤認の一節は完全に削除されている。
しかし、なぜ、このような事実誤認がなされたのか、その経緯は『鉄の暴風』の特殊な性格を明らかにしている。
座間味島での戦闘で敵弾を受けて重傷を負った森井芳彦少尉は、部隊本部の防空壕で一人の補助看護婦から手当を受けていた。
だが、助かる見込みがなかったため、その補助看護婦は「森井少尉が死ぬなら私もお供する」と語り、ほかの兵士を外に出した後で自決した。
ちなみに、この女性は朝鮮人慰安婦だったが、戦争が始まるとともに補助看護婦として従軍していたのだった。
梅澤隊長の部下であった関根清氏は、二人が壕に残る場面を確認しており、手記にこう書いている。
「戦闘下、本部の壕を捜索した米軍により、自決していた二人を発見、少尉の階級章を、少佐と見まちがい、丁重に遺体を収容したのが伝わったものと思われます」
『鉄の暴風』の執筆者は、現地調査もせずに、米軍から提供された情報をそのまま使って、机上で「住民自決命令」の神話を創作していたのである。
■2.神話の一人歩き
『鉄の暴風』が創作した「住民自決命令」神話は、昭和34(1959)年の沖縄タイムス編集局長・上地一史氏らによる『沖縄戦史』以降、様々な歴史書・戦記に繰り返し引用されていった。
なかでも熱心だったのは岩波書店で、昭和40(1965)年の『沖縄問題二十年』(中野好夫、新崎盛暉著)、昭和43(1968)年の『太平洋戦争』(家永三郎著)、昭和45年(1970)年には大江健三郎の『沖縄ノート』と、立て続けに関連本を出版している。
たとえば、家永三郎の『太平洋戦争』の昭和43(1965)年初版には、次のように書かれている。
「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊長の赤松隊長は、米軍の上陸に備えるため、島民に食糧を供出して自殺せよと命じ、従順な島民329名は恩納河原でカミソリ・斧・釜などを使い集団自殺をとげた」
これでは軍が食糧を確保するために島民に「自殺」を命じ、「従順な」島民がその命令通り、自殺したということになる。
「軍国主義に盲従して自殺した愚かな島民」と見なされては、亡くなった人々も浮かばれまい。
■3.「渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました」
「住民自決命令」神話の一人歩きに異を唱えたのが、昭和48(1973)年に出版された曽野綾子氏の『ある神話の背景』だった。この著書がそれまでと大きく違う点は、曽野氏自身の次の発言に現れている。
「もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました…渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました」
当時は、集団自決の現場に立ち会った村や軍の関係者が多く生存していた。
曽野氏はその一人ひとりに直接会い、話を聞いた。
赤松隊長の副官・知念朝睦氏が軍命令を明確に否定し、また安里喜順・元巡査が「赤松氏は自決命令など出していない」と証言したのも、曽野氏による直接取材によってであった。
集団自決の現場を知る人々は、曽野氏の取材によって、ようやく真実を語る機会を与えられたのだった。
■4.つき崩された「住民自決命令」神話
沖縄県の戦史研究家、戦記作家たちは、曽野氏の実地調査を支持した。
先に発言を引用した県立沖縄資料編集所の大城将保氏は、曽野氏の『ある神話の背景』は、「同書(『鉄の暴風』)の記述の誤りを逐一指摘しているが、ほとんど指摘の通りである」と指摘している。
また仲程昌徳(なかほど・まさのり)氏は著書『沖縄の戦記』でこう述べている。
「ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつき崩していくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令」説はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改訂をせまられたのである」
家永三郎もさすがにプロの歴史家としてこうした動向を無視できず、『太平洋戦争』の平成14(2002)年に岩波現代文庫から出た版では、先に引用した箇所を次のように書き換えている。
「島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自決をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない」
負け惜しみたっぷりの口調であるが、史実なしに推定でものを言えるのは、せいぜいこの程度であろう。『沖縄問題二十年』も絶版となった。
曽野氏の実地調査に基づく追求は、「住民自決命令」神話のひとり歩きを止めたのである。
■5.大江氏と岩波書店を相手に訴訟
