1.日本軍が『集団自決』を強要?
「沖縄戦において日本軍が住民に集団自決を強要した」との「説」に関して、裁判が行われていた。この「説」は高校や中学の教科書にも登場する。
犠牲者のなかには慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本軍によって『集団自決』を強要された住民や虐殺された住民も含まれており…(三省堂の高校日本史A)
軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した(日本書籍新社の中学社会)
裁判というのは、集団自決が起こったとされる座間味島の守備隊長だった梅澤裕・元少佐と、渡嘉敷村の守備隊長だった故・赤松嘉次元大尉の弟・赤松秀一さんが原告となり、『沖縄ノート』などで長らくこの説を流布してきた大江健三郎氏と岩波書店に対して、出版停止と謝罪広告、慰謝料2千万円を求めたものだ。
2.遺族援護のために「命令を出したことにしてほしい」
判決は、この「説」が事実でないことを示す決定的な証言がすでに出ている。
第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。
当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。
同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。
村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。
照屋さんは「嘘をつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。
3.「全島民、自決せよ」
「自決命令神話」を最初に世に広めたのは、昭和25年8月に沖縄タイムス社から出版された『鉄の暴風』である。
この本では、当時の状況を次のように描写している。
昭和20年3月26日、米軍の一部が渡嘉敷島の海岸数カ所から上陸を始めた。赤松大尉率いる守備軍は、渡嘉敷島の西北端の西山A高地に移動した。
移動完了とともに、赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し、『住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ』と命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として、『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』ということも駐在巡査から伝えられた。
住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るべからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。
二十八日には、恩納河原付近に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。
『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。
住民には自決用として32発の手榴弾が渡されていたが、この時さらに20発増加された。住民たちは各親族どうしが一塊 になって、その中心で手榴弾を爆発させた。
手榴弾はあちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして----男、女、老人、 子供、嬰児----の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい情景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納河原の谷水は、ために血にそまっていた。
4.「最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」
作家の曽野綾子氏は渡嘉敷島に渡り、当時の状況を直接見聞した人たちの証言を丹念に集めた。
上の引用で、赤松大尉から自決命令を伝えたとされる「島の駐在巡査」安里喜順氏は、赤松大尉に部落民をどうするか相談にいった時のことをこう語っている。
そうしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。
しかし今は、砲煙弾雨の中で、部隊も今から陣地構築するところだし、何が何だかわからないまま、せっぱつまった緊急事態のときですから、そうとしか処置できなかったわけです。
『鉄の暴風』が言うような安全な「壕」など存在しなかった。
部隊は米軍の「砲煙弾雨」の下で、穴一つなく「今から陣地構築する」という状況だったのである。
そんな状態の部隊に、住民が混じれば、一緒に攻撃を受けるので、かえって危険である。少なくとも住民が部隊と離れて避難していれば、米軍が非戦闘員への攻撃を禁じた戦時国際法に従う限りは、かえって安全だ。
赤松大尉の判断は軍人として適切だった。
恩納河原には、住民達がいざという場合のために作った避難小屋があった。住民たちはそこに逃げ込んだ。しかし皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群集心理で半狂乱になっていますからね。恐怖にかられて…この戦争に遭った人でないと、(この恐怖は)わからんでしょう。
その混乱の中で悲劇は起こった。
5.「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」
曽野氏が赤松元大尉に、「自決命令は出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が 死ねと言われたのだと思っても仕方ありませんね」と問うと、赤松・元大尉はこう答えた。
