旗印は自由と友情…藤原岩市大佐が率いた「F機関」には大東亜戦争の大義が包み込まれていた。若き陸軍参謀の貴い志は、戦後アジアの大国に満開の花を咲かせる。

昭和16年12月8日、日本時間午前1時30分。

わが帝国陸軍第18師団の佗美支隊はマレー半島のコタバルに上陸し、日英開戦の火蓋が切って落とされた。これは真珠湾攻撃の1時間50分前の出来事であった。

その報せを受け、バンコク市内にいた一人の大使館職員は、それまで秘していた身分を明かし、直ちに作戦行動に移る。帝国陸軍の諜報エリート・藤原岩市少佐だった。

藤原岩市氏こそ、アジア解放・諸民族団結の大御心を実践した大東亜戦争の英雄の一人である。そして彼が率いた「F機関」の軌跡に、大東亜戦争の真の崇高な目的が集約されていた。

その活躍は昭和41年、本人の手でまとめられた『F機関』(原書房)の中に詳しく書き残されている。

昭和6年に陸軍士官学校を卒業した藤原岩市は、広東攻略戦に第21軍参謀として従軍した後、16年に南方総軍参謀としてマレー作戦に参加する。それが我が軍のマレー快進撃を陰で支えた

開戦直前に藤原少佐に与えられた指令は、東アジア各地にあったインド系秘密結社IIL(アイアイエル)との接触だった。バンコクでIILの指導者と密会を重ね、日本軍への協力を取り付けた藤原少佐は、開戦直後、秘密結社の指導者・プリタムシン翁を伴って飛行機で最前線に降り立つ。

このプリタムシン翁は、戦場でインド人同士が混乱することを危惧して、腕章を巻くことを提案していた。誰にでも判る簡単な目印だ。アイディアとして浮かんだのが「F」のマークだった。

それは、フリーダム、フレンドシップ、フジワラの頭文字。僅か11人のメンバーで始まったF機関の誕生である。とりわけ「フレンドシップ」は、この機関の特徴を物語るものであった。

F機関が進めたのはマレー半島に暮らすインド系住民への宣撫工作であった。つまり、白人植民地からの解放を旗印に、東亜民族の団結を謳い、日本軍への協力を求めるものだ。

「私達の仕事は、力をもって敵や住民を屈服するのではない。威容をもって敵や住民を威服するものではない。私達は徳義と誠心を唯一の武器として、敵に住民に臨むのである」

藤原岩市氏はF機関の立場を、そう説明する。この言葉に偽りはなく、F機関メンバーは、一貫してほぼ丸腰で活動を続けていた。

F機関は、英領マレーのアロースターに最初の陣地を獲得するが、ここでもたらされた些細な情報が、後にインド史をも塗り替えることになる。

我が軍が快進撃を続ける中、その地方に取り残された英軍の一部隊があった。イギリス人将校一人のほか、兵士は全員インド系だという。

そこで藤原機関長とインド人指導者プリタムシン翁は車にインド国旗を付けて、敵陣に乗り込み、イギリス人将校に投降を要求。武装解除に成功する。

インド人兵は、糸車の描かれた国旗を見て、愕然とした。そして、藤原機関長はその場で演説を始める。

「諸君!私はインド人将校との友好を取り結ぶためにきた日本軍の藤原少佐である」

この言葉がヒンドゥー語に訳されると兵士たちは、どよめいたという。そして完全な武装解除が行われたが、その際、率先して兵士に指令を出す一人のインド人将校の姿が藤原機関長の目に留まった。

その人物が、INA(=インド国民軍)の創設者となる歴史的人物モハーシン大尉であった。この時、運命の歯車が少しでも狂っていたら、シンガポール攻略もインパール作戦も形を変えていただろう。

アロースターの町は、権力の空白で風紀紊乱が著しかった。インド人やマレー人の不逞分子がシナ人商店や家を襲って、財産の収奪を始めていたのだ。

町に入った藤原機関長は、惨憺たる光景を重く見て、モハーシン大尉に治安維持を取り仕切るよう申し出る。驚いたのは当の大尉だ。昨日まで敵だった外国人に警備を任せるとは…

藤原機関長はこう述懐している。

「私は絶対の信頼と敬愛を得ようとすれば、まず自ら相手にそれを示す必要があると信じた」

インド人兵にとって、白人に代わってやってきた日本人は信頼に値するアジアの仲間であった。それは藤原機関長が何気なく開いた昼食会で、いっそう鮮明になる。

12月17日、藤原機関長は、IILメンバーやインド人将校、下士官全員を集めてささやかな昼食の機会をもった。テーブルにあがったのはインド料理だった。

藤原機関長本人によるとその昼食会は「インド人将校の間に驚くべき深刻な感動を呼んだ」という。特にモハーシン大尉は感激のあまり椅子から立ち上がりスピーチを開始した。

「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗戦軍のインド兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓でインド料理の会食をするなどということは、英軍の中ではなにびとも夢想だにできないことであった。

