裕仁親王(ひろひとしんのう、後の昭和天皇)は、皇太子時代、イギリスを訪問。
その際、ロンドンの地下鉄に初めて乗車したが、裕仁親王は、改札で駅員に、キップを渡すことを知らなかった。
一方、駅員も駅員で、 この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった。
この2つの無知が災いしてトラブルが起きてしまう。
裕仁親王は、キップを取り上げようとした駅員と、 もみ合いになり、
とうとうキップを渡さずに、改札を出てしまった。
戦後の昭和天皇を振り返る
昭和天皇の日常生活は、質素そのものであった。
鉛筆はサックをつけても短くなるまで、ノートは端の余白部分まで、使い切るのが当たり前で、内舎人(天皇身辺の雑役)の牧野名助(もりすけ)氏によると
「室内の調度品も、なかなか取り替えようとなさりませんでした。イスなどは、私がお仕えした20年間でも、一度だけしか取り換えなかったと記憶しています」
「食事はどうか?」
「もちろん要人が招かれた会食では、それ相応の料理が出されたが、普段の食事は、普通の家庭の食卓と大して変わらない、非常に地味で慎ましいものだった」
「食器にしても、菊の御紋はあるが、それ以外は、どこの家庭にでもある食器と変わらなかった」
皇太子が学習院初等科を卒業した1946年(昭和21年)3月、昭和天皇は、お祝いに写真機をプレゼントすることにしたが、写真機は、新品ではなく中古品であった。
(宮内省の)写真部から、 中古の写真機を一つ取り寄せると
「これでよろしい。皇太子には、これが手ごろだよ。あまり立派な物や、高い物を与えては、将来のためにならない」と昭和天皇は述べた。
昭和天皇(学問の街 ゆーけーTOWN)
学習院初等科に入学した裕仁親王(ひろひとしんのう、後の昭和天皇)に対して、学院長である乃木希典(のぎ まれすけ、陸軍大将)は、温かくもあり、厳しくもある教育を施した。
乃木は、裕仁親王に尋ねた。
「殿下は、どうやって学校に来られますか?」
「馬車で来ます」と親王が答えると
乃木は「これからは、雨の日でも、歩いて来て下さい」
その日から親王は、どのような時も、歩いて登校するようになった。
また乃木は、親王に対して
「穴が開いた服を着ているのは、よくないことですが、つぎはぎをあてるのは、恥ずかしいことではありません。穴が開いたら、つぎはぎをあてて着て下さい」とも述べた。
昭和天皇の生活描く 海軍侍従武官の手記発見(東京新聞)
昭和天皇は夏でも廊下のガラス戸を、 少ししか開けなかった。
大切な国務関係の書類を飛ばしたり無くしたりするのを、気遣ったためであった。
海軍侍従武官として4年半にわたり、昭和天皇に仕えた
山澄貞次郎(やまずみ ていじろう)氏によると、
「政務室は密室で暑く、自分たちは汗だくだったが、その中で、お上(昭和天皇)は、きちんとしておられた」
”大東亜戦争の開戦”を 布告した詔書(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)。
「原文」と「現代語訳」が掲載されている。
「私(昭和天皇)はここに、 アメリカ及びイギリスに対して、宣戦を布告する」
「今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった」
「まことに、やむをえない事態となった。 このような事態は、私の本意ではない」
「米英両国は、日本の周辺において、軍備を増強し、更に日本の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついには意図的に経済断行をして、日本の生存に、重大な脅威を加えている」
「私は政府に、事態を平和の裡(うち)に、 解決させようとしてきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、 経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって日本を屈服させようとしている」
「このような事態がこのまま続けば、日本の存立は、まさに危機に瀕することになる」
「ことここに至っては、 日本は今や、自存と自衛の為に、決然と立ち上がり、一切の障害を破砕する以外にない」
(現代語訳)
太平洋戦争が行なわれていた1943年(昭和18年)、アッツ島の守備に就いていた 山崎保代(やまさき やすよ)部隊長から、玉砕の決意を伝える悲壮な電報が日本本土に届いた。
「自分(山崎保代)は、アッツ島守備の大命を拝し、 守備にあたってまいりましたがアメリカ海兵隊が上陸し 任務を全うできなくなってしまいました」
「誠に申し訳ありません」
「明朝を期して、全軍で突入しますが、同時に一切の通信機を破壊し、暗号書は焼却します。皇国の無窮(むきゅう)を、お祈りしております。」
昭和天皇は、この報告を静かに聞いた後、部下に、こう命じた。
「アッツ島の山崎部隊長に、電報を打て。『アッツ島部隊は最後まで非常によくやった。そう私が言っていた』と打て」