手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵部隊に招集された地元民の成年男子)には、これは正規軍ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。
艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います。
村民達が自決を始めたなかに4人の女性がいた。手榴弾が不発で死ねなかったので(多くの村民は手榴弾の扱い方を知らなかった)、「敵に突っ込もう」と、4人は部隊の本部に行った。
彼女たちは曽野氏にこう語っている。
A 私は行ったわけですよ、本部に。赤松隊長に会いに。
B 本部のとこに、突っ込みに行ったから「何であんた方、早まったことをしたなあ」
C 「誰が命令したねえ」
D 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」と言った。
これが集団自決を知った赤松隊長の反応であった。4人はこの赤松隊長の言葉で気を取り直し、米軍の砲撃下を他の人びととともに避難して、無事生き延びたのである。
6.「何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい」
曽野氏が当時の多くの体験者から集めた証言から浮かび上がってくる赤松隊長像は、『鉄の暴風』に描かれた全住民に自決命令を下す悪魔的な人物とはほど遠い。
古波蔵・元村長はこう語っている。
(事件から)一週間経って軍陣地から恩納河原へ帰った時は状況は安定していました。その頃からもう、衛生兵が来ましてね。いろいろ治療もしてくれました。
治療をした若山・元衛生軍曹は、それを赤松隊長と軍医からの命令であった、と断言している。
また女子青年団長だった古波蔵蓉子さんの証言では:私は(終戦間近の)7月12日に、赤松さんのところへ斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことあるんですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、怒られて、何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさいと言って戻された。
この古波蔵蓉子さんたちも、衛生兵が治療した人々も、そして前節の4人の女性も、赤松大尉によって救われた人々である。
こうした証言を読めば、赤松大尉は自決命令どころか、地元住民たちになんとか戦火の下で生き延びて貰いたいと、心底から願っていた事が判る。
それにしても『鉄の暴風』は何を根拠に、いかにも見てきたように正反対の赤松大尉像を描いたのか。
曽根氏は著者の太田良弘氏に会って、太田氏は渡嘉敷島に行っていないこと、証言者二人に那覇まで来て貰って取材した事を聞き出している。
この二人は渡嘉敷島の隣の座間味という島の助役と南方からの帰還兵であった。助役の方は座間味での集団自決は目撃していたが、渡嘉敷島での事件は、人から聞いたのみであった。また帰還兵は、事件当時まだ南方におり、当然、事件を直接目撃していない。
太田良弘氏はこの二人が周囲から聞き込んだ内容を又聞きして、想像を膨らませて、この「文学作品」を書いたのである。
7.「もし本当のことを言ったらどうなるのか」
昭和45年3月26日、赤松元大尉と生き残りの旧軍人、遺族十数名が、渡嘉敷島で行われる「25周年忌慰霊祭」に出席しようと那覇空港に降り立った。
空港エプロンには「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者、赤松来県反対」の横断幕が張り出され、「赤松帰れ! 人殺し帰れ!」とのシュプレヒコールがあがった。「何しに来たんだよ!」と激高した人々に取り囲まれて、直立不動の赤松元大尉は「25年になり、英霊をとむらいに来ました」と答えた。
結局、赤松元大尉は渡嘉敷島に渡るのを自粛したが、部下達は慰霊祭に参加し、地元の人々と手を取り合って往事を偲んだ。
那覇から大阪に帰る前の晩、記者会見が開かれた。その席で赤松・元大尉の責任を問う記者たちに、部下の一人はこう言った。
責任というが、もし本当のことを言ったらどうなるのか。
大変なことになるんですヨ…いろいろな人に迷惑がかかるんだ。言えない。
冒頭で紹介したように、赤松元大尉が「遺族が援護を受けられるよう、自決命令を出したことにして欲しい」と依頼されて同意した事実が明らかにされたが、赤松元大尉が真相を語らなかったのは、それによって援護を受け取った遺族たちに迷惑がかかるからだった。
遺族たちのために、赤松大尉は「住民自決命令を出した悪魔のような軍人」という濡れ衣を着せられながら、戦後ずっと弁明もせずに過ごしてきたのだった。
8.「悪意の幻想」と闘う裁判
赤松・元大尉が「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」と語っていたという新聞記事を読んで、大江健三郎は『沖縄ノート』にこう書いている。
人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力を尽くす。
このようなエゴサントリック(自己中心的)な希求につらぬかれた幻想にはとどめがない。「おりがきたら」、かれはそのような時を待ち受け、そしていまこそ、そのおりがきたとみなしたのだ。
さすがはノーベル賞作家である。新聞記事を読み、「おりがきたら」というたった一言から、自己弁護のために「過去の事実の改変に力を尽くす」「幻想にはとどめがない」人物として赤松・元大尉を描いて見せたのだった。しかし、「幻想にはとどめがない」のは大江氏自身である。
現地を訪れもせず、直接の体験者の話も聞かず、いかにも見てきたように赤松元大尉を悪魔的な人物として描いた『鉄の暴風』と、この大江氏の『沖縄ノート』は、赤松・元大尉を糾弾することによって、日本軍を、ひいては日本国家を貶めようとした「悪意の幻想」の産物なのである。
