人間の一生は草に似てる
春が来ると元気に伸びて
中年を迎えて実り
秋風が吹くと枯れ尽きて
もう生き返らない
人間も草と同じで死んだら それで終わり
「生命尊重のみで。魂は死んでもよいのか。」
いきなりお堅い言葉となったが、この言葉は、三島由紀夫の「檄」にある言葉。
誰だって死にたくはない。
しかし日本人としての魂を失って、なんの意味があるのか。
そのことを、楠木正成の物語の中で考えてみたいと思う。
楠木正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将。
鎌倉幕府に抵抗し、最後まで勤王をつらぬいたことから明治以降「大楠公」(だいなんこう)と称された。
楠木正成の出自は、まるで謎。
日本史上、非常に有名でありながら、これほど出自が謎に包まれた人物はほかにいない。
楠木正成が確かな実像として捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどの間の物語に過ぎない。
楠木正成は、もともとは河内一帯を中心に水銀などを流通させていた豪族のようだ。この水銀の利権をめぐって幕府と対立したことがきっかけという説もあるが真偽は不明。
時は鎌倉時代末期。
元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞の余地はない。幕府の権威も失墜し執権の北条高時は、政治への興味をなくし遊興三昧の日々を送っていた。
民は重税に苦しみ、世の秩序も乱れに乱れていたという。
1331年みかねた後醍醐天皇は幕府打倒を目指して京都で挙兵した。
しかし世が乱れているとはいえ、まだまだ幕府軍事力は強大。
世の武家や豪族たちは、世の中の乱れを憂いながらも倒幕となると恐れをなした。
「世の中をなんとかしたい」
あせる後醍醐天皇のもとに駆けつけた数少ない武将の中にいたのが、当時37歳の楠木正成。
後醍醐天皇は楠木正成に質問する。
「勝てる見込みはあるのか?」
正成は答える。
「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありません。しかし、知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機は必ず生じます」
そうはいっても正成の兵力はわずかに500余騎。
これに対し、幕府は数万の討伐軍を差し向ける。
鎧兜に身を包み、きちんと重武装した幕府軍に対し正成軍の将兵は、まるで野武士の集団。
兜もなく上半身が裸の者もいた。
粗末な山城を見た幕府軍の武将は
「こんな急ごしらえの城など片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。せめて1日でも持ちこたえてくれねば恩賞に預かれぬぞ!」と声を荒げた。
武功をあせった幕府兵は、総員総攻撃を敢行した。
兵が勝手に攻撃を始め、城の斜面を昇り始める。
ところが兵が斜面を埋めた瞬間…
ドドンという音とともに、突然、城の外壁が崩れ出した。
幕府兵の頭上に、岩や大木が地響きをあげて転がってきた。
1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは集団での奇襲作戦を行った。
この初戦だけで、幕府側は700名も兵を失う。
そして楠木正成軍は、藁人形であざむく熱湯をかける、熱した糞尿を頭からかける(まさに焼け糞をかけた)など、奇策に奇策を重ね、幕府軍を翻弄した。
やむなく幕府軍は力押しをやめて、いったん兵を引き城を包囲して持久戦に持ち込んだ。
山城にとどまる正成軍の食料は、20日で底をついた。
そこに京都で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入った。
正成は城に火を放ち火災の混乱に乗じて抜け道から脱出、行方をくらました。
鎌倉幕府側の武将たちは誰もが「正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した」と考える。
そして、「敵ながら立派な最期だった」と言い合った。
貧困とは
「生きる事に困っているコト。」
金や家が無くても、食べ物や衣類が少なくても、友達や恋人が居なくても生きる事に困っていない人も居るだろう。
其の人は、きっと、貧困では無い。
金や家をどれだけ持っていても、食べ物や衣服がどれだけ有っても、友達や恋人が何人居ても生きる事に困っている人も居るかも知れない。
其の人は、きっと、貧困だろう。
マザー・テレサが初めて来日したのは1981年4月22日。
其れから、今年で、20年以上の月日が流れる事になる。
『けさ、私は、この豊かな美しい国で孤独な人を見ました。この豊かな国の大きな心の貧困を見ました。カルカッタやその他の土地に比べれば、貧しさの度合いは違います。また、日本には貧しい人は少ないでしょう。でも、一人でもいたら、その人はなぜ倒れ、なぜ救われず、その人に日本人は手をさしのべないのでしょうか。その人が飲んだくれだから!でも、彼もわたしたちも兄弟です。本人はきっと孤独でしょう。みなから無視されての…やけ酒かもしれません。私は、短い間しか日本に滞在しないので手を貸してあげるのは、せんえつだと思い、何もしませんでしたが、もし、女の人が路上に倒れていたらその場で、語りかけたり、助けていたと思います。豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。』
