パール博士の戦い
1.東京裁判の最大の犠牲は「法の真理」
東京裁判で全被告無罪の判決を下したインドのラダビノート・パール博士が、昭和27年に日本側の招きで再来日された時の事である。羽田に降り立った博士は、待ちかまえた記者団に対し、開口一番、次のように言われた。
「この度の極東国際軍事裁判(東京裁判)の最大の犠牲は『法の真理』である」
「勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない」
「力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろうはずはない」
「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は弊履のごとく破られるだろう」
「だが、爾今、国際軍事裁判所は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルグと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない」
博士の予言は当たった。
その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、中越戦争、湾岸戦争と、いずれも戦争裁判は開かれていない。朝鮮戦争での北朝鮮、中国、そして湾岸戦争でのイラクも、あからさまな侵略をしかけたのに、結局、侵略の罪も、戦争犯罪も問われずに終わっている。
2.裁判を装った復讐
日本の敗戦後、1946年1月に国際軍事裁判所条例が作られ、その第5条に侵略戦争および、条約に違反する戦争を犯罪とすると規定され、過去の日本の戦争行為を裁くために適用された。
その東京裁判の11ケ国の判事のうち、国際法で学位をとったのは、パール博士一人であった。
博士は東京裁判終了後には、国際連合の国際法委員会委員長にもなっており、文字通り、法学者として国際的な権威であった。
パール博士は、その判決書において、一国が他国に向かって武力行使する事を違法とする国際法は、いまだかつて成立したことも、適用されたこともない、と、国際関係の史実、国際法学者の発言を豊富に引用しながら、結論づける。
勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる「裁判」を行うことは、敗戦者を即時に抹殺した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。
かようにして定められた法律に照らして行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために法律的手続きを踏んでいるようなふりをするものにほかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである。
東京裁判は勝者が戦争後に自ら法を作って、敗者を裁いたものであり、裁判の形を装った復讐に過ぎない。
それは権力者の一存によって人間の生命を奪うものであって、「法の支配のもとでの自由と人権」を重んずる近代文明を抹殺する行為だというのである。
3.近代法の原則を踏みにじった勝者の裁き
行為の後で、法律を作って裁くことは「事後法」と呼ばれ、自由と人権を重んじる近代法では許されないことである。
たとえば、あなたが時速60キロの制限速度を守って運転している所を、突然警察に捕まって、今から制限速度を40キロに変更し、過去に遡って適用するとして突然逮捕されたら、どうであろうか。
こんな事が許されれば、警察は誰でも好きなように逮捕でき、人権も自由もあったものではない。
さらに博士は、もし侵略戦争が犯罪ならば、日本を侵略したソ連が逆に日本を裁く地位にいる、という矛盾を指摘する。
ソ連と日本は中立条約を締結しており、それは1946年まで有効であった。さらに45年6月初旬、日本はソ連に対して連合国との降伏に関する調停を要請していた。
それらを一切無視して、ソ連は8月8日、日本に対して宣戦布告したのである。これには自衛戦争の要素はまったくなく、日本の開戦を侵略というなら、それ以上の明白なる侵略戦争である。
さらにソ連の参戦は、アメリカとイギリスの要請であり、両国も侵略に荷担したことになる。侵略戦争が犯罪であるというなら、これらの国々もすべて裁かれるべきだ、と博士は主張する。
敗戦国だけが裁かれるのは、法の公平な適用という、もう一つの近代法の原則をあからさまに蹂躙するものである。
4.禁じられた判決書出版
このようにパール博士の判決書は、詳細な事実調査と、徹底的な法理論の展開で、東京裁判が国際法の精神を踏みにじった点を明らかにしている。
東京裁判が開かれていた約2年半の間、他の判事達が休日毎にドライブやパーティを楽しんでいる間、博士は帝国ホテルの一室に閉じこもったまま、3千巻にもおよぶ文献を調べ、日本語版文庫本にして1400頁以上もの浩瀚な判決書を書いた。
そのパール博士が、判決書執筆を中断したのは、夫人危篤の知らせを受けて、急ぎ帰国した時だけであった。
病床で夫人は「あなたは日本国の運命を裁く大事なお体です。どうか裁判が終わるまで私の事は構わないで…」と述べた。
博士は「日本は美しい国だ。人情も景色も美しい。裁判が終わったら、一緒に日本へ行こう。それまでに早く良くなってくれ」と言い残して、日本に戻った。
しかし、裁判が終わった時には、夫人は口もきけない状態で、5ヶ月後、ついに帰らぬ人となった。
こうした思いまでして完成した判決書は連合国によって公刊を禁じられ、ようやく1957年になってインドのカルカッタで出版された。
オーストリアの著名なフェアドロス教授編集になる公法雑誌に掲載された書評では「本書を読むと、他の裁判官は全部盲目のように思われてならない、他日パール博士が正しかったといわれるようになる日の到来することを切望する」と紹介された。
5.なぜ日本人は沈黙しているのか?
