昭和天皇陛下 靖国神社 御親拝 御尊影
靖国の英霊を思い詠まれた明治天皇陛下、昭和天皇陛下の御製。
「よとともに 語りつたえよ 国のため 命をすてし 人のいさをを」
畏くも明治天皇陛下、明治37年の御製。
大意は(国のために生命を捧げた人たちの功績を、いつの世までも語り伝えていって欲しい)
「忘れめや 戦(いくさ)の庭に たふれしは 暮しささへし をのこなりしを」
畏くも昭和天皇陛下、昭和37年の御製。
大意は(忘れることができようか。戦場で亡くなったのは、みな家庭のくらしを支えていた男たちだったことを)
《歴代天皇陛下の靖国神社御親拝合計回数》
明治天皇陛下 七回
大正天皇陛下 二回
昭和天皇陛下 二八回
今上天皇陛下 五回
(但し、皇太子殿下時代)
戦前戦後を通じて、靖国神社の春秋の例大祭では、皇室の勅使(天皇の使者)が差し遣わされ、「奉幣」が行われてきた。
皇室の幣帛(へいはく=神に供える物)を、伊勢神宮と靖国神社に奉(たてまつ)る伝統は、現在に至るまで変更されていない。
終戦後、昭和天皇陛下は昭和20年11月20日に、初めて靖国神社にご親拝された。
それ以来、30年間ご親拝が続けられていた。
しかし、昭和50年、秋の例大祭に昭和天皇陛下が参拝されて以来、今上天皇陛下の御代もご親拝は途絶えている。
今上天皇陛下は、皇太子殿下時代には5回、参拝された。
死後、靖国神社に祀られると信じて亡くなっていった戦没者は、天皇陛下がご親拝されると信じ、そこに栄誉を感じていた。
昭和50年以降、天皇陛下のご親拝がないという日本の現状は、英霊の期待を裏切るものとなっている。
これは天皇陛下の責任ではなく、政治の責任。
昭和天皇陛下におかれては、たえずご親拝の御意向を持ちつづけられていた。
天皇陛下の靖国神社ご親参拝は、天皇陛下から親拝要請があり内閣の了解があって、はじめて可能となる。
それまで政府は天皇陛下の靖国神社ご親拝を許可してきた。
陛下が切望されていた「靖国神社御親拝」を昭和五十年を境にして阻んだ原因には、次のようなものが考えられる。
同年8月15日、三木武夫首相が私人としての参拝を表明したため、憲法問題として公式か私的かの論議が紛糾した。このことが影響していることは明らか。
また、日本の体制転覆を企む極左集団は、その闘争目標を昭和三十年代の政府と国会、昭和四十年代の学園闘争から、昭和五十年代には皇室へとかえた。
昭和五十年九月三十日の昭和天皇陛下訪米には
「天皇訪米絶対阻止」叫び、昭和五十年九月十五日、同時に三件の皇室へのテロ事件(伊勢神宮の内宮別宮の瑞垣御門焼き討ち事件、葉山御用邸火炎瓶事件、宮廷駅に接続する原宿駅での発煙筒事件)などが起こった。
この日から昭和天皇陛下訪米までの間、都内は、一万数千人の警察官を動員する程の非常事態となった。
昭和五十年代、左翼暴力集団による「反天皇運動」が激化する中、靖国神社への御親拝は、警備上の問題もあって差し控えられたものと考えらる。
また、国会においても、極左集団に呼応するように、昭和50年以降、社会党などから皇室を標的とする国会質問を行った。
秦豊参院議員(社会党)は参院内閣委員会において昭和五十年五月二九日、皇室の御祭祀にまで難癖を付けた。
その内容は以下のとおり。
【秦豊議員の「宮中祭祀・憲法違反」質問】
「侍従は国家公務員であり、天皇の名代ということも個人的な資格ということが許されないと思います。伊勢神宮は明らかに宗教法人であるというありようにあわせてこれは明らかに憲法二十条に抵触する習慣と思います。これを習慣として見逃すことは余りにも重大であると思います」
それに対して、角田内閣法制局第一部長は、あろうことか次のように秦議員の意見に賛意を表明した。
【角田内閣法制局部長の「宮中祭祀・憲法違反」への賛成答弁】
「神社へお参りするという場合もいろいろな方法があるわけでございます。いわゆる神道の儀式によって正式に参拝をするというような、いろいろなやり方があると思いますが、そのやり方によって、ある場合は宗教的行為、あるいは宗教活動になるだろうと、しかし、非常に単純なおじぎをするだけではそういうものにならないというような考え方もあると思います」
「皇室の祭祀」を誹謗中傷する意図をもった社会党議員の意見に、法制局が賛成して、皇室の伝統である祭祀のやり方まで容喙するという異常事態となり、また社会党に遠慮した、宮内庁は内閣法制局の意見に合わせて、昭和五十年九月以降、突如として、それまで明治以降毎朝行われてきた宮中でのお祭りを大幅に変えた。