この「悪意の幻想」から、赤松元大尉と日本軍、そして日本国家全体の名誉を救い出すために、岩波書店と大江健三郎に対する裁判が行われた。
「沖縄戦において日本軍が住民に集団自決を強要した」との「説」に関して、裁判が行われていた。この「説」は高校や中学の教科書にも登場する。
犠牲者のなかには慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本軍によって『集団自決』を強要された住民や虐殺された住民も含まれており…(三省堂の高校日本史A)
軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した(日本書籍新社の中学社会)
裁判というのは、集団自決が起こったとされる座間味島の守備隊長だった梅澤裕・元少佐と、渡嘉敷村の守備隊長だった故・赤松嘉次元大尉の弟・赤松秀一さんが原告となり、『沖縄ノート』などで長らくこの説を流布してきた大江健三郎氏と岩波書店に対して、出版停止と謝罪広告、慰謝料2千万円を求めたものだ。
2.遺族援護のために「命令を出したことにしてほしい」
判決は、この「説」が事実でないことを示す決定的な証言がすでに出ている。
第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。
当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。
同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。
村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。
照屋さんは「嘘をつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。
3.「全島民、自決せよ」
「自決命令神話」を最初に世に広めたのは、昭和25年8月に沖縄タイムス社から出版された『鉄の暴風』である。
この本では、当時の状況を次のように描写している。
昭和20年3月26日、米軍の一部が渡嘉敷島の海岸数カ所から上陸を始めた。赤松大尉率いる守備軍は、渡嘉敷島の西北端の西山A高地に移動した。
移動完了とともに、赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し、『住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ』と命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として、『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』ということも駐在巡査から伝えられた。
住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るべからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。
二十八日には、恩納河原付近に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。
『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。
住民には自決用として32発の手榴弾が渡されていたが、この時さらに20発増加された。住民たちは各親族どうしが一塊 になって、その中心で手榴弾を爆発させた。
手榴弾はあちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして----男、女、老人、 子供、嬰児----の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい情景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納河原の谷水は、ために血にそまっていた。
4.「最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」
作家の曽野綾子氏は渡嘉敷島に渡り、当時の状況を直接見聞した人たちの証言を丹念に集めた。
上の引用で、赤松大尉から自決命令を伝えたとされる「島の駐在巡査」安里喜順氏は、赤松大尉に部落民をどうするか相談にいった時のことをこう語っている。
そうしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。
しかし今は、砲煙弾雨の中で、部隊も今から陣地構築するところだし、何が何だかわからないまま、せっぱつまった緊急事態のときですから、そうとしか処置できなかったわけです。
『鉄の暴風』が言うような安全な「壕」など存在しなかった。
部隊は米軍の「砲煙弾雨」の下で、穴一つなく「今から陣地構築する」という状況だったのである。
そんな状態の部隊に、住民が混じれば、一緒に攻撃を受けるので、かえって危険である。少なくとも住民が部隊と離れて避難していれば、米軍が非戦闘員への攻撃を禁じた戦時国際法に従う限りは、かえって安全だ。
赤松大尉の判断は軍人として適切だった。
恩納河原には、住民達がいざという場合のために作った避難小屋があった。住民たちはそこに逃げ込んだ。しかし皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群集心理で半狂乱になっていますからね。恐怖にかられて…この戦争に遭った人でないと、(この恐怖は)わからんでしょう。
その混乱の中で悲劇は起こった。
5.「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」
曽野氏が赤松元大尉に、「自決命令は出さないとおっしゃっても、手榴弾を一般の民間人にお配りになったとしたら、皆が 死ねと言われたのだと思っても仕方ありませんね」と問うと、赤松・元大尉はこう答えた。