さて、再来日した博士は各地で講演会を行い「日本の法曹界やマスコミが、なぜ東京裁判の不当性、不法性に対して沈黙しているのか」と問われた。
いまや英・米・仏・独など世界の法学者の間で、東京とニュルンベルグの軍事裁判が、果たし正当か否かという激しい論争や反省が展開されている。
げんに英国法曹界の長老ハンキー卿は「パール博士の無罪論こそ正論である」として「戦犯裁判の錯誤」と題する著書まで出版している。
しかるに直接の被害国であり、げんに同胞が戦犯として牢獄に苦悶している日本において、この重大な国際問題にソッポを向いているのはどうしたことか。
なぜ進んでこの論争に加わらないのか。
なぜ堂々と国際正義を確立しようとしないのか。
さらに広島の原爆慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しません」という文字を見て、博士は言った。
「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わな かった。東京裁判の影響は原子爆弾の被害より甚大だ…」
博士は、日本の法律家やジャーナリストが、東京裁判で提起された問題に対する本質的な論争、すなわち「大東亜戦争は本当に侵略戦争なのか」、「日本は平和に対する罪、人道に対する罪を犯したのか」という点に関して、あまりにも無関心、不勉強であることにいたく失望した。
そして日本人が「長いものには巻かれろ」という事大主義のあまりに、マハトマ・ガンジーのいう「真理把持」の精神に欠けているのではないか、と憤った。」
6.理性は虚偽からその仮面を剥ぎとったか?
パール判決書は、次のような有名な言葉で締めくくられている。
「時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神は、その秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」
「しかしこの言葉はまだ実現されていない。たしかに「時」は、「熱狂と、偏見をやわらげた」と言えるが、人類の「理性」が十分に「虚偽からその仮面を剥ぎとった」とは言えない。満洲事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。
日本の子弟が 歪められた罪悪感を背負って卑屈・退廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。
彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。
誤られた歴史は書き換えられねばならない。」
こうまで言われた博士が現在の我が国の歴史教科書や謝罪外交を見れば、どう思うだろう?