それは、明治以来慣例となっている、侍従が陛下にかわって、毎朝、宮中三殿への代拝を行うのを次のように変更しました。
①浄衣に笏を持った姿をモーニング姿にかえ、
②宮中三殿の殿上での拝礼を、庭上からとした
③御馬車での参進を自動車へかえた。(当時、宮内庁掌典補永田忠興氏の証言による)
それだけにおさまらず、伊勢神宮をはじめ橿原神宮や靖国神社への勅使が、従来の侍従から掌典へと変えた。
由々しき事態。
昭和五十年以降の「靖国神社御親参拝中断」の真因も、社会党を始めとする野党による宮中祭祀へのいわれなき批判と、政府部内にこの批判に呼応する勢力が強くなっていった。
昭和五七年の昭和天皇陛下の御製に次の御歌
「わが庭のそぞろありきの楽しからずわざわひ多き今の世を思へば」
昭和五十年以降の靖国神社参拝を含めた皇室祭祀への内外の攻撃をも強く御憂慮された陛下のお気持ちが込められている。
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」
前年の昭和六十年に靖国神社公式参拝した中曽根首相が中国の内政干渉に屈し、この昭和六一年は靖国神社参拝を断念した。
これは、日本政府が中国政府への「屈服・屈辱記念日」とも呼ぶべき、昭和六一年八月十五日に詠まれた昭和天皇陛下の御製。
昭和天皇陛下は、日本政府の腰の据わらない対応に困惑されたばかりではなく、靖国神社へのご親拝が実現できないことを靖国神社に祀られている神々である英霊に詫びておられる叡慮が伝わってくる。
昭和天皇陛下が、靖国神社参拝を切望されていたことは、この昭和六一年の御製であきらか。
畏くも昭和天皇陛下は崩御あそばされるまで「靖国神社ご親拝」がおできにならないことに御心痛なされた。
そのことは、昭和天皇陛下が病床にあられながら、最後にご臨席された「全国戦没者慰霊祭」の日(昭和六三年八月十五日)に詠まれた御製で、あまりにも明らかであって、多言は要らない。
「やすらけき世を祈れどもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど」
昭和天皇御製(昭和六三年八月十五日)
御國に命を捧げられた英霊は、畏くも今上天皇陛下のご親拝を、一日千秋の思いで待ち焦がれておられるだろう…
靖国の英霊を思い詠まれた明治天皇陛下、昭和天皇陛下の御製。
「よとともに 語りつたえよ 国のため 命をすてし 人のいさをを」
畏くも明治天皇陛下、明治37年の御製。
大意は(国のために生命を捧げた人たちの功績を、いつの世までも語り伝えていって欲しい)
「忘れめや 戦(いくさ)の庭に たふれしは 暮しささへし をのこなりしを」
畏くも昭和天皇陛下、昭和37年の御製。
大意は(忘れることができようか。戦場で亡くなったのは、みな家庭のくらしを支えていた男たちだったことを)
《歴代天皇陛下の靖国神社御親拝合計回数》
明治天皇陛下 七回
大正天皇陛下 二回
昭和天皇陛下 二八回
今上天皇陛下 五回
(但し、皇太子殿下時代)
戦前戦後を通じて、靖国神社の春秋の例大祭では、皇室の勅使(天皇の使者)が差し遣わされ、「奉幣」が行われてきた。
皇室の幣帛(へいはく=神に供える物)を、伊勢神宮と靖国神社に奉(たてまつ)る伝統は、現在に至るまで変更されていない。
終戦後、昭和天皇陛下は昭和20年11月20日に、初めて靖国神社にご親拝された。
それ以来、30年間ご親拝が続けられていた。
しかし、昭和50年、秋の例大祭に昭和天皇陛下が参拝されて以来、今上天皇陛下の御代もご親拝は途絶えている。
今上天皇陛下は、皇太子殿下時代には5回、参拝された。
死後、靖国神社に祀られると信じて亡くなっていった戦没者は、天皇陛下がご親拝されると信じ、そこに栄誉を感じていた。
昭和50年以降、天皇陛下のご親拝がないという日本の現状は、英霊の期待を裏切るものとなっている。
これは天皇陛下の責任ではなく、政治の責任。
昭和天皇陛下におかれては、たえずご親拝の御意向を持ちつづけられていた。
天皇陛下の靖国神社ご親参拝は、天皇陛下から親拝要請があり内閣の了解があって、はじめて可能となる。
それまで政府は天皇陛下の靖国神社ご親拝を許可してきた。
陛下が切望されていた「靖国神社御親拝」を昭和五十年を境にして阻んだ原因には、次のようなものが考えられる。
同年8月15日、三木武夫首相が私人としての参拝を表明したため、憲法問題として公式か私的かの論議が紛糾した。このことが影響していることは明らか。