しかし、こうした動向の中で、大江の『沖縄ノート』だけは改訂されることもなく、版を重ねていった。また教科書にも「軍命令で集団自決」などといまだに書かれていた。
この事態に、平成17(2005)年、座間味島の元守備隊長・梅澤裕氏と、渡嘉敷島守備隊長の赤松嘉次氏(昭和55年死去)の弟・秀一氏が、大江氏と出版元の岩波書店に対して、『沖縄ノート』の出版差し止めと損害賠償3千万円の支払いを求めて、大阪地裁に提訴した。
赤松氏は手記にこう書いていた。
「私には大学にいっている娘がある。この事件を知って「お父ちゃんは軍人やった。軍人なら、住民を守るのが義務じゃないか」と私に質問したことがある…いまさら弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で“殺人鬼”なみに悪し様に面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるのは、何としてもつらい」
沖縄で“殺人鬼”なみに面罵されたというのは、昭和45(1970)年3月、渡嘉敷島での合同慰霊祭に出席するために沖縄を訪れた際に、空港で抗議の洗礼を受けたことを指す。
また、これは自分たちだけの問題ではなく、教科書に、軍の命令・強制という記述が堂々とまかり通っていることを知って、日本の子供たちの将来にかかわる問題なので、裁判に訴えようと決意した、という。
■6.「自決命令については、その真実性が揺らいだといえるが」
平成20(2008)年3月、大阪地裁は二人の訴えを退け、さらに高裁、最高裁も上告を棄却した。
高裁判決では、「その後公刊された資料等により、控訴人梅澤及び赤松大尉の(中略)直接的な自決命令については、その真実性が揺らいだといえるが、本件各記述やその前提とする事実が真実でないことが明白になったとまではいえない」というものであった。
この判決の論理は異様である。
たとえば、あなたが大江の本で「人殺し」呼ばわりされて、家庭や職場でひどい目にあったとする。
そこで大江を訴えたとしたら、被告である大江側が「人殺し」呼ばわりが正当であることを証明しなければならない。
大江氏がそれを証明できなければ、根拠もなく「人殺し」呼ばわりしたということになり、賠償責任が生ずる。
「人殺し」呼ばわりされた被害者のあなたが、人殺しでないことを証明する責任はない。
裁判所がこんな倒錯した論理を使ってまでも、大江側を無罪としたのは、ノーベル賞作家への配慮が裁判官を萎縮させたからだ、との見方も出ている。
ただ事実関係については、高裁判決においても、隊長命令は「証拠上、断定できない」としている。
史実として「証拠上、断定できない」のであれば、「日本軍が住民自決命令を出した」などという記述は、少なくとも教科書において許されることではない。
この裁判の過程で、文科省も、歴史教科書での本事件の記述に関して、「軍が命令したかどうかは明らかとはいえない」との検定意見をつけ、各教科書で、軍の命令で住民が自決したとの断定的な記述は、不十分ながらも訂正されていった。
■7.反対集会の参加者数では事実を抑えこめない
こうした動きに抵抗の狼煙をあげたのは、やはり沖縄タイムスだった。平成19(2007)年の1年間だけで、100本以上もの「住民自決」関連の記事を掲載した。
社を上げて神話を護ろうとした感がある。
同年9月29日には、沖縄県宣野湾市で教科書検定に関する抗議集会で開かれ、朝日新聞が一面トップで「『集団自決強制』削除、沖縄11万人抗議」と報道した。
この報道に、当時の福田首相は「随分たくさん集まったね。沖縄県民の気持ちは私も分かりますよ」と発言。
これを受けて、文科省も「(訂正申請が)出てきたら、真摯に対応したい」と教科書各社に訂正申請を促すような発言までした。
実際の参加者は沖縄県警の推定で4万人強、集会写真によるカウントでは2万人程度とされている。
それを「11万人」と報道するあたりに、事実をねじ曲げても主張を通そうとする、神話の創作者たちと同じ姿勢が垣間見える。
いずれにせよ、「住民自決命令」が事実でないことを地道に検証しようしてきた曽野氏以降の動きを、マスコミと数の力で抑えこもうとしたのである。
一つの出来事が実際にあったかという問題は、曽野氏が丹念に当事者の話を聞いて回ったように、あくまで事実調査をもとに追求すべきであり、反対集会の参加者数で決まるものではない。
■8.プロパガンダを見破る力
以上、「住民自決命令」という神話が、どう創作・流布され、またそれを疑う人々がどう戦ってきたか、経緯を辿ってきた。
史実としては、すでに歴史家の家永三郎氏が負け惜しみたっぷりながらも、自著において軍命令説を撤回した点から見ても、ほぼ決着がついた、という所であろう。
残る問題は、教科書や様々な出版物を通じて、長年流布されてきた「住民自決命令」というプロパガンダから、いかに多くの国民が目覚めるか、ということである。