「真理把持」の精神に欠ける日本人は自ら「歪められた罪悪感」を背負って卑屈・退廃に流されるだけでなく、国際正義の確立を通じて世界に貢献しようともしない、と地下で歯がゆい思いをされているのではないか。
[参考]
1. パール博士の言葉、田中正明、下中記念財団
2. パル判決書(上)、東京裁判研究会、講談社学術文庫
3. 同(下)
4. 国際法を犠牲にした東京裁判
パール博士は、インドが生んだ偉大な国際法学者。
戦後、インドの首相となったネルーは、東京裁判のインド代表判事にパール博士を任命した。
パール博士は、親友であるネルーの懇請と期待に応えてカルカッタ大学の副総長を辞任し来日した。
東京に来たパール博士は宿舎のホテルの周りが、一面焼け野原になっていることに呆然とした。
博士は、アメリカが東京に空襲を行い国際法に反して多数の一般市民を虐殺した「東京大虐殺」の実態を目の当たりにした。
博士は、この戦争の真相を求めることに没頭した。
東京裁判は、検事も判事も全部が戦勝国側で占められ日本にはまともな弁護もさせないという一方的で不公平な裁判。
遅れて判事団に加わったパール博士は起訴状の矛盾を見ぬき、東京裁判の不当性を徹底的に追及した。
そして、国際法の法理に基いた厳密な考証を行い、敢然として日本のA級被告全員に無罪の判決を下した。
博士は、東京裁判について「法律にも正義にも基づかない裁判である」「法律的外観はまとっているが、本質的には執念深い報復の追跡である」と結論した。
博士の堂々とした論理と該博な知識は、国際法学会での博士の名声を高めた。
その後、博士は、インドの最高栄誉であるPADHMA・RRI勲章を授与されたり、ジュネーブにある国連司法委員会の議長にも就任するなど、非常な尊敬を受けた。
わが国では、パール博士の判決はアジア人として民族的に偏向した極端な所説だといった見方が一部にあるが、博士は次のように明言している。
「私は日本の同情者として判決を下したのでもなく、またこれ裁いた欧米等の反対者として裁定を下したものでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである」
東京裁判の判事の中で、パールと共にもう一人重要な存在であるオランダのレーリンクは、パール判決に深い敬意を表している。
彼は、自分は裁判当時は「国際法については何も知らなかった」と語っており、判事中で国際法の専門家はパール博士のみだったと認めている。
またレーリンクは、西洋白人中心の歴史観を反省し植民地だったアジアの立場に深い理解を示し、日本がアジア解放に果たした世界史的役割を重視している。
東京裁判はマッカーサーの指令によって行われた。
マッカーサーは、パール博士の判決書を裁判所で読み上げることを禁じた。
パール博士は、その判決書を次の言葉で結んでいる。
「時が熱狂と偏見をやわらげ、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、その時こそ、正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」と。
裁判の終了後の昭和26年、マッカーサーは、米国議会上院の軍事外交合同委員会で「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と答弁した。
これは日本が侵略戦争を行ったという東京裁判の判決を自ら否定するもの。
さらにマッカーサーは、ウェーキ島で、トルーマン大統領に「東京裁判は誤りだった」と告白したと伝えられる。
今日、パール博士の所説は世界の多くの国際法学者たちにも支持されている。
英国の元内閣官房長官・ハンキー卿は、著書『戦時裁判の錯誤』でパール博士を100%支持した。
その他、F・J・P・ピール氏、フリートマン教授、米最高裁のW・O・ダグラス判事など、パール支持を表明する学者・法律家は枚挙にいとまがない。
平成8年には、世界14カ国の有識者85人が東京裁判を批判した言葉を集めた本が、佐藤和男博士らによって刊行された。
今や、パール博士の説は国際法学界の定説となっている。
東京裁判を語る人は、まずパール博士の判決書を読み、博士の法理の是非を自分の頭で考えてみるべきやろう。
昭和27年4月28日、日本は主権を回復した。
6年8ヶ月ぶりのことだった。
しかし、その主権は一定の制限を付せられたもの。
この年の秋、10月26日から11月28日まで、パール博士は二度目の来日をした。
11月4日に広島で開かれた世界連邦のアジア会議に出席するため。
羽田に降り立った博士は、開口一番次のように語った。
「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は『法の真理』である。われわれはこの“法の真理”を奪い返さねばならぬ」
また、次のように述べた。
「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために『中立裁判』は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか」
「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた『法の真理』を奪い返さねばならぬ」 と。
帝国ホテルで、博士の歓迎レセプションが行われた。
席上、ある弁護士が「わが国に対するパール先生の御同情ある判決に対して、深甚なる感謝の意を表したいと」という意味の謝辞を述べた。
博士はすかさず立ち上がって、こう応えた。
