石原莞爾の名言
大東亜戦争中、東條首相の批判をし、戦争の非協力者とされた石原莞爾中将は、参謀本部を追われて、京都師団長に出され、それでも東條英機に対して、批判の言を止めなかったが故に、中将の職も解かれ、止むなく、親友の住む山形県鶴岡に隠棲した。敗戦直後、病の為、逓信病院(東京お茶の水)に入院していた。
突然、米軍幹部が、尋問する為、彼の病床に訪れた。
米軍人は問う。
「今回の戦争で、世界一の犯罪人は誰だ」。
「トルーマンだ」と答えた石原に、
「トルーマンとは誰だ」
「お前の国の大統領だ」
まさか、米軍人はこんな返事は予期していなかった。
東條英機に敵視され、軍籍まで剥奪され、開戦と敗戦の責任を負うべき石原に「東條こそ世界一の犯罪人」と言うことを米兵は期待して来たのに。
なぜだ、との問いに、石原は一枚のチラシを示した。
昭和二十年六月、ルーズベルト大統領の死に伴って、副大統領トルーマンが後を継いだ。
その直後に、米軍が、東京の上空から撒いた。
そのチラシには、「女、子供といえども、戦争に協力するものは爆殺する」と書いてある。
これは国際法違反で、国民が国家の為に協力するのは当たり前である。
米軍人は、「あのチラシは脅しだ」と弁明した。
「何が脅しだ、東京は焼野原となり、十万人が死んでいるぞ、広島や長崎に原爆を落とした鬼畜が脅しか」
「こんな野蛮な国と戦った日本が恥ずかしい」と、石原の声は静かなうめきとなった。
聞くに堪えない場面となった米軍人は、黙って立ち去りかけたとき、
「コラ待て、米軍が日本を戦争犯罪者として裁くと云う。それは満州侵略から始まると云っていた。満州国は俺が造ったのだ。それなのに、なぜ俺を裁判に呼ばないのだ。俺に、本当のことを述べられることが、そんなに恐いのか」と怒鳴り返した。
多くの指導者が、戦犯と呼ばれることを恐れている時、石原は
「俺をなぜ戦犯として呼ばないのだ」と叫ぶ、これが本当の軍人ではないか?
「日本に圧力をかけて開国させたペリーと原爆投下を命じたトルーマンこそがA級戦犯」だと発言したり、
イギリスの検事が、「石原が軍内の人間関係を知らない、明日までに思いだせ」と証言したとき、
「無礼なことを言うな。知らないと忘れたとは意味が違うんだ」
とどなり返し、その検事が這々の態で帰ったとのエピソードやら…
この国は思想も理念もない権力主義者に支配されていたのであり、なんらかの意見や理念をもっている者はすべて抑圧されていた。
石原莞爾といえば我々 戦後教育を受けた世代にはイコール満州国、ないし満州事変というイメージがある。彼が中心となって作ったその満州国は国際連盟のリットン調査団によって存在そのものが否定され、さらに大東亜戦争末期にソ連が日ソ不可侵条約を破って満州に侵入してきて民間人に多数の犠牲者が出たことなどから戦後のイメージはよくない。
そのイメージのよくない満州国を作った男として石原莞爾のイメージもまたよくはない。石原莞爾の名は戦後評判の悪い関東軍の汚名とともに何となく大東亜戦争の悪の代表のような存在になってしまっている。
しかしながら彼の生涯などをいろいろ見ていくと石原莞爾という男はむしろ大東亜戦争に反対した徹底した平和主義者であったことがわかる。
満州国を建国したのも決して中国への侵略を目的としたものではなかった。そこに五族共栄(日、満、漢、朝鮮、モンゴル族)の独立国を作ることによりソ連の防波堤にしようとしただけである。
日露戦争後のポーツマス条約により日本は北満州からのソ連の影響を排除することには失敗した。石原は満州国という独立国をそこに作ることによりソ連との緩衝地帯を作りたかった。彼としては日露戦争後に日本がやり残した国防の一部を自らの手でやりたかったのであろう。
現在の日本の教科書では「石原らの謀略により満州事変が起こり、満州国が建国された」という感じで石原の業績がむしろマイナスのイメージで語られることが多いが、これを一つのプロジェクトと考えると彼が行ったことは凄いと言わざるを得ない。何せ一つの国をほとんど彼の主導で作ってしまったから!