手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵部隊に招集された地元民の成年男子)には、これは正規軍ですから一人一、二発ずつ渡しておりました。
艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います。
村民達が自決を始めたなかに4人の女性がいた。手榴弾が不発で死ねなかったので(多くの村民は手榴弾の扱い方を知らなかった)、「敵に突っ込もう」と、4人は部隊の本部に行った。
彼女たちは曽野氏にこう語っている。
A 私は行ったわけですよ、本部に。赤松隊長に会いに。
B 本部のとこに、突っ込みに行ったから「何であんた方、早まったことをしたなあ」
C 「誰が命令したねえ」
D 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」と言った。
これが集団自決を知った赤松隊長の反応であった。4人はこの赤松隊長の言葉で気を取り直し、米軍の砲撃下を他の人びととともに避難して、無事生き延びたのである。
6.「何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい」
曽野氏が当時の多くの体験者から集めた証言から浮かび上がってくる赤松隊長像は、『鉄の暴風』に描かれた全住民に自決命令を下す悪魔的な人物とはほど遠い。
古波蔵・元村長はこう語っている。
(事件から)一週間経って軍陣地から恩納河原へ帰った時は状況は安定していました。その頃からもう、衛生兵が来ましてね。いろいろ治療もしてくれました。
治療をした若山・元衛生軍曹は、それを赤松隊長と軍医からの命令であった、と断言している。
また女子青年団長だった古波蔵蓉子さんの証言では:私は(終戦間近の)7月12日に、赤松さんのところへ斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことあるんですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、怒られて、何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさいと言って戻された。
この古波蔵蓉子さんたちも、衛生兵が治療した人々も、そして前節の4人の女性も、赤松大尉によって救われた人々である。
こうした証言を読めば、赤松大尉は自決命令どころか、地元住民たちになんとか戦火の下で生き延びて貰いたいと、心底から願っていた事が判る。
それにしても『鉄の暴風』は何を根拠に、いかにも見てきたように正反対の赤松大尉像を描いたのか。
曽根氏は著者の太田良弘氏に会って、太田氏は渡嘉敷島に行っていないこと、証言者二人に那覇まで来て貰って取材した事を聞き出している。
この二人は渡嘉敷島の隣の座間味という島の助役と南方からの帰還兵であった。助役の方は座間味での集団自決は目撃していたが、渡嘉敷島での事件は、人から聞いたのみであった。また帰還兵は、事件当時まだ南方におり、当然、事件を直接目撃していない。
太田良弘氏はこの二人が周囲から聞き込んだ内容を又聞きして、想像を膨らませて、この「文学作品」を書いたのである。
7.「もし本当のことを言ったらどうなるのか」
昭和45年3月26日、赤松元大尉と生き残りの旧軍人、遺族十数名が、渡嘉敷島で行われる「25周年忌慰霊祭」に出席しようと那覇空港に降り立った。
空港エプロンには「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者、赤松来県反対」の横断幕が張り出され、「赤松帰れ! 人殺し帰れ!」とのシュプレヒコールがあがった。「何しに来たんだよ!」と激高した人々に取り囲まれて、直立不動の赤松元大尉は「25年になり、英霊をとむらいに来ました」と答えた。
結局、赤松元大尉は渡嘉敷島に渡るのを自粛したが、部下達は慰霊祭に参加し、地元の人々と手を取り合って往事を偲んだ。
那覇から大阪に帰る前の晩、記者会見が開かれた。その席で赤松・元大尉の責任を問う記者たちに、部下の一人はこう言った。
責任というが、もし本当のことを言ったらどうなるのか。
大変なことになるんですヨ…いろいろな人に迷惑がかかるんだ。言えない。
冒頭で紹介したように、赤松元大尉が「遺族が援護を受けられるよう、自決命令を出したことにして欲しい」と依頼されて同意した事実が明らかにされたが、赤松元大尉が真相を語らなかったのは、それによって援護を受け取った遺族たちに迷惑がかかるからだった。
遺族たちのために、赤松大尉は「住民自決命令を出した悪魔のような軍人」という濡れ衣を着せられながら、戦後ずっと弁明もせずに過ごしてきたのだった。
8.「悪意の幻想」と闘う裁判
赤松・元大尉が「おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい」と語っていたという新聞記事を読んで、大江健三郎は『沖縄ノート』にこう書いている。
人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力を尽くす。
このようなエゴサントリック(自己中心的)な希求につらぬかれた幻想にはとどめがない。「おりがきたら」、かれはそのような時を待ち受け、そしていまこそ、そのおりがきたとみなしたのだ。
さすがはノーベル賞作家である。新聞記事を読み、「おりがきたら」というたった一言から、自己弁護のために「過去の事実の改変に力を尽くす」「幻想にはとどめがない」人物として赤松・元大尉を描いて見せたのだった。しかし、「幻想にはとどめがない」のは大江氏自身である。
現地を訪れもせず、直接の体験者の話も聞かず、いかにも見てきたように赤松元大尉を悪魔的な人物として描いた『鉄の暴風』と、この大江氏の『沖縄ノート』は、赤松・元大尉を糾弾することによって、日本軍を、ひいては日本国家を貶めようとした「悪意の幻想」の産物なのである。
この「悪意の幻想」から、赤松元大尉と日本軍、そして日本国家全体の名誉を救い出すために、岩波書店と大江健三郎に対する裁判が行われた。