「私が日本に同情ある判決を下したというのは大きな誤解である。私は日本の同情者として判決を下したのでもなく、またこれ裁いた欧米等の反対者として裁定を下したものでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。誤解しないでいただきたい」と。
また、次のように続けた。
「日本の法曹界はじめマスコミも評論家も、なぜ東京裁判やアジア各地で執行された戦犯裁判の不法、不当性に対して沈黙しているのか。占領下にあってはやむを得ないとしても、主権を回復し独立した以上、この問題を俎上にのせてなぜ堂々と論争しないのか」
「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない」
博士は「法の真理」を奪い返すために、東京裁判・戦犯裁判の不法・不当性を明らかにすべきだと訴えた。
それは、単に日本一国の名誉の回復のためではない。
第2次大戦の勝者による軍事裁判によって、失われた正義と真理と信頼と平和を世界に回復するため。
博士はまた日本人に対して、次のように訴えた。
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい」
広島で予定されていた特別講演を終えた博士は、原爆慰霊碑を訪れ、献花して黙祷を捧げた。
碑文には「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれていました。通訳を通じて碑文の意味を知ると、博士は憤りを露わにした。
そして、次のように述べた。
「この『過ちを繰り返しませぬ』という過ちは誰の行為を指しているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたしは疑う。ここに、祀ってあるのは原爆犠牲者であり、その原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である。落とした者が責任の所在を明らかにして、二度と再びこの過ちは犯さぬというならうなずける」
「この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のため蒔いたものであることも明らかだ。さらにアメリカは、ABCD包囲網をつくり、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノーとを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」
そして、「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった」と博士は慨嘆した。
このことは新聞に大きく報じられ、碑文の責任者である広島市長との対談が行われた。
原爆慰霊碑を訪れた翌日、博士は半日、瞑想をした。
戦死者のために祈り、大東亜戦争の意義に思いをめぐらせ、ベンガル語で詩を作った。
その詩は、現在、広島市の本照寺にある「大亜細亜悲願之碑」に刻まれている。
詩は、原語と英語と日本語の三ヶ国語で記されている。
日本語による訳詞は、次のようになっている。
「激動し変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛(ばんこく)の思いを抱いて 死んでいった
しかし
天地深く打ち込まれた
悲願は消えない
抑圧されたアジアの解放のため
その厳粛なる誓いに いのち捧げた
魂の上に幸あれ
ああ 真理よ
あなたは我が心の中に在る
その哲示に従って 我は進む」
1952年11月5日 ラビダノード・パール
西洋人は、500年にわたり、世界を侵略・支配した。
この間、アジアの諸民族は白人の奴隷にされ、虐げられてきた。
パール博士は、この詩で、解放を求めて死んでいった人々の悲願は、天地に深く打ち込まれて消えないと謳っている。
そして日本人を含め、アジアの解放のためにいのちを捧げた人々を称え、その冥福を祈っている。
そして最後に、真理の示すところに従って進むことを誓っている。
東京裁判では、戦勝国の罪は一切問われなかった。
一瞬にして24万人以上の広島市民の命を奪った原爆は「悪魔の兵器」。
しかし、原爆を投下した者たちの罪は問題にもされなかった。
博士は、こうした東京裁判の矛盾を徹底的に暴露し、真理を追求した。
ところが、戦後日本人の多くは、戦勝国のたくらみによって誇りを奪われ、先祖や先輩たちがアジア解放を目指した魂までも失ってしまった。
そうした日本人に対し「日本人よ、日本に帰れ」とパール博士は訴えている。
パール博士が予言した東京裁判を見直すべき時は、来ている。
東京裁判の見直しを進めろ。
それなくして、日本人が日本に帰ることはできない。
それとともに、これは、単に日本一国の名誉の回復のためではない。
第2次大戦の勝者による軍事裁判によって、失われた正義と真理と信頼と平和を世界に回復するためであり、世界人類にとっての課題でもある。
参考資料
『共同研究 パル判決書』(講談社学術文庫)
田中正明著『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)
佐藤和男編『世界がさばく東京裁判』(ジュピター出版)
名越ニ荒之助著『戦後教科書の避けてきたもの』(日本工業新聞社)
研究社現代英文テキスト17『日本弁護論 In Defense of Japan's Case』
1.東京裁判の最大の犠牲は「法の真理」
東京裁判で全被告無罪の判決を下したインドのラダビノート・パール博士が、昭和27年に日本側の招きで再来日された時の事である。羽田に降り立った博士は、待ちかまえた記者団に対し、開口一番、次のように言われた。
