1.武士階級が自らを消滅させた明治維新

フランスの日本文化研究者モーリス・パンゲは、著書『自死の日本史』で、次のように述べている。

日本の特権階級であった武士は他の階級によって倒されたのではありません。

外国の圧力の前に、みずから革命を推進し、そのためみずからを消滅させるという犠牲を払ったのです。革命といっても、それはある階級が他の階級を倒すという、普通の意味の革命ではありません。

武士たちの望みは、日本という国の力をよびさますことだったのです。

この一文を引用しながら『新編 新しい歴史教科書』(『日本人の歴史教書』[1]に全編収録)は、次のように述べている。

明治維新によって身分制度は廃止され、四民平等の社会が実現した。

職業選択の自由がおおやけに認められ、自由に経済活動ができるようになった。

武士の特権は廃絶され、武士身分そのものが消滅した。

明治維新は、ヨーロッパの革命、とくにフランス革命のように、市民が暴力で貴族の権力を打倒した革命ではなかった。

武士身分を廃止したのは、ほかならぬ武士身分の人々によって構成されていた明治新政府だった。

2.公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たち

従来の歴史書では、たとえば、わが明治維新も、このフランス革命の遠隔作用のもとになしとげられたと言える。

しかし、この偉大な革命の真価が日本人に理解されるまでには、長い年月が必要であった。

などと述べているように、進んだ西洋を遅れた日本が追随していく、という西洋崇拝型の歴史観だった。

しかし、同じく階級を廃止して、国民国家を創ったと言っても、「市民が暴力で貴族の権力を打倒した革命」と、武士階級が「みずから革命を推進し、そのためみずからを消滅させ」たのとでは、本質的に異なる。その違いが、フランス革命での犠牲者2百万人と明治維新での2~3万人との差に表れている。

従来の西洋崇拝史観から脱却して日本文明の特長をも踏まえた、まさに『新しい歴史教科書』ならではの視点。

モーリス・パンゲの引用の後はこう結ばれている。

明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した改革だった。

国民国家の形成は、多くの国に見られる現象だが、特権階級が自らを消滅させて、それを成し遂げたという例は我が国以外の例を知らない。そしてそれを成し遂げたのが、武士たちの「公のために働く」という使命感だった。これを武士道と呼んで良いだろう。この武士道が近世以降の日本文明を支えた大きな柱なのである。

『新しい歴史教科書』に沿って武士道が我が国に生まれ、それがついには自らを犠牲にして明治日本を建設した過程を辿りたい。

3.統治と治安維持を役割として生まれた武士階級

階級として武士と百姓・町人を分ける身分制度は、秀吉の「刀狩り令」を一つの源とする。誰でもが武装していた戦国の世に、秀吉は「刀狩り令」を発して、農民から刀や弓、槍、鉄砲などの武器を没収した。

これによって農民を耕作に専念させ、平和な社会秩序を作ろうとした。

秀吉の刀狩りは戦乱を抑える効果をもたらしたが、徳川幕府はその方針を受け継ぎ、武士と百姓・町人を区別する身分制度を定めて平和で安定した社会をつくり出した。

武士は統治をになう身分として名字・帯刀などの名誉をもつとともに、治安を維持する義務を負い、行政事務にも従事した。

こうした統治の費用を負担し、武士を経済的に養ったのが、生産・加工・流通にかかわる百姓と町人。

このように異なる身分の者どうしが依存しあいながら、戦乱のない江戸時代の安定した社会を支えていた。

ただし、武士と百姓・町人を分ける身分制度は、かならずしも厳格で固定されたものではなかった。

階級制度というと搾取し、搾取される階級対立をすぐに連想してしまうのは、マルクス主義の遺した先入観。

武士は治安を維持する役割として名字帯刀を許され、農民や町人の治めた税を俸禄として生計を立てる。

これは今日の自衛官や警察官が国防と治安維持のために武装を許され、国家公務員として俸給を得るのと同じである。

武士が搾取階級でなかったことは、江戸時代の経済発展に追随できなかった大名以下ほとんどの武家が商人から借金に頼ってなんとか家計を維持していた事実からも、窺うことができる。

