台湾劇場
高砂義勇兵の墓の前で
ここは台湾、ある高砂族の戦士の墓。
彼の供養をするために年老いた日本人の戦友たちが集まっています。
ずいぶん遅くなって済まなかった
高砂族の遺族が、はるばる日本から来てくれた彼らのために昼食としておにぎりを差し入れると、彼らは全員泣き出しました。
そう、彼らにはどうしてもお握りを食べられない理由があったのです。少なくとも彼のお墓の前では……。
高砂族は誇り高い戦士の一族です。
彼らは 決して無用の戦いは好みませんが、戦う時は、常に部族の誇りを賭けて戦っていました。
日清戦争の結果、台湾が日本の領土となった時にも、最後まで抵抗したのは彼ら高砂族でした。
しかし、日本が教育やインフラの充実など、化外の地であった台湾を内地並みにすべく 努力し、その成果が上がるにつれて、高砂族の 生活も向上し、彼らは自然に「日本人」としての 意識を強く持つようになっていきました。
時は流れ、大東亜戦争が勃発。
戦地がフィリピンやニューギニアのようなジャングル の地であったため、熱帯の環境に慣れぬ日本兵は悪戦苦闘していました。
そこに立ち上がったのが高砂族でした。
日本が台湾搦。
するようになってから既に50年弱。
彼らにとっての祖国はもう「日本」となっていたのです。
密林は彼らにとっては庭のようなものでした。
彼らは降り注ぐ弾丸の下をものともせず、密林を縦横に飛び回り、日本軍のために陣地を築いていったのです。
しかし、戦局はますます不利となっていき、糧秣の補給もままならなくなっていきました。
もはや部隊の中でまともに動けるのは高砂族の彼だけ。
そこで彼ははるか後方の兵站基地へ食糧を取りに行くことを申し出て、ひとり出発しました。
彼は必死になって密林を掻き分け、やっとの思いで兵站基地に到着するや、疲れた体に米50キロをかついで休みもせずまた戦友のもとに向かいました。
しかし、既に彼の体力は限界を越えていたのです。
陣地まであと少しという ところで、彼は飢えのために力尽きました。
その後、戦友たちが彼を発見した時には、既に彼は餓死していました。
もちろん、背中の食糧に手を付ければ彼の生命は助かったでしょう。
しかし、どうしても彼には、飢えた戦友が待っているこの食糧に手を付けることはできなかったのです。
彼の戦友たちは、彼が必死に運んできた食糧の おかげで、苦しいこの戦いを生き延び、終戦を迎えて無事に帰国することができました。
けれども、戦勝国の手によって台湾は中国領となり、高砂族も「日本人」ではなくなってしまいました。
なるほど、私たち戦後世代の日本人にとっては、 高砂族は外国人以外の何者でもありません。
でも彼は、餓死してまでも戦友のもとに食糧を運ぼうとしたあの彼は、間違いなく「日本人」だったのです。
あなたは彼の前で胸を張って言えるか?
私は日本人だ、と。
今度こそ我々は高砂族に報いる事が出来るのではないだろうか?