(現代の我々は家一軒を持つだけでも、きゅうきゅうとしている)
石原という男は組織の一員として働くことには向かなかったのであろうが、プロジェクトリーダーとしては類稀なる資質を持っていた。
私は石原が満州国を建国したこと自体は歴史上、誤りではなかったと思っている。明治から昭和にかけての人たちのロシア(ソ連)への恐怖は現在の北朝鮮の脅威よりもはるかに大きかった。それを取り除くために行ったはずの日露戦争にしても結局はあれだけの血を流しながら、世界情勢とのからみからロシアの勢力を満州全体から追い出すまでには至らなかった。
従ってどうしても満州のあの地に緩衝地帯(ロシアからの防波堤)を作りたい、という思いは当時の日本人の共通したものであったと思う。
本当は日露戦争後、日本が取得した満鉄を買収しにきた米国人の鉄道王ハリマンにさっさと満州なんか売っぱらってしまったらよかった。そうすれば満州の防衛は必然的に米国が担当したであろうし、賠償金代わりの多額の資金が日本の手に入ったであろう。
それにソ連の脅威よりは米国の傘に入っていた方が遥かにましであった。井上馨ら元老はそう考えてハリマンと交渉していたが、小村寿太郎はそれでは日露戦争の英霊にすまない、といってハリマンの提案を拒否。それがまた日米関係悪化の原因の一つであったことは否めない。
さらに経済の面から考えても、当時の日本としては満州国は必要であった。昭和の初期当時は日本への原料供給地として、あるいは輸出製品の市場として満州は不可欠であった。
(満蒙は日本の生命線と言った松岡洋右の言葉はあながち嘘ではない)
当時は第一次大戦後で世界経済はブロック化し、世界貿易が縮小していたために、後発国で植民地の少なかった日本は世界市場から締め出されていた。したがって欧米列強の手が届いていない海外市場の確保が至上命題であった。
もしハリマンが満鉄を買収し、満州が米国の支配下となっていれば平和裡での貿易という形になっていたであろうが、如何せん小村がそれを拒否してしまったために満州は”無主の地”のままであった。
(当時満州は軍閥の手にあり、まだ中国政府の主権がおよんでいない。また歴史的にも満州の地を漢民族が支配していたことはない。したがって現在のように満州を中国領土の一部として考えると当時の日本の立場は理解できない。)
したがって石原がこの地に満州国を建てたのはある意味で歴史の必然であったと言ってよかろう。
日本は満州国と対等な関係で自由貿易を営むことにより必要な資源などを確保し、輸出市場なども確保できたはずだからである。
しかしながら、やり方がまずかった。さらに五族協栄で政治を行うはずが日本の官僚がいいポストを独占してしまった。後者は石原のせいではないにしても建国するのに謀略を使ったのはなんとしてもまずかった。
(だから”満州事変”などと後年呼ばれるよになり、後の日華事変と同列に扱われるようになってしまった。この両事変はその性格がまったく異なるものであるにも関わらず)
無論当時の情勢としてはああしたやり方しかなかったのかもしれないが、結局彼の取った強引な謀略を彼の後輩(武藤章ら)が真似をして日華事変を引き起こした。
(石原の後任の作戦課長となった武藤章が石原に「私は貴方の真似をしただけですよ」と言い、さすがの石原も何も言えなかったのは有名な話)
石原自体は中国を侵略して行くつもりは全くなく、無主の地である満州に五族共栄のソ連防波堤政権ができれば国防面からも経済面からもよい、と考えていたが、関東軍全体としては石原がいとも簡単に満州を取ってしまったのでもっと組織だってやれば中国全体をその支配下に治めるのもそう困難ではないだろう、と少し色気を出し過ぎた。
もしも当時の中国情勢が石原莞爾の思惑通り進行していればどうなっていただのか?