かつてマザー・テレサが見た、此の日本と云う国の貧困は、未だ、解決されていない。
心の貧しさと云う、精神的貧困。
どちらも、此の日本に存るだろう。
其の貧困の中で
其の貧しさの中で
今、考えなければならない事は、ただ一つ。
此れから、如何するのか。
「気分本位」ではなく「事実本位」でものごとを判断したいという思いを、おりにふれて書いた。
もちろん、「事実」とは何かを問われれば、話はがぜん哲学的になり、簡単に答えは出ない。
ここでいう「事実本位」とは、思い込みや、テレビの断片情報から受けるイメージなど、判断を歪めるさまざまな呪縛から自らを解き放ち、可能な限りさまざまな資料にあたって、すなおに解釈したい、ということである。
今日の世界の最悪の病気は、結核でもハンセン病でもありません。
それは“自分はこの世にいてもいなくていい”と感じる精神的貧困と孤独です。
マザー・テレサ
井深八重さんは1897年に台北で生まれ、ハンセン病患者の看護に尽くした看護師。
父は国会議員の井深彦三郎氏、叔父は明治学院学院長、井深梶之助氏。
1918年、同志社女学校(現在の同志社女子大学)専門学部英文科卒業、22歳の時にハンセン病と診断され、絶望の淵に立たされていたが、患者の為に懸命に尽くす神父の姿や、日一日を懸命に生きる患者達の姿に心を動かされるようになった。
病院に来てから1年後、誤診だと発覚したが、自ら病院にとどまる決意をした。
その後、看護師の資格を取得し、調剤をしたり薬を塗ったりなどの治療から、炊事、洗濯など日常生活の雑務も行い、患者の為に尽くした。
その功績が認められ、1959年にローマ法王ヨハネ23世から十字勲章を、1961年には、赤十字国際委員会から看護師最高の栄誉である、フローレンス・ナイチンゲール記章を授与された。
人間は無から生まれて無に帰る。
人間は、如何にして生きるかということよりも、むしろ如何にして美しい死に方をするかを探し求めている。
人間は、自分の生活に未だ美しい夢が残されているうちに死ぬのが、人生の一番幸福な生き方ではあるまいか。
人間というものは、何時でも楽に死ねるという確信がついて来ると、却っていつでも生きていたくなるものだ。
どんな悲しいことも、苦しいことも、割合平気で押しこらえて行くことが出来る。
死は一切を清算する。
そこには苦しみも、悲しみも、淋しさも存在しない。
故に生きている中にうんと苦しんでみよう。
悲しんでみよう。
かく考えれば、一日一日の生に脈々たる勇気が湧き非常に明るい世界が見出されたような気がする。
腹の底から笑ってみたいような、愉快な気持ちになる。
海軍大尉 島澄夫
神風特別攻撃隊 八幡護皇隊
昭和20年4月16日
南西諸島方面にて戦死
兵庫県神戸市灘区赤松町出身 25歳
群れることを嫌い、自分の力で道を切り開いていく一匹狼タイプは性的に成熟すると、希に同性の群れを倒し新たな群れとなることもあるが、ほとんどは群れを離れる。
同い年の兄弟や姉妹が、同時に群れを離れて、しばらく行動を共にすることもあるが、基本的に彼らは一匹狼となる。
彼らは、一匹狼同士でペアとなり新たな群れを作るか、他の群れの同性のボスを倒し群れを乗っ取る。
ただし後者はリスクが高く、失敗すると死に至ることもあり、一匹狼の主な死因の一つ。
群れは一匹狼を攻撃するので、一匹狼は群れの縄張りの外を行動範囲とする。
群れの縄張りには、群れ同士の衝突を避けるため緩衝地帯があり、そこは一匹狼にとって安全なだけでなく、狼の獲物となる草食獣にとっても比較的安全であり、草食獣の生息密度が高く、一匹狼が生きてゆく助けとなる。
日本人にとって「死ぬ」ということは、仏教で説いているように、十万億土(おくど)のかなたに消え去っていくということではなく、死後人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、この世の子孫の生活を見守っていて下さると考える。
「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というのが、日本人の昔からの考えかた。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みを何よりも大切にした。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ってきたのが「やまと民族」の魂。
昨今の天変地異は現世の我々に対しての、神々の怒り、警鐘であると私は思う。
大東亜戦争以前にも、一部の国民には邪悪な思想にとりつかれた愚かな者たちがいましたが、総じて日本国民は、神々を崇敬し、皇室を敬い、同胞をいたわる民族。
大東亜戦争で亡くなられた方々も60年以上が経ち、故人を直接知る人も少しづつ減ってきている。
地方によって「弔い上げ」の風習が違うが、総じて「弔い上げ」を終えると、死者の供養は仏教的要素を離れ、それまで死者その人の霊として個性を持っていた霊は、「先祖の霊」という単一の存在に合一される。これが祖霊。祖霊は、清められた先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、国を護り、繁栄をもたらす神として敬われるのである。
先祖の霊を「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ぶことにはこのような意味がある。
しかし、靖国の英霊に対し、誠の「弔い上げ」ができているのか?
