大西瀧治郎中将は神風特攻隊の創設者。

「日本は米国に勝つ事は出来ない。米国は絶対に戦争をやめない。だからハワイを奇襲攻撃すれば妥協の余地は全く失われる。最後の最後まで戦争をすれば日本は『無条件降伏』する事になる。だからハワイ奇襲は絶対にしてはいけない」

1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃の後も、大西中将は「真珠湾攻撃は失策」との考えを改める事はありませんでした。

昭和19年10月20日朝、大西中将は特攻隊員達を集め訓示しました。

豪胆で知られていた大西は話の間中、体が小刻みにふるえ、顔面が蒼白で引きつっていたと言います。

訓示では「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、自分のような地位の低い司令官でもない。したがって、自分は一億国民にかわって、皆にこの犠牲をお願いし、皆の成功を祈る。皆はすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが成功したかどうか、であろう。みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。我々もその結果をみなに知らせる事はできない。自分はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。この点については、みな安心してくれ」と言った。

大西は涙ぐんで、「しっかり頼む」と言って訓示を終わりました。

大西中将はパイロットの一人一人と握手して彼らの武運を祈りました。

しかし、大西自身 「特攻を命ずる者は自分も死んでいる」 と言って、生ある者としての振る舞いを禁じているが如くだったと言います。

昭和20年5月、大西中将は軍令部次長として内地に帰還しました。

官舎に独居して奥さんとは一緒に住みませんでした。

それを聞いた者が「週に一度は帰宅して奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧めました。

大西は「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」と答えた。

大西中将の目には涙がいっぱい溜まっていたと言います。

大西中将には、最期には必ず自分も特攻隊員の後を追うという覚悟ができあがっていたのでしょう。

しかし、自らにそのような覚悟があるからといって、特攻が正当化されることはないという事を彼は次のように語っています。

「特攻は統率の外道である」

「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」
つまり、自分が死んで後その評価は百年経っても定まらない、誰も自分がやったことを理解しないだろうと語っていた。

大西は、敗戦の翌日未明、自らの命を絶つことによって責任をとった。

大西の最期は壮絶なものでした。

官舎で腹を十文字に切り裂き、頚動脈と胸を刺して自害したものの、まだ息があった。

友人の児玉誉志夫らがかけつけた時は腸が飛び出しており苦悶の表情を浮かべていた大西は介錯を拒んだ。

「これでいいんだ。送り出した部下との約束が果たせる・・・」

そして苦しみの中、笑みを浮かべながら絶命した。