おそらく日本は日中戦争の泥沼に入り込むことはなかったであろうし、リットン調査団にその存在を否定された満州国も、うまく運用されていれば、いずれは国際社会からは承認されたものと思う。
そうすればソ連との緊張は続いたかもしれないが、少なくとも日米関係はあれほど悪くなることはなかった。
(日米関係は日本が日中戦争を始めてその足かせとなっていた援蒋ルートを断ち切る必要から仏印に侵攻し、米国から石油禁輸を受けた時から後戻りのできない関係になっていった。)
こうしてみると石原莞爾という人は当時の日本を少しでもよい方向へ引っ張って行けるだけのビジョンを持っていたといえる。
もし彼に明治の伊藤博文の半分ほどの政治力でもあれば、あるいは彼を使いこなせるだけの力量のある政治家がいれば、日本が無謀な戦争につっこみ、あんな無様な負け方をすることはなかったかもしれない。
周知の如く、石原莞爾は相手が誰であろうと歯に衣きせぬ発言を繰り返し(しかしそれらの発言はいずれも至当なものである)、時の権力者東条英機までぼろくそに言って結局左遷され、大東亜戦争の最中に予備役に編入されてしまった。戦争の最中でも彼はいろいろな発言をしているが、今から見ればそれは実に的をついたものが多い。
たとえば海軍がラパウルからガダルカナル島へと進出していったときなどは攻勢終末点を超えている、危険だ、などときびしく批判しているし、そもそも大東亜戦争が始まった段階からして「この戦争は負ける」と喝破している。
当時の日本もこの石原の天才をうまく使えばもう少しましな針路を取れたであろう。
明治期、日本は秋山好古・真之の天才をフルに生かし、日露戦争における奉天会戦、日本海海戦を乗り切った。それは彼らの天才を使いこなせる偉大なる軍人、政治家が彼らの上にいたからである。悲しき哉、昭和の石原の時代、明治期の伊藤博文のような大政治家はおらず、陸軍はトップに宮様や無能が座りつづけ、下克上となっていたために彼の才能を使い切る上司がいなかった。
(満州事変時の板垣征四郎がそれに当たるかもしれないが、板垣は結局石原に利用されただけ)
現代では旧陸軍の下克上の代表のようにされている評判の悪い石原莞爾であるが、その志は決して日本を破滅させようなどというものではなかった。
もっともこう言ったら当時の関東軍全体からも「自分達は日本のために日華事変を起こしたのだ、決して日本を破滅させようとして行ったものではない」といった反論が出そうであるが、彼らと石原との違いは明確なビジョンがあったかどうかである。
関東軍ははっきりしたビジョンもなく、とにかく行け行けドンドンで中国の奥地へと兵を進めていった。それに対して石原の場合には最低限の暴力を用いて必要最小限の領土を確保しようとした。今から見てもその考えはきわめて合理的である。
石原莞爾は現在でも一部でその強烈な支持者がいるようであるが、日本全体からはどちらかというと石原オタクのような感じでしか見られていないような気がする。しかしもっと客観的に見ても、やはり…
石原莞爾という人は、単なる侵略主義者と捉えるのではなく、国家建設のプロジェクトリーダーとして、あるいは国家のプランナーとして、その能力が再評価されていくことを望みたい
大東亜戦争中、東條首相の批判をし、戦争の非協力者とされた石原莞爾中将は、参謀本部を追われて、京都師団長に出され、それでも東條英機に対して、批判の言を止めなかったが故に、中将の職も解かれ、止むなく、親友の住む山形県鶴岡に隠棲した。敗戦直後、病の為、逓信病院(東京お茶の水)に入院していた。
突然、米軍幹部が、尋問する為、彼の病床に訪れた。
米軍人は問う。
「今回の戦争で、世界一の犯罪人は誰だ」。
「トルーマンだ」と答えた石原に、
「トルーマンとは誰だ」
「お前の国の大統領だ」
まさか、米軍人はこんな返事は予期していなかった。
東條英機に敵視され、軍籍まで剥奪され、開戦と敗戦の責任を負うべき石原に「東條こそ世界一の犯罪人」と言うことを米兵は期待して来たのに。
なぜだ、との問いに、石原は一枚のチラシを示した。
昭和二十年六月、ルーズベルト大統領の死に伴って、副大統領トルーマンが後を継いだ。
その直後に、米軍が、東京の上空から撒いた。
そのチラシには、「女、子供といえども、戦争に協力するものは爆殺する」と書いてある。
これは国際法違反で、国民が国家の為に協力するのは当たり前である。
米軍人は、「あのチラシは脅しだ」と弁明した。
「何が脅しだ、東京は焼野原となり、十万人が死んでいるぞ、広島や長崎に原爆を落とした鬼畜が脅しか」
「こんな野蛮な国と戦った日本が恥ずかしい」と、石原の声は静かなうめきとなった。
聞くに堪えない場面となった米軍人は、黙って立ち去りかけたとき、
「コラ待て、米軍が日本を戦争犯罪者として裁くと云う。それは満州侵略から始まると云っていた。満州国は俺が造ったのだ。それなのに、なぜ俺を裁判に呼ばないのだ。俺に、本当のことを述べられることが、そんなに恐いのか」と怒鳴り返した。
多くの指導者が、戦犯と呼ばれることを恐れている時、石原は
「俺をなぜ戦犯として呼ばないのだ」と叫ぶ、これが本当の軍人ではないか?