そのプロパガンダの象徴が、大江健三郎の『沖縄ノート』である。
60年以上前の神話をそのまま流布し、その後の多くの証言者の言い分も、また実地研究の進展も一切黙殺して、堂々と版を重ねているのは、さすがにノーベル賞作家である。
自説を撤回した歴史家などとは格が違う、というところか。
逆に言えば、この『沖縄ノート』は戦後、長らくわが国を支配してきた左翼プロパガンダの記念碑的作品なのだ。
こうした作品は末永く版を重ねてもらい、学校の総合学習などで曽野氏の『ある神話の背景』と読み比べてみれば、生徒たちも事実を追求する歴史研究と、虚構に基づくプロパガンダとの違いを、実例を通じて学ぶことができるだろう。
国民が自らの意思をもって政治的選択を行うという自由民主主義体制を守るには、国民一人ひとりがプロパガンダを見破る力を鍛えなければならない。
(文責:伊勢雅臣)
(-_-){分かったニダか?
『鉄の暴風』(沖縄タイムス、朝日新聞社、昭和25(1950)年刊)は記している。
「地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った汎(あら)ゆる食料を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。
これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛憤した。
映画でも見ているようなドラマチックな場面であるが、ここに登場する知念少尉は、後に次のように証言している。
「渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘ばかり書くから、私は読んでいませんよ」
知念氏は『鉄の暴風』を書いた沖縄タイムスから、一度も取材されたことがない、として、「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と言う。そして住民自決という「軍命」があったことを真っ向から否定した。
こういう本から、「住民自決命令」という神話が一人歩きして、教科書に載るまでになってしまったのだが、本号では、この沖縄タイムスの「見てきたような嘘」を、誰がどのような過程で創作したのか、を追ってみたい。
■2.「思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた」
その前に『鉄の暴風』が描く「見てきたような嘘」を、もう一つ、見ておこう。住民自決の「軍命」が伝えられ、実行された場面である。
「恩納河原(おんながわら)に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた」
「こと、ここにいたっては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから全員玉砕する」というのである。
(中略)
「住民たちは死場所を選んで、各親族同志が一塊(かたまり)り塊り(原文のママ)になって、集まった。手榴弾を手にした族長(ママ)や家長が「みんな笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった」
「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された」
「手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然(ごうぜん)たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、--男、女、子供、嬰児(えいじ)--の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻(あび)叫喚の光景が、くりひろげられた」
「死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀(かみそり)で、自らの頸部(けいぶ)を切ったり、鍬(くわ)で、親しいものの頭を、叩き割ったりして…」
■3.「あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」
実際に地元の駐在巡査として村民と行動を共にし、赤松大尉と接触もあった安里(あざと)喜順氏は、沖縄タイムスに反論の手紙を出した。
「私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。責任者として天地神明に誓い、真実を申し上げます…」
「『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時にはすでに遅く、全国に販売されてをったようです」
「それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります」
「沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません」
安里氏によれば、赤松隊長に村民の避難場所について尋ねたところ
「作戦の邪魔にならない、部隊近くのどこか安全なところに避難させておったらいいでしょう。我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」と答えた。
ところが集まった村の幹部たちは動揺しており、自決した方が良い、ということになった。
自決が始まったが、手榴弾の使い方が分からない、あるいは不発弾も多く、生き残った村民たちが部隊の陣地になだれ込み、銃を貸してくれ、と頼んだ。
部隊はこの要請を拒否。
そこに米軍の迫撃砲が撃ち込まれ、
5,60人が死亡。それを見て皆われに返った。
赤松隊長は自決の知らせに驚き
「早まったことをしてくれた」と嘆いたという。
米軍が上陸すると、赤松隊長は軍の食料の半分を民間と分け、安里氏はその分配に立ち会った。
「部隊は最後まで頑張る。あなたがたは、このあるだけを食べて、あとは蘇鉄(そてつ)でも食べて生きられるだけ生きなさい」と言った。
ところが同社社長に瀬長亀次郎氏が就任すると、米軍との関係が悪化。
ウルマ新報の代わりとして、米軍が協力を約束して発行を認可したのが、沖縄タイムスだった。
同紙の創刊は、昭和23(1948)年7月1日だが、その紙面のトップには米軍幹部のメッセージが掲げられている。
その一つとして、軍政府情報部長R・E・ハウトン大尉は、こう述べている。
「沖縄タイムスが沖縄人民の情報、時事並びに軍民両政府から発せられる司令や命令を報道することは軍政府の要望するところである」
「その下に、高嶺朝光社長の次のような創刊の辞が掲載されているのだが、この位置関係が、米軍との関係を示している」
「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している、この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に対する協力であり、また、これが沖縄を復興する道である」
当初は2ページ立てのガリ版刷りで、週2回の発行だったが、軍からの用紙の補給が困難という理由で、第14号以降「本紙は軍命により」として週1回に変更している。
新聞社としても用紙の補給を米軍に頼っていたわけで、まさに「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している」と生殺与奪の権を握られていたのである。
こうして米軍の軍政下で、御用新聞として創刊されたのが沖縄タイムスだった。
■5.「沖縄人は虐げられてきたのだ」
米軍侵攻時、沖縄県民がいかに祖国日本のために戦ったかは、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」という沖縄根拠地隊司令官・大田實海軍中将の言葉で言い尽くされている。
この沖縄を米軍軍政で統治するためには、県民を心理的に日本国そのものから切り離さねばならない。
そのために米第10軍司令部内の情報部は、沖縄戦を前にして心理作戦チームを編成し、情報収集を開始した。
この一環として、ハーバード大学のアルフレッド・トッツア教授は「琉球列島の沖縄人・日本の少数集団」という心理作戦を立案し、次のように提言している。
「沖縄人は虐げられてきたのだという意識を高め、沖縄人は、日本人全体と対応する個別の民族であるというアイデンティティーを強調する趣旨の宣伝懐柔策が成功をおさめるだろう」
「この心理作戦に基づき、情報部は沖縄での空中散布用に570万枚ものリーフレットを印刷した。そこにはこんな文面があった」
「皆さんの家はこわされたり、畑や作物は踏み潰され又元気盛りの青年は殺され、沖縄の人は皆口に言えぬ苦労をしています。内地人はみなさん達に余計な苦労をさせます…」
「日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしている事は皆さん達に明らかでしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯(ただ)貴方達は、内地人の手先に使われているのです」
■6.「国境を民族を、超えた米軍の人類愛」
「日本兵が沖縄の人々を殺したり」というプロパガンダに呼応して、企画されたのが『鉄の暴風』だった。
この本の監修を担当した常務の豊平良顕(とよひら・りょうけん)氏は、「高嶺社長以下全社員の熱意によつて、沖縄タイムズ創刊当初より戦記刊行が企てられ…」と、経緯を綴っている。
その中に「沖縄戦記の刊行をタイムス社が承ったことは…」という一節があるが「承る」とは「上位者から命令などを『受け』『いただく』の意」(大辞泉)である。