自国の歴史を侮蔑(ぶべつ)し、他を責めることによって、自己の保身に汲汲(きゅうきゅう)たる日本人が如何に多いか…
失敗を誇張し、他を責めた本人は生きていて、場合によっては金儲けに走っている。大東亜戦争で亡くなられた方々は、二百五、六十万人になる。
彼らは皆、祖国を信じ、悔いなく亡くなられた。自己の命を捧げて悔いなきものをもつことこそ、悲しいことだが、生の最高の充実。
それに石を投げるような安易な利己主義者は恥ずべきもの。
それらは、今でも変わっていない。
東日本大震災でも多くの同胞が犠牲になった。
亡くなられた方々の思いもよそに進まぬ被災地の復興。靖国訴訟も根っこは同じ。
日本人は死者との約束は必ず守る民族。
これは肉体は滅びても、「魂」は存在しているという考えかたが古来よりあったから日本人は古来より、罪、穢(けが)れを嫌い、清浄(せいじょう=清らかな状態)を尊いものとしてきた。心に一点の曇りもないことをいう。
これが日本人の魂。
嘘、偽りが横行する今日、いつまで、こころない人々は護国の神々に石を投げ続けるのか?
死者との約束を守れぬ日本人は、日本人とは言えない。
護国の神々こそ、武士であり、日本人の魂やから…
春が来ると元気に伸びて
中年を迎えて実り
秋風が吹くと枯れ尽きて
もう生き返らない
人間も草と同じで死んだら それで終わり
「生命尊重のみで。魂は死んでもよいのか。」
いきなりお堅い言葉となったが、この言葉は、三島由紀夫の「檄」にある言葉。
誰だって死にたくはない。
しかし日本人としての魂を失って、なんの意味があるのか。
そのことを、楠木正成の物語の中で考えてみたいと思う。
楠木正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将。
鎌倉幕府に抵抗し、最後まで勤王をつらぬいたことから明治以降「大楠公」(だいなんこう)と称された。
楠木正成の出自は、まるで謎。
日本史上、非常に有名でありながら、これほど出自が謎に包まれた人物はほかにいない。
楠木正成が確かな実像として捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどの間の物語に過ぎない。
楠木正成は、もともとは河内一帯を中心に水銀などを流通させていた豪族のようだ。この水銀の利権をめぐって幕府と対立したことがきっかけという説もあるが真偽は不明。
時は鎌倉時代末期。
元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞の余地はない。幕府の権威も失墜し執権の北条高時は、政治への興味をなくし遊興三昧の日々を送っていた。
民は重税に苦しみ、世の秩序も乱れに乱れていたという。
1331年みかねた後醍醐天皇は幕府打倒を目指して京都で挙兵した。
しかし世が乱れているとはいえ、まだまだ幕府軍事力は強大。
世の武家や豪族たちは、世の中の乱れを憂いながらも倒幕となると恐れをなした。
「世の中をなんとかしたい」
あせる後醍醐天皇のもとに駆けつけた数少ない武将の中にいたのが、当時37歳の楠木正成。
後醍醐天皇は楠木正成に質問する。
「勝てる見込みはあるのか?」
正成は答える。
「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありません。しかし、知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機は必ず生じます」
そうはいっても正成の兵力はわずかに500余騎。
これに対し、幕府は数万の討伐軍を差し向ける。
鎧兜に身を包み、きちんと重武装した幕府軍に対し正成軍の将兵は、まるで野武士の集団。
兜もなく上半身が裸の者もいた。
粗末な山城を見た幕府軍の武将は
「こんな急ごしらえの城など片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。せめて1日でも持ちこたえてくれねば恩賞に預かれぬぞ!」と声を荒げた。
武功をあせった幕府兵は、総員総攻撃を敢行した。
兵が勝手に攻撃を始め、城の斜面を昇り始める。
ところが兵が斜面を埋めた瞬間…
ドドンという音とともに、突然、城の外壁が崩れ出した。
幕府兵の頭上に、岩や大木が地響きをあげて転がってきた。
1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは集団での奇襲作戦を行った。