だが、その時点では山崎部隊は玉砕した後で、すでに彼らは、この世にいなかった。
また仮に彼等が生きているとしても通信機が破壊されているので、天皇の電報が、届くはずもない。
報告者は、そのことを昭和天皇に指摘したが、天皇はさらにこう命じた。
「届かなくてもいいから、電報を打ってやれ」
昭和天皇の作戦関与と戦争責任を考える(倉敷浅尾騒動)
昭和天皇は、戦争(太平洋戦争)を望まなかったとはいえ単純な平和主義者ではなかった。
ミッドウェー海戦(1942年6月5日)の惨敗について、昭和天皇は、海軍の永野修身(ながの おさみ、軍令部総長)に次のように述べている。
「これ(ミッドウェー敗北)により、 士気の沮喪(そそう)を来たさないように注意せよ。なお、今後の作戦は、消極退嬰(たいえい=しりごみ)とならないようにせよ。」
また南太平洋海戦(1942年10月26日)については
「搭乗員を多数、失ったのは惜しむべきだが、多大の戦果をあげ、満足に思う、なお一層、奮励するよう、長官に伝えよ」と述べている。
その後、日本はマリアナ沖海戦(1944年6月19日)で惨敗し戦争を継続する国力を、ほぼ失ってしまった。
しかし天皇も統帥部(軍部)も、戦争終結に踏み出そうとせず沖縄戦に突入してしまう。
第二次世界大戦の末期、すでに多くの日本人が死に、日本本土に原爆が投下されたにもかかわらず、当時の日本の指導者たちは、「降伏」か「戦争継続」か決めることができなかった。
そこで結論を出すには、昭和天皇に決断してもらうほかなく、1945年(昭和20年)8月9日の夜11時、歴史的な御前会議が開かれることとなった。
この会議でも議論は2つに割れた。
外相、海軍大臣、枢密院議長は、”終戦”に賛成したが陸軍大臣、参謀総長、軍令部総長は”戦争継続”を主張した。
一同の発言が終わった後、最後に首相が言った。
「本日は列席一同、熱心に意見を開陳いたしましたが、ただ今まで、意見はまとまりません」
「おそれ多いことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをおうかがいして、それによって、私どもの意見をまとめたいと思います」
この首相の発言を受けて昭和天皇が口を開いた。
「それならば、自分の意見を言おう」
「自分の意見では、外務大臣の意見(日本の降伏)に同意である」
これを聞いた一同は、涙を流した。 すすり泣きの次に号泣となった。
昭和天皇も泣いた。
昭和天皇は、しぼり出すような声で、発言を続けた。
「大臣や総長は、”本土決戦”の自信があるようなことを先ほども述べたが、しかし侍従武官の視察報告によると、兵士には銃剣さえも、行きわたってはいない、ということである」
「このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか非常に心配である」
「あるいは日本民族は皆、死んでしまわなければ ならなくなるのではなかろうかと思う」
「そうなったら、どうしてこの日本を子孫に伝えることができるであろうか自分の任務は、祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである」
「今日となっては、1人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来、再び立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う」
「自分は、自分のことは、どうなっても構わない」
「堪えがたいこと、忍びがたいことであるが、かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である…」
「玉音放送」の内容(終戦の詔勅)。
「戦闘状態は、すでに4年を越え陸海将兵の勇敢な戦闘や、1億国民の努力、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず戦争における状況は良くならず、世界の情勢も、日本には不利に働いている」
「それだけではない」
「敵は新たに残虐な爆弾を使用して、何の罪もない多くの非戦闘員を殺傷し、その被害は全く図り知れない」
「それでもなお戦争を継続すれば最終的には、日本民族の滅亡を招くことになってしまうだろう」
「そのような事態になったとしたら、私(昭和天皇)はどうして我が子とも言える多くの臣民を保ち、先祖の霊に、謝罪することができようか」
「これこそが、政府に「ポツダム宣言」に 応じるようにさせた理由である」
「思うに、これから日本の受けるであろう苦難は、大変なものになる」
「臣民たちの”負けたくない”という気持ちも、私はよく知っている」
「しかし私は、これから耐えがたいことを耐え、忍びがたいことを忍んで、 将来のために平和を実現しようと思う」
「国を挙げて一つの家族のように団結し子孫ともども、固く日本の不滅を信じ、道は遠く、責任は重大であることを自覚し、 総力を将来の建設のために傾け、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努めなさい」