「日本に圧力をかけて開国させたペリーと原爆投下を命じたトルーマンこそがA級戦犯」だと発言したり、
イギリスの検事が、「石原が軍内の人間関係を知らない、明日までに思いだせ」と証言したとき、
「無礼なことを言うな。知らないと忘れたとは意味が違うんだ」
とどなり返し、その検事が這々の態で帰ったとのエピソードやら…
この国は思想も理念もない権力主義者に支配されていたのであり、なんらかの意見や理念をもっている者はすべて抑圧されていた。
石原莞爾といえば我々 戦後教育を受けた世代にはイコール満州国、ないし満州事変というイメージがある。彼が中心となって作ったその満州国は国際連盟のリットン調査団によって存在そのものが否定され、さらに大東亜戦争末期にソ連が日ソ不可侵条約を破って満州に侵入してきて民間人に多数の犠牲者が出たことなどから戦後のイメージはよくない。
そのイメージのよくない満州国を作った男として石原莞爾のイメージもまたよくはない。石原莞爾の名は戦後評判の悪い関東軍の汚名とともに何となく大東亜戦争の悪の代表のような存在になってしまっている。
しかしながら彼の生涯などをいろいろ見ていくと石原莞爾という男はむしろ大東亜戦争に反対した徹底した平和主義者であったことがわかる。
満州国を建国したのも決して中国への侵略を目的としたものではなかった。そこに五族共栄(日、満、漢、朝鮮、モンゴル族)の独立国を作ることによりソ連の防波堤にしようとしただけである。
日露戦争後のポーツマス条約により日本は北満州からのソ連の影響を排除することには失敗した。石原は満州国という独立国をそこに作ることによりソ連との緩衝地帯を作りたかった。彼としては日露戦争後に日本がやり残した国防の一部を自らの手でやりたかったのであろう。
現在の日本の教科書では「石原らの謀略により満州事変が起こり、満州国が建国された」という感じで石原の業績がむしろマイナスのイメージで語られることが多いが、これを一つのプロジェクトと考えると彼が行ったことは凄いと言わざるを得ない。何せ一つの国をほとんど彼の主導で作ってしまったから!
(現代の我々は家一軒を持つだけでも、きゅうきゅうとしている)
石原という男は組織の一員として働くことには向かなかったのであろうが、プロジェクトリーダーとしては類稀なる資質を持っていた。
私は石原が満州国を建国したこと自体は歴史上、誤りではなかったと思っている。明治から昭和にかけての人たちのロシア(ソ連)への恐怖は現在の北朝鮮の脅威よりもはるかに大きかった。それを取り除くために行ったはずの日露戦争にしても結局はあれだけの血を流しながら、世界情勢とのからみからロシアの勢力を満州全体から追い出すまでには至らなかった。
従ってどうしても満州のあの地に緩衝地帯(ロシアからの防波堤)を作りたい、という思いは当時の日本人の共通したものであったと思う。
本当は日露戦争後、日本が取得した満鉄を買収しにきた米国人の鉄道王ハリマンにさっさと満州なんか売っぱらってしまったらよかった。そうすれば満州の防衛は必然的に米国が担当したであろうし、賠償金代わりの多額の資金が日本の手に入ったであろう。
それにソ連の脅威よりは米国の傘に入っていた方が遥かにましであった。井上馨ら元老はそう考えてハリマンと交渉していたが、小村寿太郎はそれでは日露戦争の英霊にすまない、といってハリマンの提案を拒否。それがまた日米関係悪化の原因の一つであったことは否めない。
さらに経済の面から考えても、当時の日本としては満州国は必要であった。昭和の初期当時は日本への原料供給地として、あるいは輸出製品の市場として満州は不可欠であった。
(満蒙は日本の生命線と言った松岡洋右の言葉はあながち嘘ではない)
当時は第一次大戦後で世界経済はブロック化し、世界貿易が縮小していたために、後発国で植民地の少なかった日本は世界市場から締め出されていた。したがって欧米列強の手が届いていない海外市場の確保が至上命題であった。
もしハリマンが満鉄を買収し、満州が米国の支配下となっていれば平和裡での貿易という形になっていたであろうが、如何せん小村がそれを拒否してしまったために満州は”無主の地”のままであった。
(当時満州は軍閥の手にあり、まだ中国政府の主権がおよんでいない。また歴史的にも満州の地を漢民族が支配していたことはない。したがって現在のように満州を中国領土の一部として考えると当時の日本の立場は理解できない。)
したがって石原がこの地に満州国を建てたのはある意味で歴史の必然であったと言ってよかろう。
日本は満州国と対等な関係で自由貿易を営むことにより必要な資源などを確保し、輸出市場なども確保できたはずだからである。
しかしながら、やり方がまずかった。さらに五族協栄で政治を行うはずが日本の官僚がいいポストを独占してしまった。後者は石原のせいではないにしても建国するのに謀略を使ったのはなんとしてもまずかった。
(だから”満州事変”などと後年呼ばれるよになり、後の日華事変と同列に扱われるようになってしまった。この両事変はその性格がまったく異なるものであるにも関わらず)
無論当時の情勢としてはああしたやり方しかなかったのかもしれないが、結局彼の取った強引な謀略を彼の後輩(武藤章ら)が真似をして日華事変を引き起こした。
(石原の後任の作戦課長となった武藤章が石原に「私は貴方の真似をしただけですよ」と言い、さすがの石原も何も言えなかったのは有名な話)
石原自体は中国を侵略して行くつもりは全くなく、無主の地である満州に五族共栄のソ連防波堤政権ができれば国防面からも経済面からもよい、と考えていたが、関東軍全体としては石原がいとも簡単に満州を取ってしまったのでもっと組織だってやれば中国全体をその支配下に治めるのもそう困難ではないだろう、と少し色気を出し過ぎた。
もしも当時の中国情勢が石原莞爾の思惑通り進行していればどうなっていただのか?