この初戦だけで、幕府側は700名も兵を失う。
そして楠木正成軍は、藁人形であざむく熱湯をかける、熱した糞尿を頭からかける(まさに焼け糞をかけた)など、奇策に奇策を重ね、幕府軍を翻弄した。
やむなく幕府軍は力押しをやめて、いったん兵を引き城を包囲して持久戦に持ち込んだ。
山城にとどまる正成軍の食料は、20日で底をついた。
そこに京都で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入った。
正成は城に火を放ち火災の混乱に乗じて抜け道から脱出、行方をくらました。
鎌倉幕府側の武将たちは誰もが「正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した」と考える。
そして、「敵ながら立派な最期だった」と言い合った。
貧困とは
「生きる事に困っているコト。」
金や家が無くても、食べ物や衣類が少なくても、友達や恋人が居なくても生きる事に困っていない人も居るだろう。
其の人は、きっと、貧困では無い。
金や家をどれだけ持っていても、食べ物や衣服がどれだけ有っても、友達や恋人が何人居ても生きる事に困っている人も居るかも知れない。
其の人は、きっと、貧困だろう。
マザー・テレサが初めて来日したのは1981年4月22日。
其れから、今年で、20年以上の月日が流れる事になる。
『けさ、私は、この豊かな美しい国で孤独な人を見ました。この豊かな国の大きな心の貧困を見ました。カルカッタやその他の土地に比べれば、貧しさの度合いは違います。また、日本には貧しい人は少ないでしょう。でも、一人でもいたら、その人はなぜ倒れ、なぜ救われず、その人に日本人は手をさしのべないのでしょうか。その人が飲んだくれだから!でも、彼もわたしたちも兄弟です。本人はきっと孤独でしょう。みなから無視されての…やけ酒かもしれません。私は、短い間しか日本に滞在しないので手を貸してあげるのは、せんえつだと思い、何もしませんでしたが、もし、女の人が路上に倒れていたらその場で、語りかけたり、助けていたと思います。豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。』
かつてマザー・テレサが見た、此の日本と云う国の貧困は、未だ、解決されていない。
心の貧しさと云う、精神的貧困。
どちらも、此の日本に存るだろう。
其の貧困の中で
其の貧しさの中で
今、考えなければならない事は、ただ一つ。
此れから、如何するのか。
「気分本位」ではなく「事実本位」でものごとを判断したいという思いを、おりにふれて書いた。
もちろん、「事実」とは何かを問われれば、話はがぜん哲学的になり、簡単に答えは出ない。
ここでいう「事実本位」とは、思い込みや、テレビの断片情報から受けるイメージなど、判断を歪めるさまざまな呪縛から自らを解き放ち、可能な限りさまざまな資料にあたって、すなおに解釈したい、ということである。
今日の世界の最悪の病気は、結核でもハンセン病でもありません。
それは“自分はこの世にいてもいなくていい”と感じる精神的貧困と孤独です。
マザー・テレサ
井深八重さんは1897年に台北で生まれ、ハンセン病患者の看護に尽くした看護師。
父は国会議員の井深彦三郎氏、叔父は明治学院学院長、井深梶之助氏。
1918年、同志社女学校(現在の同志社女子大学)専門学部英文科卒業、22歳の時にハンセン病と診断され、絶望の淵に立たされていたが、患者の為に懸命に尽くす神父の姿や、日一日を懸命に生きる患者達の姿に心を動かされるようになった。
病院に来てから1年後、誤診だと発覚したが、自ら病院にとどまる決意をした。
その後、看護師の資格を取得し、調剤をしたり薬を塗ったりなどの治療から、炊事、洗濯など日常生活の雑務も行い、患者の為に尽くした。
その功績が認められ、1959年にローマ法王ヨハネ23世から十字勲章を、1961年には、赤十字国際委員会から看護師最高の栄誉である、フローレンス・ナイチンゲール記章を授与された。
人間は無から生まれて無に帰る。
人間は、如何にして生きるかということよりも、むしろ如何にして美しい死に方をするかを探し求めている。
人間は、自分の生活に未だ美しい夢が残されているうちに死ぬのが、人生の一番幸福な生き方ではあるまいか。
人間というものは、何時でも楽に死ねるという確信がついて来ると、却っていつでも生きていたくなるものだ。
どんな悲しいことも、苦しいことも、割合平気で押しこらえて行くことが出来る。