その上位者とは米軍と考える他はない。とすれば『鉄の暴風』の執筆は米軍の命令だったことになる。
さらに豊平氏は、こうも述べている。
「なお、この動乱(沖縄戦)を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境を民族を、超えた米軍の人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。われわれは、そのことを特筆した」
「更生」とは「前科者の更生」というように使われる。
「米軍のヒューマニズム、人類愛によって、今まで内地人に虐げられてきた沖縄人は正しい道に戻った」という認識である。
ちなみに作家ジョージ・ファイファーは『天王山-沖縄戦と原子爆弾』で米軍による沖縄でのレイプ事件の被害者を1万人以上と推定しているが、米軍の「人類愛」を謳いあげる沖縄タイムスでは、当然、このような事実は闇から闇に葬られたことであろう。
■7.「また聞きのまた聞き」から創作された光景
こうした方針のもとに『鉄の暴風』は二人の執筆者によって、昭和24年(1949)春から、取材3ヶ月、執筆3ヶ月という短期間で仕上げられ、同年11月に脱稿。
その後、原稿を英訳して、米軍政府に出版許可を求めた。
結局、米軍政府の許可が降りたのは、脱稿から7ヶ月もたった昭和25(1950)年6月15日だが、許可が長引いたのは、時の軍政長官シーツ少将が読み始めて「これは面白い」と手元に長い間、置いていたからだという。
このシーツ少将は、『鉄の暴風』の出版広告に「沖縄人必読の良書」と最大限の賛辞を送っている。
さて、この「必読の良書」は、記者二人が取材3ヶ月で400字詰め原稿用紙750枚ほどを書き上げただけに、筆者の一人、太田良博氏自身が自ら言うように「まったく突貫工事」だった。
冒頭で「知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛憤した」という一節を紹介したが、知念氏自身が「作り話ですよ」と指摘した点については、太田氏は「あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」と弁解している。
太田氏は渡嘉敷島の集団自決について取材した人物として二人を挙げているが、一人は事件当時、南方にいて現場を目撃していない。もう一人は座間味島の村助役・山城安二郎で座間味島の自決場面は目撃していても、渡嘉敷島の自決は見ていない。
太田氏は、現場を見ていない二人の証言から、「また聞きのまた聞き」によって「悲憤のあまり、慟哭し」というようないかにも見てきたような情景描写を、当人に取材もせずに創作したのである。
「住民自決命令」は、事実を正確に記録しようというジャーナリズムでなく、沖縄を日本から分断しようとする米軍の方針に忠実に従ったプロパガンダの産物であった。
現地での取材もせず、一方的に想像力を働かせて描いた史実、一体彼らにとって歴史とはなにか?
しかもそうした捏造によって、貶められる人々に対して、どのように思っているのか?
史実として否定されても、いまだにプロパガンダとして生き延びる「住民自決命令」神話。
■1.米軍情報をもとに書かれた『鉄の暴風』
『鉄の暴風』は座間味島での集団自決に関しては、守備隊長・梅澤裕少佐が住民に自決を命じた後、こう行動したと伝えている。
「最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」
県立沖縄資料編集所主任専門員の経歴を持つ大城将保(おおしろ・まさやす)氏は、この記述に関して次のような指摘をしている。
「梅沢少佐は今なお健在であって、明らかに事実誤認である。それよりも気になるのは、「梅沢少佐のごとき」とか「朝鮮人慰安婦らしきもの」といった文章のアヤに執筆者の主観が濃厚に出ていて実証精神を疑わしめるところがある点である」
さすがに『鉄の暴風』第9版では、この事実誤認の一節は完全に削除されている。
しかし、なぜ、このような事実誤認がなされたのか、その経緯は『鉄の暴風』の特殊な性格を明らかにしている。
座間味島での戦闘で敵弾を受けて重傷を負った森井芳彦少尉は、部隊本部の防空壕で一人の補助看護婦から手当を受けていた。
だが、助かる見込みがなかったため、その補助看護婦は「森井少尉が死ぬなら私もお供する」と語り、ほかの兵士を外に出した後で自決した。
ちなみに、この女性は朝鮮人慰安婦だったが、戦争が始まるとともに補助看護婦として従軍していたのだった。
梅澤隊長の部下であった関根清氏は、二人が壕に残る場面を確認しており、手記にこう書いている。
「戦闘下、本部の壕を捜索した米軍により、自決していた二人を発見、少尉の階級章を、少佐と見まちがい、丁重に遺体を収容したのが伝わったものと思われます」