「この度の極東国際軍事裁判(東京裁判)の最大の犠牲は『法の真理』である」
「勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない」
「力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろうはずはない」
「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は弊履のごとく破られるだろう」
「だが、爾今、国際軍事裁判所は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルグと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない」
博士の予言は当たった。
その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、中越戦争、湾岸戦争と、いずれも戦争裁判は開かれていない。朝鮮戦争での北朝鮮、中国、そして湾岸戦争でのイラクも、あからさまな侵略をしかけたのに、結局、侵略の罪も、戦争犯罪も問われずに終わっている。
2.裁判を装った復讐
日本の敗戦後、1946年1月に国際軍事裁判所条例が作られ、その第5条に侵略戦争および、条約に違反する戦争を犯罪とすると規定され、過去の日本の戦争行為を裁くために適用された。
その東京裁判の11ケ国の判事のうち、国際法で学位をとったのは、パール博士一人であった。
博士は東京裁判終了後には、国際連合の国際法委員会委員長にもなっており、文字通り、法学者として国際的な権威であった。
パール博士は、その判決書において、一国が他国に向かって武力行使する事を違法とする国際法は、いまだかつて成立したことも、適用されたこともない、と、国際関係の史実、国際法学者の発言を豊富に引用しながら、結論づける。
勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる「裁判」を行うことは、敗戦者を即時に抹殺した昔とわれわれの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。
かようにして定められた法律に照らして行われる裁判は、復讐の欲望を満たすために法律的手続きを踏んでいるようなふりをするものにほかならない。それはいやしくも正義の観念とは全然合致しないものである。
東京裁判は勝者が戦争後に自ら法を作って、敗者を裁いたものであり、裁判の形を装った復讐に過ぎない。
それは権力者の一存によって人間の生命を奪うものであって、「法の支配のもとでの自由と人権」を重んずる近代文明を抹殺する行為だというのである。
3.近代法の原則を踏みにじった勝者の裁き
行為の後で、法律を作って裁くことは「事後法」と呼ばれ、自由と人権を重んじる近代法では許されないことである。
たとえば、あなたが時速60キロの制限速度を守って運転している所を、突然警察に捕まって、今から制限速度を40キロに変更し、過去に遡って適用するとして突然逮捕されたら、どうであろうか。
こんな事が許されれば、警察は誰でも好きなように逮捕でき、人権も自由もあったものではない。
さらに博士は、もし侵略戦争が犯罪ならば、日本を侵略したソ連が逆に日本を裁く地位にいる、という矛盾を指摘する。
ソ連と日本は中立条約を締結しており、それは1946年まで有効であった。さらに45年6月初旬、日本はソ連に対して連合国との降伏に関する調停を要請していた。
それらを一切無視して、ソ連は8月8日、日本に対して宣戦布告したのである。これには自衛戦争の要素はまったくなく、日本の開戦を侵略というなら、それ以上の明白なる侵略戦争である。
さらにソ連の参戦は、アメリカとイギリスの要請であり、両国も侵略に荷担したことになる。侵略戦争が犯罪であるというなら、これらの国々もすべて裁かれるべきだ、と博士は主張する。
敗戦国だけが裁かれるのは、法の公平な適用という、もう一つの近代法の原則をあからさまに蹂躙するものである。
4.禁じられた判決書出版
このようにパール博士の判決書は、詳細な事実調査と、徹底的な法理論の展開で、東京裁判が国際法の精神を踏みにじった点を明らかにしている。
東京裁判が開かれていた約2年半の間、他の判事達が休日毎にドライブやパーティを楽しんでいる間、博士は帝国ホテルの一室に閉じこもったまま、3千巻にもおよぶ文献を調べ、日本語版文庫本にして1400頁以上もの浩瀚な判決書を書いた。
そのパール博士が、判決書執筆を中断したのは、夫人危篤の知らせを受けて、急ぎ帰国した時だけであった。
病床で夫人は「あなたは日本国の運命を裁く大事なお体です。どうか裁判が終わるまで私の事は構わないで…」と述べた。
博士は「日本は美しい国だ。人情も景色も美しい。裁判が終わったら、一緒に日本へ行こう。それまでに早く良くなってくれ」と言い残して、日本に戻った。
しかし、裁判が終わった時には、夫人は口もきけない状態で、5ヶ月後、ついに帰らぬ人となった。
こうした思いまでして完成した判決書は連合国によって公刊を禁じられ、ようやく1957年になってインドのカルカッタで出版された。
オーストリアの著名なフェアドロス教授編集になる公法雑誌に掲載された書評では「本書を読むと、他の裁判官は全部盲目のように思われてならない、他日パール博士が正しかったといわれるようになる日の到来することを切望する」と紹介された。
5.なぜ日本人は沈黙しているのか?