フランス革命当時の貴族や、現代中国の共産党幹部のような本物の搾取階級であれば、好きなだけ農民や商人から富を収奪できるから、借金に悩む必要などないのである。

4.「忠義」とは「公のために働くこと」

武士を統治階級とする江戸幕府の制度は250年もの長い平和の時代をもたらした。

これ自体が世界史の一つの奇跡と言える。それを支えた武士たちの具体的な生き方、考え方は「武士道 ~ 主体的なる献身」。

この平和により、経済が大いに発展し、ついには金銭万能という思潮が広まった「花の元禄」時代に、衝撃を与えたのが、赤穂事件であった。

主君への忠義を晴らすために、自らの命を捨てた武士たちの行動は、昔ながらの武士道を思い出させた。

この事件は『忠臣蔵』として歌舞伎などの題材となり、今日にいたるまで日本人に武士道を思い起こさせる物語となっている。

武士道には、勇気、惻隠(なさけ)、克己(自制)、名誉、質素、正直などさまざまな徳目が含まれるが、その最大の特徴は忠義の観念。

この点を『新しい歴史教科書』はこう説いている。

忠義とは主君に対してまごころをもって仕えることである。忠義は強制されたものではなく自発的なものでなければならず、時には主君のために命を捨てる覚悟が必要だった。

しかし、忠義とは主君個人のためだけでなく、主君をふくむお家の安泰のために尽くすことだったから、たとえ主君の命令でも間違っていると思ったときは、どこまでも間違いを正そうとするのが忠義の道であるとされた。

のちになって幕末に日本が外国の圧力にさらされたとき、武士がもっていた忠義の観念は藩の枠を超えて日本を守るという責任の意識と共通する面もあった。このような、公のために働くという理念が新しい時代を用意したともいえる。

5.欧米勢力の圧力

18世紀の末頃から日本の周辺に欧米諸国の船が出没するようになった。

たとえば、寛政4(1792)年にロシア使節ラックスマンがやってきて通商を求めたが、幕府が拒絶すると、樺太や択捉(エトロフ)島にある日本の拠点を襲撃したのでロシアに対する警戒感が高まった。

また、清が英国からのアヘン輸入を禁止すると、英国は1840年に軍艦を派遣して戦争をしかけ、清を屈服させて半ば植民地同然に扱うようになった。

この情報は日本にもたらされて大きな衝撃を与えた。

外からの圧力から国を守るために武士たちの忠義の対象も、藩から国家全体へと拡大していった。

これが尊皇攘夷運動となっていく。

地方分権的な幕藩体制を改めて、皇室を中心とした強力な統一国家を作り、欧米勢力の侵略を打ち払おう、というもの。

ペリーが来航し開国を要求してから、わずか15年後に徳川幕府は滅亡した。

朝鮮の李朝は、欧米列強が押し寄せてきてからも44年続いたし、清朝は72年もたおれなかった。

これらに比較すると日本の徳川幕府は、非常に短い期間で薩摩藩や長州藩などの勢力によってたおされたことになる。

これはどうして?

李朝や清朝では、試験制度によって全国の優秀な人材が中央に集められた。

皇帝や国王が強大な力を持つ反面、地方の対抗勢力は弱かった。

これに対し日本では、各地の藩で多くの人材が養成された。これはのちに幕府をたおす強い原動力となった。

また、日本には皇室という制度があり全国の武士は、究極的には天皇に仕える立場だった。

皇室には政治の実権 はなかったが権威の象徴であり続けた。

そのため、列強の圧力が高まると幕府の権威はおとろえたが幕府にかわって、あらためて皇室を日本の統合の中心とすることで政権の移動がスムーズに行われた。

各地に「忠義」の観念を持つ武士たちがいたからこそ、幕藩体制から近代統一国家への大転換が一挙に進んだ。

6.廃藩置県

新政府はスタートしたものの、いまだ実態は諸藩の連合体であり実質的な統一が急務であった。

1871(明治4)年、大久保利通ら新政府の指導者たちは、全国の藩を一挙に廃止する改革についてひそかに相談を始めた。

そして薩摩・長州・土佐の3藩から集められた天皇直属の約1万の御親兵を背景に、7月、東京に滞在していた元藩主たちを皇居(もとの江戸城)に集め、天皇の名において廃藩置県の布告をいい渡した。