また、日本の体制転覆を企む極左集団は、その闘争目標を昭和三十年代の政府と国会、昭和四十年代の学園闘争から、昭和五十年代には皇室へとかえた。
昭和五十年九月三十日の昭和天皇陛下訪米には
「天皇訪米絶対阻止」叫び、昭和五十年九月十五日、同時に三件の皇室へのテロ事件(伊勢神宮の内宮別宮の瑞垣御門焼き討ち事件、葉山御用邸火炎瓶事件、宮廷駅に接続する原宿駅での発煙筒事件)などが起こった。
この日から昭和天皇陛下訪米までの間、都内は、一万数千人の警察官を動員する程の非常事態となった。
昭和五十年代、左翼暴力集団による「反天皇運動」が激化する中、靖国神社への御親拝は、警備上の問題もあって差し控えられたものと考えらる。
また、国会においても、極左集団に呼応するように、昭和50年以降、社会党などから皇室を標的とする国会質問を行った。
秦豊参院議員(社会党)は参院内閣委員会において昭和五十年五月二九日、皇室の御祭祀にまで難癖を付けた。
その内容は以下のとおり。
【秦豊議員の「宮中祭祀・憲法違反」質問】
「侍従は国家公務員であり、天皇の名代ということも個人的な資格ということが許されないと思います。伊勢神宮は明らかに宗教法人であるというありようにあわせてこれは明らかに憲法二十条に抵触する習慣と思います。これを習慣として見逃すことは余りにも重大であると思います」
それに対して、角田内閣法制局第一部長は、あろうことか次のように秦議員の意見に賛意を表明した。
【角田内閣法制局部長の「宮中祭祀・憲法違反」への賛成答弁】
「神社へお参りするという場合もいろいろな方法があるわけでございます。いわゆる神道の儀式によって正式に参拝をするというような、いろいろなやり方があると思いますが、そのやり方によって、ある場合は宗教的行為、あるいは宗教活動になるだろうと、しかし、非常に単純なおじぎをするだけではそういうものにならないというような考え方もあると思います」
「皇室の祭祀」を誹謗中傷する意図をもった社会党議員の意見に、法制局が賛成して、皇室の伝統である祭祀のやり方まで容喙するという異常事態となり、また社会党に遠慮した、宮内庁は内閣法制局の意見に合わせて、昭和五十年九月以降、突如として、それまで明治以降毎朝行われてきた宮中でのお祭りを大幅に変えた。
それは、明治以来慣例となっている、侍従が陛下にかわって、毎朝、宮中三殿への代拝を行うのを次のように変更しました。
①浄衣に笏を持った姿をモーニング姿にかえ、
②宮中三殿の殿上での拝礼を、庭上からとした
③御馬車での参進を自動車へかえた。(当時、宮内庁掌典補永田忠興氏の証言による)
それだけにおさまらず、伊勢神宮をはじめ橿原神宮や靖国神社への勅使が、従来の侍従から掌典へと変えた。
由々しき事態。
昭和五十年以降の「靖国神社御親参拝中断」の真因も、社会党を始めとする野党による宮中祭祀へのいわれなき批判と、政府部内にこの批判に呼応する勢力が強くなっていった。
昭和五七年の昭和天皇陛下の御製に次の御歌
「わが庭のそぞろありきの楽しからずわざわひ多き今の世を思へば」
昭和五十年以降の靖国神社参拝を含めた皇室祭祀への内外の攻撃をも強く御憂慮された陛下のお気持ちが込められている。
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」
前年の昭和六十年に靖国神社公式参拝した中曽根首相が中国の内政干渉に屈し、この昭和六一年は靖国神社参拝を断念した。
これは、日本政府が中国政府への「屈服・屈辱記念日」とも呼ぶべき、昭和六一年八月十五日に詠まれた昭和天皇陛下の御製。
昭和天皇陛下は、日本政府の腰の据わらない対応に困惑されたばかりではなく、靖国神社へのご親拝が実現できないことを靖国神社に祀られている神々である英霊に詫びておられる叡慮が伝わってくる。
昭和天皇陛下が、靖国神社参拝を切望されていたことは、この昭和六一年の御製であきらか。
畏くも昭和天皇陛下は崩御あそばされるまで「靖国神社ご親拝」がおできにならないことに御心痛なされた。
そのことは、昭和天皇陛下が病床にあられながら、最後にご臨席された「全国戦没者慰霊祭」の日(昭和六三年八月十五日)に詠まれた御製で、あまりにも明らかであって、多言は要らない。
「やすらけき世を祈れどもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど」
昭和天皇御製(昭和六三年八月十五日)
御國に命を捧げられた英霊は、畏くも今上天皇陛下のご親拝を、一日千秋の思いで待ち焦がれておられるだろう…