藤原少佐の、この敵味方、勝者敗者、民族の相違を越えた、温かい催しこそは、一昨日来われわれに示されつつある友愛の実践と共に、日本のインドに対する誠意の千万言にも優る実証である」

他の兵士も満面に共感の意を現し、割れるような拍手を送ったという。そして藤原機関長はフォークを使わず、素手でカレーを平らげた。伝説が生まれた瞬間であった。

我が日本軍はマレー半島の各地に投降を呼びかける宣伝ビラを撒いた。そして、そのビラを大切に握りしめて投降してくるインド兵が後を絶たなかった。

マレーに張り巡らされたインド系住民のネットワークが、一方で日本軍の進撃を支えたのだった。余り知られていない史実である。

F機関は同志となったインド兵を宣伝員として密かに敵エリアに送り出し、インド人部隊の説得に当たらせた。これは危険な賭けだった。宣伝員のインド兵が英軍にわが軍の情報を内通する可能性もあったからだ。

しかし、杞憂だった。数十人の宣伝員のただ一人、寝返ったり通牒したりする者はいなかった。それについて藤原機関長は、こう述懐している。

「例え一時でも一抹の懸念を持ったことを恥じた。つい2週間前まで英国王に絶対忠誠であったインド人将兵が、反英独立闘争の逞しい心理戦戦士に一変するとは、民族の魂の偉大さをまざまざと悟らされた」

藤原機関長は現地部隊と本国司令部との狭間に立たされる、いわゆるアラビアのローレンス的な苦悩を感じることもあった。

しかし、我が日本軍の首脳は愚かではなかった。アジア民族の連帯は大御心に添う大東亜戦争の本旨だった。それを証明する出来事が起こる。

昭和16年の大晦日、藤原機関長はモハーシン大尉から重要な申し出を受けた。それはINA(=インド国民軍)の創設を願い出るものだった。重大な問題だ。要求の中には「INAを日本軍と同盟関係の友軍と見なす」といった条文もある。

だが、全てを受け入れた藤原機関長は、その足で山下奉文将軍の司令部を訪れ、認可を取り付ける。インド兵を信頼していたのはF機関だけではなく、名将・山下奉文閣下も同じだった。

かくして昭和16年12月31日、INAはマレー半島の片隅で産声を上げた。間もなく…そのインド人待望の国軍は、シンガポール陥落直後に公然と姿を現すことになる。

そして、その軍隊はインド独立の巨大なうねりをもたらすことになる。

昭和17年2月15日、シンガポールは我が軍によって陥落し、夕方には英軍のパーシバル将軍が降伏文書にサインして戦闘は終結する。

翌々日、英軍のインド兵捕虜をF機関が代表して接収することになった。市内のファラ公園にインド兵が集められた。その数に、日本軍が驚愕する。

交戦中、英軍のインド兵は多くて1万5000人と推定していたが、実際には5万人いたのだ。公園はインド兵で埋め尽くされた。

「親愛なるインド兵諸君!」

5万人を前に藤原機関長は堂々の大演説を行う。

「シンガポールの牙城の崩壊は、英帝国とオランダの支配下にある東亜諸民族のしっこくの鉄鎖を寸断し、その解放を実現する歴史的契機となるであろう」

満場の聴衆は熱狂状態に入り、言葉が翻訳される度に、拍手と歓声で言葉が継げなかったという。そして、こう続けた。

「そもそも民族の光輝ある自由と独立とは、その民族自らが決起して、自らの力をもって闘い取られたものでなければならない。日本軍はインド兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の闘いのために忠誠を近い、INAに参加を希望するものにおいては、日本軍捕虜としての扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また全面的支援を与えんとするものである」

そう宣言すると全インド兵は総立ちになって狂喜歓呼した。40分にわたる大演説は、INAにとって歴史的契機になると同時に、インド独立運動史に残る歴史的な宣言になったという。

昭和17年4月、藤原機関長は帰任の指令を受けて南方戦線から離れることになった。送別の宴で藤原機関長は、INA将校から額に納められた感謝状を贈られる。

そこには「幾十万の現地インド人の命を救い、その名誉を守った」と最大限の感謝の言葉が綴られていた。

翌朝、INA軍楽隊が吹奏する中、藤原機関長の乗った飛行機はシンガポールの空に消えていった。これをもってF機関は使命を終えた。

だが、置き土産は余りにも大きなものだった。祖国解放の国軍となったINAは、より巨大な軍隊になり、日本の降伏後もインド独立の中核となったのだ。

F機関解散から2年…藤原参謀は、インパールで再びINAと巡り会う。

しかし、そこには盟友のモハーンシン将軍(大尉から昇進)の姿はなかった。戦時下のベルリンから来日を果たしたインド独立の巨星チャンドラ・ボースが全軍を率いるリーダーとして登場していたのだ。