死は一切を清算する。
そこには苦しみも、悲しみも、淋しさも存在しない。
故に生きている中にうんと苦しんでみよう。
悲しんでみよう。
かく考えれば、一日一日の生に脈々たる勇気が湧き非常に明るい世界が見出されたような気がする。
腹の底から笑ってみたいような、愉快な気持ちになる。
海軍大尉 島澄夫
神風特別攻撃隊 八幡護皇隊
昭和20年4月16日
南西諸島方面にて戦死
兵庫県神戸市灘区赤松町出身 25歳
群れることを嫌い、自分の力で道を切り開いていく一匹狼タイプは性的に成熟すると、希に同性の群れを倒し新たな群れとなることもあるが、ほとんどは群れを離れる。
同い年の兄弟や姉妹が、同時に群れを離れて、しばらく行動を共にすることもあるが、基本的に彼らは一匹狼となる。
彼らは、一匹狼同士でペアとなり新たな群れを作るか、他の群れの同性のボスを倒し群れを乗っ取る。
ただし後者はリスクが高く、失敗すると死に至ることもあり、一匹狼の主な死因の一つ。
群れは一匹狼を攻撃するので、一匹狼は群れの縄張りの外を行動範囲とする。
群れの縄張りには、群れ同士の衝突を避けるため緩衝地帯があり、そこは一匹狼にとって安全なだけでなく、狼の獲物となる草食獣にとっても比較的安全であり、草食獣の生息密度が高く、一匹狼が生きてゆく助けとなる。
日本人にとって「死ぬ」ということは、仏教で説いているように、十万億土(おくど)のかなたに消え去っていくということではなく、死後人はやがて祖霊(それい)となり、さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、この世の子孫の生活を見守っていて下さると考える。
「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というのが、日本人の昔からの考えかた。
四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた私たちの祖先は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みを何よりも大切にした。
自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ってきたのが「やまと民族」の魂。
昨今の天変地異は現世の我々に対しての、神々の怒り、警鐘であると私は思う。
大東亜戦争以前にも、一部の国民には邪悪な思想にとりつかれた愚かな者たちがいましたが、総じて日本国民は、神々を崇敬し、皇室を敬い、同胞をいたわる民族。
大東亜戦争で亡くなられた方々も60年以上が経ち、故人を直接知る人も少しづつ減ってきている。
地方によって「弔い上げ」の風習が違うが、総じて「弔い上げ」を終えると、死者の供養は仏教的要素を離れ、それまで死者その人の霊として個性を持っていた霊は、「先祖の霊」という単一の存在に合一される。これが祖霊。祖霊は、清められた先祖の霊として、家の屋敷内や近くの山などに祀られ、その家を守護し、国を護り、繁栄をもたらす神として敬われるのである。
先祖の霊を「ホトケ様」「カミ様」「ご先祖様」と呼ぶことにはこのような意味がある。
しかし、靖国の英霊に対し、誠の「弔い上げ」ができているのか?
自国の歴史を侮蔑(ぶべつ)し、他を責めることによって、自己の保身に汲汲(きゅうきゅう)たる日本人が如何に多いか…
失敗を誇張し、他を責めた本人は生きていて、場合によっては金儲けに走っている。大東亜戦争で亡くなられた方々は、二百五、六十万人になる。
彼らは皆、祖国を信じ、悔いなく亡くなられた。自己の命を捧げて悔いなきものをもつことこそ、悲しいことだが、生の最高の充実。
それに石を投げるような安易な利己主義者は恥ずべきもの。
それらは、今でも変わっていない。
東日本大震災でも多くの同胞が犠牲になった。
亡くなられた方々の思いもよそに進まぬ被災地の復興。靖国訴訟も根っこは同じ。
日本人は死者との約束は必ず守る民族。
これは肉体は滅びても、「魂」は存在しているという考えかたが古来よりあったから日本人は古来より、罪、穢(けが)れを嫌い、清浄(せいじょう=清らかな状態)を尊いものとしてきた。心に一点の曇りもないことをいう。
これが日本人の魂。
嘘、偽りが横行する今日、いつまで、こころない人々は護国の神々に石を投げ続けるのか?
死者との約束を守れぬ日本人は、日本人とは言えない。
護国の神々こそ、武士であり、日本人の魂やから…