事の発端は産経新聞が報じた「高砂義勇兵慰霊碑撤去の危機」が始まりだった。
太平洋戦争において「日本兵」として出征した台湾先住民出身者から成る 義勇兵の戦没者を祭る「高砂義勇兵英霊慰霊碑」が、敷地売却に伴う 撤去により、その存続が危ぶまれていた。
「どうにか出来ないか」
この報道に突き動かされるように、2chでは移転費をカンパしようとの声があがり始める。 各々が産経新聞や関係団体に働きかけ8月には産経新聞のバックアップで 慰霊碑を守る会が設立され募金が開始された。
ある者は食費を削り、ある者は失業保険から、ある者はバイト代を 金銭だけでは表し得ない思いが一重二重に広がっていった。
その思いは、総額3145件、3075万8511円という目標額の2倍近い 義捐金となり、本年(2005年)3月より移転作業が開始され、本年11月には完成する。
靖国神社奉納 高砂義勇兵伝 〔異国で眠る皇国の戦士〕
2006年2月8日に慰霊碑の移設は完了したが、17日に中国時報により日本を賛美する碑文であると報道されたことから反発が広がり、同日に敷地を提供している台北県政府から撤去要請がなされるという事態が生じた。
24日、強制撤去に着手した県政府と地元側との衝突があり、話し合いの結果、記念碑は存続し、日本の遺族団体などが寄贈した、「皇民」など日本語が入った石碑8基を撤去するというギリギリの妥協案で決着した。
しかし記念碑側面に刻まれた「大和魂」などの日本語の文言は覆い隠され、説明が無ければ慰霊碑であることすら分かりづらいものとなっている。
撤去された8基の石碑は当面、台北県風景管理局に保管されている。
なお、慰霊碑撤去を要請した県長は中国国民党所属であり、民主進歩党は撤去に反対していた。
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棄てられた皇軍兵士たち
―台湾人元日本兵―
昭和52年(1977年)8月、「台湾人元日本兵」の盛氏ら戦傷者と戦死者の遺族13名が、日本国を相手どり一人500万円の補償金を要求して裁判を起こした。
昭和49年(1974年)12月、高砂族(主に山地に住む台湾の先住民)出身の中村輝夫(李光輝)元陸軍一等兵がインドネシアのモロタイ島で発見されたのを契機として、台湾人元日本兵への補償を求める運動が日本と台湾で具現化。
しかし日本政府に動きがなかったため、戦後32年目にして上述の提訴となった。
以下に記した台湾人元日本兵とその遺族の声は、1985年及び1995年に行った取材が元になっている。
敗戦から40年。
彼らは何を考えどんな生活をしているのか。
日本語で語ってくれた方々の使ったことばは、なるべく生かすように努めた。
また、歴史的事実の認識として疑問が残る発言も、その人の理解としてそのまま収録した。
http://kohnotoshihiko.com/weblog_ja03.htm
高砂義勇兵の墓の前で
ここは台湾、ある高砂族の戦士の墓。
彼の供養をするために年老いた日本人の戦友たちが集まっています。
ずいぶん遅くなって済まなかった
高砂族の遺族が、はるばる日本から来てくれた彼らのために昼食としておにぎりを差し入れると、彼らは全員泣き出しました。
そう、彼らにはどうしてもお握りを食べられない理由があったのです。少なくとも彼のお墓の前では……。
高砂族は誇り高い戦士の一族です。
彼らは 決して無用の戦いは好みませんが、戦う時は、常に部族の誇りを賭けて戦っていました。
日清戦争の結果、台湾が日本の領土となった時にも、最後まで抵抗したのは彼ら高砂族でした。
しかし、日本が教育やインフラの充実など、化外の地であった台湾を内地並みにすべく 努力し、その成果が上がるにつれて、高砂族の 生活も向上し、彼らは自然に「日本人」としての 意識を強く持つようになっていきました。
時は流れ、大東亜戦争が勃発。
戦地がフィリピンやニューギニアのようなジャングル の地であったため、熱帯の環境に慣れぬ日本兵は悪戦苦闘していました。
そこに立ち上がったのが高砂族でした。
日本が台湾搦。
するようになってから既に50年弱。
彼らにとっての祖国はもう「日本」となっていたのです。
密林は彼らにとっては庭のようなものでした。
彼らは降り注ぐ弾丸の下をものともせず、密林を縦横に飛び回り、日本軍のために陣地を築いていったのです。
しかし、戦局はますます不利となっていき、糧秣の補給もままならなくなっていきました。
もはや部隊の中でまともに動けるのは高砂族の彼だけ。
そこで彼ははるか後方の兵站基地へ食糧を取りに行くことを申し出て、ひとり出発しました。
彼は必死になって密林を掻き分け、やっとの思いで兵站基地に到着するや、疲れた体に米50キロをかついで休みもせずまた戦友のもとに向かいました。
しかし、既に彼の体力は限界を越えていたのです。
陣地まであと少しという ところで、彼は飢えのために力尽きました。
その後、戦友たちが彼を発見した時には、既に彼は餓死していました。
もちろん、背中の食糧に手を付ければ彼の生命は助かったでしょう。
しかし、どうしても彼には、飢えた戦友が待っているこの食糧に手を付けることはできなかったのです。
彼の戦友たちは、彼が必死に運んできた食糧の おかげで、苦しいこの戦いを生き延び、終戦を迎えて無事に帰国することができました。
けれども、戦勝国の手によって台湾は中国領となり、高砂族も「日本人」ではなくなってしまいました。
なるほど、私たち戦後世代の日本人にとっては、 高砂族は外国人以外の何者でもありません。
でも彼は、餓死してまでも戦友のもとに食糧を運ぼうとしたあの彼は、間違いなく「日本人」だったのです。
あなたは彼の前で胸を張って言えるか?