廃藩置県は、分権的な制度である藩を廃止し、中央集権制のもとでの地方組織である県を置くことであり、藩に残されていた軍事と徴税の権限も新政府のものとなった。

新政府は藩の反乱を恐れていたが予想に反して、大きな混乱は起こらなかった。藩を廃止することは武士たちが失業する事を意味していた。その俸禄も、しばらく新政府が肩代わりして給付した後に廃止された。

7.四民平等と徴兵令

次の段階は、武士階級そのものを否定し農民や町人と同じ「国民」にする事だった。

いっぽう政府は、四民平等をかかげ、人々を平等な権利と義務をもった国民にまとめあげていった。まず従来の身分制度を廃止し、藩主と公家を華族、武士を士族、百姓や町民を平民とした。

そして平民も名字をつけることを許し、すべての人の職業選択、結婚、居住、旅行の自由を保障した。

明治政府は武士階級をなくし、その国防の役割を全国民が担うようにした。

1873(明治6)年には徴兵令が公布された。20歳に達した男子は、士族・平民の区別なく、すべて兵役に服することになった。

徴兵令は西洋の制度を取り入れて四民平等の考えにもとづく国民軍をつくる改革だった。

江戸時代までは、武器を帯びて戦うのは武士に限られていたが、これは武士の名誉であり特権でもあった。

国民に平等な義務を課す徴兵制は、士族からは特権を奪うものとして反発を買い、平民からは一家の労働力を提供する負担が苦痛であるとして初期のころはいろいろな不安を生んだ。

武士の俸禄をなくしても大きな混乱は起こらなかったが、公のために戦う「特権」を奪われることは反発を招いたという点に、当時の武士たちの誇りを見ることができる。

階級としての武士は消滅したが、その武士道は国民全体に広がった。日露戦争はまさに国民全体が、自らの国を守るために立ち上がった戦いであった。

8.「日本の真の再生を促す力」

このような国民国家の建設に中心的な役割を果たした一人が伊藤博文であり幕末の長州藩で、武士よりも身分の低い足軽の子として育ったが、吉田松陰の松下村塾で学んだ。

生前の彼が語った言葉に、次のようなものがある。

「酒を飲んで遊んでいるときでも、私の頭から終始、国家の2字がはなれたことはない。私は子孫のことや家のことを考えたことがない。いついかなる場合でも、国家のことばかりだ」

伊藤の活躍を支えたのは、まさにこの「国を思う心」だった。

この「国を思う心」こそ、武士道の「忠義」である。こうしてひたすらに「国を思う」武士たちが西洋諸国の圧力を前に、国内体制の一挙変革を図り近代国民国家を建設して、国の独立を守った。

これが明治維新の本質であることを、『新しい歴史教科書』は明確に描き出している。

この歴史教科書を全文収録した『日本人の歴史教科書』に櫻井よしこ氏は『日本文明の支柱としての武士道』という一文を寄せ、こう説いている。

幻ででもあるかのように、信じがたくも美しく純粋な価値観であった武士道を、数百年にわたって作り上げ守ってきたのが私たちの国だ。この貴重な歴史の支柱を現代に蘇らせることが唯一、日本の真の再生を促す力となるであろう。

冒頭のモーリス・パンゲ氏の「武士たちの望みは、日本という国の力をよびさますこことだったのです」という言葉を紹介したが、その武士道が、現代においても「日本の真の再生を促す力となる」というのである。歴史を学ぶとは、こういう力を蘇らせることであろう。

■参考■

1. 「日本人の歴史教科書」編集委員会 (編集) 『日本人の歴史教科書』自由社、H21(『新編 新しい歴史教科書』を全文収録)

2. 桑原武夫編集『世界の歴史10、フランス革命とナポレオン』、中公文庫、S50