「あなた方臣民は私の気持ちを理解し、そのようにして欲しい」
(現代語訳)
太平洋戦争の敗北から、約1ヵ月半がたった9月27日、昭和天皇はダグラス・マッカーサー(連合国最高司令官)を訪ねた。
連合国には天皇に対し、 厳罰を要求しようとする勢力があったため、天皇の側近は、陛下が生きて帰れるかどうかを心配した。
決死の覚悟で乗り込んだ昭和天皇は、マッカーサーにこう述べた。
「私は、国民が戦争遂行するにあたって政治・軍事両面で行った、全ての決定と行動に対する、全責任を負う者として私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、 お訪ねした」
マッカーサーは、この時のことを回想記において次のように振り返っている。
「私は、大きい感動にゆすぶられた」
「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする」
「この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした」
「私はその瞬間、私の前にいる天皇が、”日本の最上の紳士”である事を、感じ取ったのである」
35分にわたる会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は、変わっていた。
当初マッカーサーは、 ”天皇の出迎えも見送りもしない”と決めていたのだが、その予定を変更して 自ら昭和天皇を玄関まで送った。
後にマッカーサーは側近のフェラーズに
「私は、天皇にキスしてやりたいほどだった」
「あんな誠実な人間を、かつて見たことがない」と語り、また吉田茂によるとマッカーサーは
「陛下ほど自然そのままの純真な、善良な方を見た事がない。実に立派な、お人柄である」と述べて「陛下との会見を、非常に喜んでいた」という。
1946年(昭和21年)1月25日、マッカーサーは、陸軍省宛に極秘電報を打った。
この電報が、昭和天皇の命を救うこととなる。
「天皇を告発すれば、日本国民の間に、想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう」
「その結果もたらされる事態を鎮めるのは不可能である」
「天皇を葬れば、日本国家は分解する」
「日本政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、 混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方で、ゲリラ戦が発生する」
「『近代的な民主主義を導入する』という希望は、 ことごとく消え去り引き裂かれた日本国民の中から、共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるだろう」
「そのような事態が勃発した場合、 最低100万人の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない」
この電報を受け取った陸軍省は、すぐ国務省と話し合った。
その結果、両者、天皇には手をつけないでおくことに合意と言うより帝国憲法でも議会から上がってきた文章に文句が言えず印鑑を押すだけが天皇の仕事。
二・二六事件の時には、”反乱軍の鎮圧”を強く主張。
「1946年(昭和21年)元日の詔書で 天皇の神格性を否定し(人間宣言)、1947年施行の日本国憲法に基づき変わった名前である”日本国と日本国民統合の象徴”に変わった」
戦後は生物学の研究者として知られるようになり、編・著書に「那須の植物」などがある。
昭和天皇記念館(久恒啓一の「今日も生涯の一日なり」)
昭和天皇は20世紀の最初の年、1901年に生まれ亡くなったのは1989年であり、”戦争と革命の世紀”といわれる”激動の20世紀”を 生きたリーダーの1人。
19才のヨーロッパ諸国訪問を経て 父の大正天皇の病気により20才で摂政に就任
25才で天皇となった(その後、日本史上最長の在位を記録)
34才のとき2・26事件
40才のとき宣戦の詔書(大東亜戦争の勃発)
44才のときポツダム宣言を受諾、終戦の詔書(玉音放送) 日本の敗戦に直面
46才のとき日本国憲法の発布に伴い、日本の象徴となる。
57才のとき 皇太子・明仁親王(あきひとしんのう、現在の天皇)の結婚
63才のとき東京オリンピックが開かれ、70才のときヨーロッパ諸国訪問
74才のときアメリカ訪問
87才のとき崩御。
昭和天皇の発言集。
「戦争は、やるまでは深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ」他。
昭和天皇発言(沖縄戦の記憶)
大東亜戦争の末期、 近衛文麿(このえ ふみまろ、元首相)は、昭和天皇を訪問し「和平」を説いた。