さて、再来日した博士は各地で講演会を行い「日本の法曹界やマスコミが、なぜ東京裁判の不当性、不法性に対して沈黙しているのか」と問われた。
いまや英・米・仏・独など世界の法学者の間で、東京とニュルンベルグの軍事裁判が、果たし正当か否かという激しい論争や反省が展開されている。
げんに英国法曹界の長老ハンキー卿は「パール博士の無罪論こそ正論である」として「戦犯裁判の錯誤」と題する著書まで出版している。
しかるに直接の被害国であり、げんに同胞が戦犯として牢獄に苦悶している日本において、この重大な国際問題にソッポを向いているのはどうしたことか。
なぜ進んでこの論争に加わらないのか。
なぜ堂々と国際正義を確立しようとしないのか。
さらに広島の原爆慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しません」という文字を見て、博士は言った。
「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わな かった。東京裁判の影響は原子爆弾の被害より甚大だ…」
博士は、日本の法律家やジャーナリストが、東京裁判で提起された問題に対する本質的な論争、すなわち「大東亜戦争は本当に侵略戦争なのか」、「日本は平和に対する罪、人道に対する罪を犯したのか」という点に関して、あまりにも無関心、不勉強であることにいたく失望した。
そして日本人が「長いものには巻かれろ」という事大主義のあまりに、マハトマ・ガンジーのいう「真理把持」の精神に欠けているのではないか、と憤った。」
6.理性は虚偽からその仮面を剥ぎとったか?
パール判決書は、次のような有名な言葉で締めくくられている。
「時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神は、その秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」
「しかしこの言葉はまだ実現されていない。たしかに「時」は、「熱狂と、偏見をやわらげた」と言えるが、人類の「理性」が十分に「虚偽からその仮面を剥ぎとった」とは言えない。満洲事変から大東亜戦争勃発にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。
日本の子弟が 歪められた罪悪感を背負って卑屈・退廃に流されてゆくのを、私は見過ごして平然たるわけにはゆかない。
彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。
誤られた歴史は書き換えられねばならない。」
こうまで言われた博士が現在の我が国の歴史教科書や謝罪外交を見れば、どう思うだろう?