インパールの戦いは、INAの視点から追うと、まったく様相が異なる。なぜ、この作戦が進められたのか…それはF機関をはじめ、日本軍がINAとの約束を果たす為でもあった。

援蒋ルートの断絶だけではなく、そこには崇高な目標があった。チャンドラ・ボースを筆頭にインド兵はビルマの山岳地帯で死力を尽くして戦い抜く。日本にとっては悲劇的な戦いであったが、決して無益な作戦行動ではなかった。

この作戦を戦い抜いたことでINA兵士は、インド国民から熱狂的に支持されたのだ。その事実は、大東亜戦争の本質を明かすものである。

インパール作戦で冒されたマラリアの発作で藤原岩市参謀は入院していた。その病床で終戦の大詔を聞く。この時、自決した何人もの同志がいた。そして、共に戦った仲間の多くが散華していた。

生き残った藤原参謀には、また過酷な運命が待ち受けていた。軍事法廷に呼び出されたのだ。その法廷はインドの首都デリー。出発の前夜、藤原参謀は隠し持っていた青酸カリを棄てた。ある決意を胸に秘めていたのだ。

「わがインド工作は単なる謀略ではない。陛下の大御心に添い、建国の大理想を具現すべく身をもって実践したことを強調しなければならない」

デリー市内のレッドフォート(旧ムガール朝の城)に収監された藤原参謀は、裁判で主席弁護士を務めるデサイ博士から、そっと囁かれる。

「インドの独立は程なくまっとうする。そのチャンスを与えてくれたには日本である。独立は30年早まった。これはビルマなど東南亜諸国共通である。インド国民は、これを深く肝銘している。国民は日本の復興に、あらゆる協力を惜しまないだろう」

博士の言う通りだった。英国によるINA軍事法廷は、インド国民の独立へのうねりを呼んだ。昭和20年11月に第1回の法廷が開かれた時、主要都市では民衆が蜂起し、カルカッタでのデモは10万人に膨れ上がった。

「インド万歳」を叫ぶ民衆の声は、収監中の藤原参謀の耳にも届いたという。

2回目の法廷では、ゼネストが起こり「INAの英雄を救え」の大合唱が続いた。そして、遂には英軍の艦船20隻が叛乱軍に奪われる事態にも発展する。

英国植民地政府は、第3回法廷でINA全将校の釈放を決定。その約1年後にインドは悲願の独立を達成する。

その歴史的な変革を藤原参謀は首都デリーの小さな部屋から見守っていた。不思議な運命である。

藤原参謀は、インドからシンガポールのチャンギー刑務所に移送される。旧帝国軍人が不当な裁判で次々に死刑台に送られた地獄だ。極東軍事裁判にも増して、そこは英軍の復讐の場でしかなかった…

そこでも1年以上にわたり、藤原参謀は尋問されるが、ついに罪に問われることはなかった。戦時下でも武器を持たずに行動していたことがギリギリの局面で参謀を救ったのだ。

英軍の尋問者たちは、常に訝っていた。

「貧弱な組織で、グローリアス・サクセスを収めたと言っても誰が信じようか」

藤原参謀は自分達が持っていたものは少なかった、と答える。そして英国軍には決してなかったものが日本軍にあったと断言する。

「英国も和蘭も植民地域の産業開発や道路や病院の整備には目を見張る業績があった。しかし、それは自分たちと一部の特権階級のためにだ。絶対の優越感を驕って現地住民に対する人間愛がない。

 私は、私の部下とともに、身をもって、敵味方、民族の相違を超えた愛情と誠意を、硝煙の中で、彼等に実践感得させる以外に途はないと誓い合った。そして、至誠と信念と愛情と情熱をモットーに実践これを務めたのだ。私はそれだと思う。成功の原因は」

英国人は最後に、こう言った。

「貴官に敬意を表する。自分はマレー、インドに20数年勤務して来た。しかし、現地人に対して貴官のような愛情を持つことが遂に出来なかった…」

戦後、藤原岩市参謀は自衛隊創設と同時に入隊し、陸将を務めた後、昭和61年に世を去った。厚い友情で結ばれたモハーンシン将軍とは、昭和29年にインドを訪問した時に再会している。

将軍と一緒にシーク教徒の聖地ゴールデン・テンプル(黄金寺院)に招かれた英雄は、万を超える群衆から歓迎を受け、盛大な式典が行われたという。

現地の新聞には大きな見出しが踊っていた。

「INAの産みの親フジワラ元帥がゴールデン・テンプル往訪」