私は日本人だ、と。
今度こそ我々は高砂族に報いる事が出来るのではないだろうか?
事の発端は産経新聞が報じた「高砂義勇兵慰霊碑撤去の危機」が始まりだった。
太平洋戦争において「日本兵」として出征した台湾先住民出身者から成る 義勇兵の戦没者を祭る「高砂義勇兵英霊慰霊碑」が、敷地売却に伴う 撤去により、その存続が危ぶまれていた。
「どうにか出来ないか」
この報道に突き動かされるように、2chでは移転費をカンパしようとの声があがり始める。 各々が産経新聞や関係団体に働きかけ8月には産経新聞のバックアップで 慰霊碑を守る会が設立され募金が開始された。
ある者は食費を削り、ある者は失業保険から、ある者はバイト代を 金銭だけでは表し得ない思いが一重二重に広がっていった。
その思いは、総額3145件、3075万8511円という目標額の2倍近い 義捐金となり、本年(2005年)3月より移転作業が開始され、本年11月には完成する。
靖国神社奉納 高砂義勇兵伝 〔異国で眠る皇国の戦士〕
2006年2月8日に慰霊碑の移設は完了したが、17日に中国時報により日本を賛美する碑文であると報道されたことから反発が広がり、同日に敷地を提供している台北県政府から撤去要請がなされるという事態が生じた。
24日、強制撤去に着手した県政府と地元側との衝突があり、話し合いの結果、記念碑は存続し、日本の遺族団体などが寄贈した、「皇民」など日本語が入った石碑8基を撤去するというギリギリの妥協案で決着した。
しかし記念碑側面に刻まれた「大和魂」などの日本語の文言は覆い隠され、説明が無ければ慰霊碑であることすら分かりづらいものとなっている。
撤去された8基の石碑は当面、台北県風景管理局に保管されている。
なお、慰霊碑撤去を要請した県長は中国国民党所属であり、民主進歩党は撤去に反対していた。
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棄てられた皇軍兵士たち
―台湾人元日本兵―
昭和52年(1977年)8月、「台湾人元日本兵」の盛氏ら戦傷者と戦死者の遺族13名が、日本国を相手どり一人500万円の補償金を要求して裁判を起こした。
昭和49年(1974年)12月、高砂族(主に山地に住む台湾の先住民)出身の中村輝夫(李光輝)元陸軍一等兵がインドネシアのモロタイ島で発見されたのを契機として、台湾人元日本兵への補償を求める運動が日本と台湾で具現化。
しかし日本政府に動きがなかったため、戦後32年目にして上述の提訴となった。
以下に記した台湾人元日本兵とその遺族の声は、1985年及び1995年に行った取材が元になっている。
敗戦から40年。
彼らは何を考えどんな生活をしているのか。
日本語で語ってくれた方々の使ったことばは、なるべく生かすように努めた。
また、歴史的事実の認識として疑問が残る発言も、その人の理解としてそのまま収録した。
http://kohnotoshihiko.com/weblog_ja03.htm