「真理把持」の精神に欠ける日本人は自ら「歪められた罪悪感」を背負って卑屈・退廃に流されるだけでなく、国際正義の確立を通じて世界に貢献しようともしない、と地下で歯がゆい思いをされているのではないか。
[参考]
1. パール博士の言葉、田中正明、下中記念財団
2. パル判決書(上)、東京裁判研究会、講談社学術文庫
3. 同(下)
4. 国際法を犠牲にした東京裁判
パール博士は、インドが生んだ偉大な国際法学者。
戦後、インドの首相となったネルーは、東京裁判のインド代表判事にパール博士を任命した。
パール博士は、親友であるネルーの懇請と期待に応えてカルカッタ大学の副総長を辞任し来日した。
東京に来たパール博士は宿舎のホテルの周りが、一面焼け野原になっていることに呆然とした。
博士は、アメリカが東京に空襲を行い国際法に反して多数の一般市民を虐殺した「東京大虐殺」の実態を目の当たりにした。
博士は、この戦争の真相を求めることに没頭した。
東京裁判は、検事も判事も全部が戦勝国側で占められ日本にはまともな弁護もさせないという一方的で不公平な裁判。
遅れて判事団に加わったパール博士は起訴状の矛盾を見ぬき、東京裁判の不当性を徹底的に追及した。
そして、国際法の法理に基いた厳密な考証を行い、敢然として日本のA級被告全員に無罪の判決を下した。
博士は、東京裁判について「法律にも正義にも基づかない裁判である」「法律的外観はまとっているが、本質的には執念深い報復の追跡である」と結論した。
博士の堂々とした論理と該博な知識は、国際法学会での博士の名声を高めた。
その後、博士は、インドの最高栄誉であるPADHMA・RRI勲章を授与されたり、ジュネーブにある国連司法委員会の議長にも就任するなど、非常な尊敬を受けた。
わが国では、パール博士の判決はアジア人として民族的に偏向した極端な所説だといった見方が一部にあるが、博士は次のように明言している。
「私は日本の同情者として判決を下したのでもなく、またこれ裁いた欧米等の反対者として裁定を下したものでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである」
東京裁判の判事の中で、パールと共にもう一人重要な存在であるオランダのレーリンクは、パール判決に深い敬意を表している。
彼は、自分は裁判当時は「国際法については何も知らなかった」と語っており、判事中で国際法の専門家はパール博士のみだったと認めている。
またレーリンクは、西洋白人中心の歴史観を反省し植民地だったアジアの立場に深い理解を示し、日本がアジア解放に果たした世界史的役割を重視している。
東京裁判はマッカーサーの指令によって行われた。
マッカーサーは、パール博士の判決書を裁判所で読み上げることを禁じた。
パール博士は、その判決書を次の言葉で結んでいる。
「時が熱狂と偏見をやわらげ、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、その時こそ、正義の女神はその秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」と。
裁判の終了後の昭和26年、マッカーサーは、米国議会上院の軍事外交合同委員会で「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と答弁した。
これは日本が侵略戦争を行ったという東京裁判の判決を自ら否定するもの。
さらにマッカーサーは、ウェーキ島で、トルーマン大統領に「東京裁判は誤りだった」と告白したと伝えられる。
今日、パール博士の所説は世界の多くの国際法学者たちにも支持されている。
英国の元内閣官房長官・ハンキー卿は、著書『戦時裁判の錯誤』でパール博士を100%支持した。
その他、F・J・P・ピール氏、フリートマン教授、米最高裁のW・O・ダグラス判事など、パール支持を表明する学者・法律家は枚挙にいとまがない。
平成8年には、世界14カ国の有識者85人が東京裁判を批判した言葉を集めた本が、佐藤和男博士らによって刊行された。
今や、パール博士の説は国際法学界の定説となっている。
東京裁判を語る人は、まずパール博士の判決書を読み、博士の法理の是非を自分の頭で考えてみるべきやろう。
昭和27年4月28日、日本は主権を回復した。
6年8ヶ月ぶりのことだった。
しかし、その主権は一定の制限を付せられたもの。
この年の秋、10月26日から11月28日まで、パール博士は二度目の来日をした。
11月4日に広島で開かれた世界連邦のアジア会議に出席するため。
羽田に降り立った博士は、開口一番次のように語った。
「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は『法の真理』である。われわれはこの“法の真理”を奪い返さねばならぬ」
また、次のように述べた。
「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために『中立裁判』は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか」
「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた『法の真理』を奪い返さねばならぬ」 と。
帝国ホテルで、博士の歓迎レセプションが行われた。
席上、ある弁護士が「わが国に対するパール先生の御同情ある判決に対して、深甚なる感謝の意を表したいと」という意味の謝辞を述べた。