おそらく日本は日中戦争の泥沼に入り込むことはなかったであろうし、リットン調査団にその存在を否定された満州国も、うまく運用されていれば、いずれは国際社会からは承認されたものと思う。
そうすればソ連との緊張は続いたかもしれないが、少なくとも日米関係はあれほど悪くなることはなかった。
(日米関係は日本が日中戦争を始めてその足かせとなっていた援蒋ルートを断ち切る必要から仏印に侵攻し、米国から石油禁輸を受けた時から後戻りのできない関係になっていった。)
こうしてみると石原莞爾という人は当時の日本を少しでもよい方向へ引っ張って行けるだけのビジョンを持っていたといえる。
もし彼に明治の伊藤博文の半分ほどの政治力でもあれば、あるいは彼を使いこなせるだけの力量のある政治家がいれば、日本が無謀な戦争につっこみ、あんな無様な負け方をすることはなかったかもしれない。
周知の如く、石原莞爾は相手が誰であろうと歯に衣きせぬ発言を繰り返し(しかしそれらの発言はいずれも至当なものである)、時の権力者東条英機までぼろくそに言って結局左遷され、大東亜戦争の最中に予備役に編入されてしまった。戦争の最中でも彼はいろいろな発言をしているが、今から見ればそれは実に的をついたものが多い。
たとえば海軍がラパウルからガダルカナル島へと進出していったときなどは攻勢終末点を超えている、危険だ、などときびしく批判しているし、そもそも大東亜戦争が始まった段階からして「この戦争は負ける」と喝破している。
当時の日本もこの石原の天才をうまく使えばもう少しましな針路を取れたであろう。
明治期、日本は秋山好古・真之の天才をフルに生かし、日露戦争における奉天会戦、日本海海戦を乗り切った。それは彼らの天才を使いこなせる偉大なる軍人、政治家が彼らの上にいたからである。悲しき哉、昭和の石原の時代、明治期の伊藤博文のような大政治家はおらず、陸軍はトップに宮様や無能が座りつづけ、下克上となっていたために彼の才能を使い切る上司がいなかった。
(満州事変時の板垣征四郎がそれに当たるかもしれないが、板垣は結局石原に利用されただけ)
現代では旧陸軍の下克上の代表のようにされている評判の悪い石原莞爾であるが、その志は決して日本を破滅させようなどというものではなかった。
もっともこう言ったら当時の関東軍全体からも「自分達は日本のために日華事変を起こしたのだ、決して日本を破滅させようとして行ったものではない」といった反論が出そうであるが、彼らと石原との違いは明確なビジョンがあったかどうかである。
関東軍ははっきりしたビジョンもなく、とにかく行け行けドンドンで中国の奥地へと兵を進めていった。それに対して石原の場合には最低限の暴力を用いて必要最小限の領土を確保しようとした。今から見てもその考えはきわめて合理的である。
石原莞爾は現在でも一部でその強烈な支持者がいるようであるが、日本全体からはどちらかというと石原オタクのような感じでしか見られていないような気がする。しかしもっと客観的に見ても、やはり…
石原莞爾という人は、単なる侵略主義者と捉えるのではなく、国家建設のプロジェクトリーダーとして、あるいは国家のプランナーとして、その能力が再評価されていくことを望みたい