『鉄の暴風』の執筆者は、現地調査もせずに、米軍から提供された情報をそのまま使って、机上で「住民自決命令」の神話を創作していたのである。
■2.神話の一人歩き
『鉄の暴風』が創作した「住民自決命令」神話は、昭和34(1959)年の沖縄タイムス編集局長・上地一史氏らによる『沖縄戦史』以降、様々な歴史書・戦記に繰り返し引用されていった。
なかでも熱心だったのは岩波書店で、昭和40(1965)年の『沖縄問題二十年』(中野好夫、新崎盛暉著)、昭和43(1968)年の『太平洋戦争』(家永三郎著)、昭和45年(1970)年には大江健三郎の『沖縄ノート』と、立て続けに関連本を出版している。
たとえば、家永三郎の『太平洋戦争』の昭和43(1965)年初版には、次のように書かれている。
「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊長の赤松隊長は、米軍の上陸に備えるため、島民に食糧を供出して自殺せよと命じ、従順な島民329名は恩納河原でカミソリ・斧・釜などを使い集団自殺をとげた」
これでは軍が食糧を確保するために島民に「自殺」を命じ、「従順な」島民がその命令通り、自殺したということになる。
「軍国主義に盲従して自殺した愚かな島民」と見なされては、亡くなった人々も浮かばれまい。
■3.「渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました」
「住民自決命令」神話の一人歩きに異を唱えたのが、昭和48(1973)年に出版された曽野綾子氏の『ある神話の背景』だった。この著書がそれまでと大きく違う点は、曽野氏自身の次の発言に現れている。
「もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました…渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました」
当時は、集団自決の現場に立ち会った村や軍の関係者が多く生存していた。
曽野氏はその一人ひとりに直接会い、話を聞いた。
赤松隊長の副官・知念朝睦氏が軍命令を明確に否定し、また安里喜順・元巡査が「赤松氏は自決命令など出していない」と証言したのも、曽野氏による直接取材によってであった。
集団自決の現場を知る人々は、曽野氏の取材によって、ようやく真実を語る機会を与えられたのだった。
■4.つき崩された「住民自決命令」神話
沖縄県の戦史研究家、戦記作家たちは、曽野氏の実地調査を支持した。
先に発言を引用した県立沖縄資料編集所の大城将保氏は、曽野氏の『ある神話の背景』は、「同書(『鉄の暴風』)の記述の誤りを逐一指摘しているが、ほとんど指摘の通りである」と指摘している。
また仲程昌徳(なかほど・まさのり)氏は著書『沖縄の戦記』でこう述べている。
「ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつき崩していくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令」説はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改訂をせまられたのである」
家永三郎もさすがにプロの歴史家としてこうした動向を無視できず、『太平洋戦争』の平成14(2002)年に岩波現代文庫から出た版では、先に引用した箇所を次のように書き換えている。
「島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自決をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない」
負け惜しみたっぷりの口調であるが、史実なしに推定でものを言えるのは、せいぜいこの程度であろう。『沖縄問題二十年』も絶版となった。
曽野氏の実地調査に基づく追求は、「住民自決命令」神話のひとり歩きを止めたのである。
■5.大江氏と岩波書店を相手に訴訟
しかし、こうした動向の中で、大江の『沖縄ノート』だけは改訂されることもなく、版を重ねていった。また教科書にも「軍命令で集団自決」などといまだに書かれていた。
この事態に、平成17(2005)年、座間味島の元守備隊長・梅澤裕氏と、渡嘉敷島守備隊長の赤松嘉次氏(昭和55年死去)の弟・秀一氏が、大江氏と出版元の岩波書店に対して、『沖縄ノート』の出版差し止めと損害賠償3千万円の支払いを求めて、大阪地裁に提訴した。
赤松氏は手記にこう書いていた。
「私には大学にいっている娘がある。この事件を知って「お父ちゃんは軍人やった。軍人なら、住民を守るのが義務じゃないか」と私に質問したことがある…いまさら弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で“殺人鬼”なみに悪し様に面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるのは、何としてもつらい」