博士はすかさず立ち上がって、こう応えた。
「私が日本に同情ある判決を下したというのは大きな誤解である。私は日本の同情者として判決を下したのでもなく、またこれ裁いた欧米等の反対者として裁定を下したものでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。誤解しないでいただきたい」と。
また、次のように続けた。
「日本の法曹界はじめマスコミも評論家も、なぜ東京裁判やアジア各地で執行された戦犯裁判の不法、不当性に対して沈黙しているのか。占領下にあってはやむを得ないとしても、主権を回復し独立した以上、この問題を俎上にのせてなぜ堂々と論争しないのか」
「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない」
博士は「法の真理」を奪い返すために、東京裁判・戦犯裁判の不法・不当性を明らかにすべきだと訴えた。
それは、単に日本一国の名誉の回復のためではない。
第2次大戦の勝者による軍事裁判によって、失われた正義と真理と信頼と平和を世界に回復するため。
博士はまた日本人に対して、次のように訴えた。
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい」
広島で予定されていた特別講演を終えた博士は、原爆慰霊碑を訪れ、献花して黙祷を捧げた。
碑文には「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれていました。通訳を通じて碑文の意味を知ると、博士は憤りを露わにした。
そして、次のように述べた。
「この『過ちを繰り返しませぬ』という過ちは誰の行為を指しているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたしは疑う。ここに、祀ってあるのは原爆犠牲者であり、その原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭である。落とした者が責任の所在を明らかにして、二度と再びこの過ちは犯さぬというならうなずける」
「この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のため蒔いたものであることも明らかだ。さらにアメリカは、ABCD包囲網をつくり、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノーとを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」
そして、「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった」と博士は慨嘆した。
このことは新聞に大きく報じられ、碑文の責任者である広島市長との対談が行われた。
原爆慰霊碑を訪れた翌日、博士は半日、瞑想をした。
戦死者のために祈り、大東亜戦争の意義に思いをめぐらせ、ベンガル語で詩を作った。
その詩は、現在、広島市の本照寺にある「大亜細亜悲願之碑」に刻まれている。
詩は、原語と英語と日本語の三ヶ国語で記されている。
日本語による訳詞は、次のようになっている。
「激動し変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛(ばんこく)の思いを抱いて 死んでいった
しかし
天地深く打ち込まれた
悲願は消えない
抑圧されたアジアの解放のため
その厳粛なる誓いに いのち捧げた
魂の上に幸あれ
ああ 真理よ
あなたは我が心の中に在る
その哲示に従って 我は進む」
1952年11月5日 ラビダノード・パール
西洋人は、500年にわたり、世界を侵略・支配した。
この間、アジアの諸民族は白人の奴隷にされ、虐げられてきた。
パール博士は、この詩で、解放を求めて死んでいった人々の悲願は、天地に深く打ち込まれて消えないと謳っている。
そして日本人を含め、アジアの解放のためにいのちを捧げた人々を称え、その冥福を祈っている。
そして最後に、真理の示すところに従って進むことを誓っている。
東京裁判では、戦勝国の罪は一切問われなかった。
一瞬にして24万人以上の広島市民の命を奪った原爆は「悪魔の兵器」。
しかし、原爆を投下した者たちの罪は問題にもされなかった。
博士は、こうした東京裁判の矛盾を徹底的に暴露し、真理を追求した。
ところが、戦後日本人の多くは、戦勝国のたくらみによって誇りを奪われ、先祖や先輩たちがアジア解放を目指した魂までも失ってしまった。
そうした日本人に対し「日本人よ、日本に帰れ」とパール博士は訴えている。
パール博士が予言した東京裁判を見直すべき時は、来ている。
東京裁判の見直しを進めろ。
それなくして、日本人が日本に帰ることはできない。
それとともに、これは、単に日本一国の名誉の回復のためではない。
第2次大戦の勝者による軍事裁判によって、失われた正義と真理と信頼と平和を世界に回復するためであり、世界人類にとっての課題でもある。
参考資料
『共同研究 パル判決書』(講談社学術文庫)
田中正明著『パール博士の日本無罪論』(小学館文庫)
佐藤和男編『世界がさばく東京裁判』(ジュピター出版)
名越ニ荒之助著『戦後教科書の避けてきたもの』(日本工業新聞社)
研究社現代英文テキスト17『日本弁護論 In Defense of Japan's Case』