沖縄で“殺人鬼”なみに面罵されたというのは、昭和45(1970)年3月、渡嘉敷島での合同慰霊祭に出席するために沖縄を訪れた際に、空港で抗議の洗礼を受けたことを指す。
また、これは自分たちだけの問題ではなく、教科書に、軍の命令・強制という記述が堂々とまかり通っていることを知って、日本の子供たちの将来にかかわる問題なので、裁判に訴えようと決意した、という。
■6.「自決命令については、その真実性が揺らいだといえるが」
平成20(2008)年3月、大阪地裁は二人の訴えを退け、さらに高裁、最高裁も上告を棄却した。
高裁判決では、「その後公刊された資料等により、控訴人梅澤及び赤松大尉の(中略)直接的な自決命令については、その真実性が揺らいだといえるが、本件各記述やその前提とする事実が真実でないことが明白になったとまではいえない」というものであった。
この判決の論理は異様である。
たとえば、あなたが大江の本で「人殺し」呼ばわりされて、家庭や職場でひどい目にあったとする。
そこで大江を訴えたとしたら、被告である大江側が「人殺し」呼ばわりが正当であることを証明しなければならない。
大江氏がそれを証明できなければ、根拠もなく「人殺し」呼ばわりしたということになり、賠償責任が生ずる。
「人殺し」呼ばわりされた被害者のあなたが、人殺しでないことを証明する責任はない。
裁判所がこんな倒錯した論理を使ってまでも、大江側を無罪としたのは、ノーベル賞作家への配慮が裁判官を萎縮させたからだ、との見方も出ている。
ただ事実関係については、高裁判決においても、隊長命令は「証拠上、断定できない」としている。
史実として「証拠上、断定できない」のであれば、「日本軍が住民自決命令を出した」などという記述は、少なくとも教科書において許されることではない。
この裁判の過程で、文科省も、歴史教科書での本事件の記述に関して、「軍が命令したかどうかは明らかとはいえない」との検定意見をつけ、各教科書で、軍の命令で住民が自決したとの断定的な記述は、不十分ながらも訂正されていった。
■7.反対集会の参加者数では事実を抑えこめない
こうした動きに抵抗の狼煙をあげたのは、やはり沖縄タイムスだった。平成19(2007)年の1年間だけで、100本以上もの「住民自決」関連の記事を掲載した。
社を上げて神話を護ろうとした感がある。
同年9月29日には、沖縄県宣野湾市で教科書検定に関する抗議集会で開かれ、朝日新聞が一面トップで「『集団自決強制』削除、沖縄11万人抗議」と報道した。
この報道に、当時の福田首相は「随分たくさん集まったね。沖縄県民の気持ちは私も分かりますよ」と発言。
これを受けて、文科省も「(訂正申請が)出てきたら、真摯に対応したい」と教科書各社に訂正申請を促すような発言までした。
実際の参加者は沖縄県警の推定で4万人強、集会写真によるカウントでは2万人程度とされている。
それを「11万人」と報道するあたりに、事実をねじ曲げても主張を通そうとする、神話の創作者たちと同じ姿勢が垣間見える。
いずれにせよ、「住民自決命令」が事実でないことを地道に検証しようしてきた曽野氏以降の動きを、マスコミと数の力で抑えこもうとしたのである。
一つの出来事が実際にあったかという問題は、曽野氏が丹念に当事者の話を聞いて回ったように、あくまで事実調査をもとに追求すべきであり、反対集会の参加者数で決まるものではない。
■8.プロパガンダを見破る力
以上、「住民自決命令」という神話が、どう創作・流布され、またそれを疑う人々がどう戦ってきたか、経緯を辿ってきた。
史実としては、すでに歴史家の家永三郎氏が負け惜しみたっぷりながらも、自著において軍命令説を撤回した点から見ても、ほぼ決着がついた、という所であろう。
残る問題は、教科書や様々な出版物を通じて、長年流布されてきた「住民自決命令」というプロパガンダから、いかに多くの国民が目覚めるか、ということである。
そのプロパガンダの象徴が、大江健三郎の『沖縄ノート』である。
60年以上前の神話をそのまま流布し、その後の多くの証言者の言い分も、また実地研究の進展も一切黙殺して、堂々と版を重ねているのは、さすがにノーベル賞作家である。
自説を撤回した歴史家などとは格が違う、というところか。
逆に言えば、この『沖縄ノート』は戦後、長らくわが国を支配してきた左翼プロパガンダの記念碑的作品なのだ。
こうした作品は末永く版を重ねてもらい、学校の総合学習などで曽野氏の『ある神話の背景』と読み比べてみれば、生徒たちも事実を追求する歴史研究と、虚構に基づくプロパガンダとの違いを、実例を通じて学ぶことができるだろう。
国民が自らの意思をもって政治的選択を行うという自由民主主義体制を守るには、国民一人ひとりがプロパガンダを見破る力を鍛えなければならない。
(文責:伊勢雅臣)
(-_-){分かったニダか?