近衛に対する天皇の返答は、”沖縄の戦勝が得られたら、それを機会に、和平を考えてもよい”というものであった。
「『沖縄で勝てる』という目算がありますか。」(近衛文麿)
「統帥部(軍部)は『今度こそ大丈夫だ』と言っている」 (昭和天皇)
「彼らの言うことで、今まで一度でも当ったことがありますか」(近衛文麿)
「今度は確信があるようだ」(昭和天皇)
戦後、昭和天皇は沖縄戦について
「私は、これが最後の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏もまた、やむを得ぬと思った。」と述べている。

その際、ロンドンの地下鉄に初めて乗車したが、裕仁親王は、改札で駅員に、キップを渡すことを知らなかった。
一方、駅員も駅員で、 この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった。
この2つの無知が災いしてトラブルが起きてしまう。
裕仁親王は、キップを取り上げようとした駅員と、 もみ合いになり、
とうとうキップを渡さずに、改札を出てしまった。
戦後の昭和天皇を振り返る
昭和天皇の日常生活は、質素そのものであった。
鉛筆はサックをつけても短くなるまで、ノートは端の余白部分まで、使い切るのが当たり前で、内舎人(天皇身辺の雑役)の牧野名助(もりすけ)氏によると
「室内の調度品も、なかなか取り替えようとなさりませんでした。イスなどは、私がお仕えした20年間でも、一度だけしか取り換えなかったと記憶しています」
「食事はどうか?」
「もちろん要人が招かれた会食では、それ相応の料理が出されたが、普段の食事は、普通の家庭の食卓と大して変わらない、非常に地味で慎ましいものだった」
「食器にしても、菊の御紋はあるが、それ以外は、どこの家庭にでもある食器と変わらなかった」
皇太子が学習院初等科を卒業した1946年(昭和21年)3月、昭和天皇は、お祝いに写真機をプレゼントすることにしたが、写真機は、新品ではなく中古品であった。
(宮内省の)写真部から、 中古の写真機を一つ取り寄せると
「これでよろしい。皇太子には、これが手ごろだよ。あまり立派な物や、高い物を与えては、将来のためにならない」と昭和天皇は述べた。
昭和天皇(学問の街 ゆーけーTOWN)
学習院初等科に入学した裕仁親王(ひろひとしんのう、後の昭和天皇)に対して、学院長である乃木希典(のぎ まれすけ、陸軍大将)は、温かくもあり、厳しくもある教育を施した。
乃木は、裕仁親王に尋ねた。
「殿下は、どうやって学校に来られますか?」
「馬車で来ます」と親王が答えると
乃木は「これからは、雨の日でも、歩いて来て下さい」
その日から親王は、どのような時も、歩いて登校するようになった。
また乃木は、親王に対して
「穴が開いた服を着ているのは、よくないことですが、つぎはぎをあてるのは、恥ずかしいことではありません。穴が開いたら、つぎはぎをあてて着て下さい」とも述べた。
昭和天皇の生活描く 海軍侍従武官の手記発見(東京新聞)
昭和天皇は夏でも廊下のガラス戸を、 少ししか開けなかった。
大切な国務関係の書類を飛ばしたり無くしたりするのを、気遣ったためであった。
海軍侍従武官として4年半にわたり、昭和天皇に仕えた
山澄貞次郎(やまずみ ていじろう)氏によると、
「政務室は密室で暑く、自分たちは汗だくだったが、その中で、お上(昭和天皇)は、きちんとしておられた」
”大東亜戦争の開戦”を 布告した詔書(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)。
「原文」と「現代語訳」が掲載されている。
「私(昭和天皇)はここに、 アメリカ及びイギリスに対して、宣戦を布告する」
「今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった」
「まことに、やむをえない事態となった。 このような事態は、私の本意ではない」
「米英両国は、日本の周辺において、軍備を増強し、更に日本の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついには意図的に経済断行をして、日本の生存に、重大な脅威を加えている」
「私は政府に、事態を平和の裡(うち)に、 解決させようとしてきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、 経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって日本を屈服させようとしている」
「このような事態がこのまま続けば、日本の存立は、まさに危機に瀕することになる」
「ことここに至っては、 日本は今や、自存と自衛の為に、決然と立ち上がり、一切の障害を破砕する以外にない」
(現代語訳)
太平洋戦争が行なわれていた1943年(昭和18年)、アッツ島の守備に就いていた 山崎保代(やまさき やすよ)部隊長から、玉砕の決意を伝える悲壮な電報が日本本土に届いた。
「自分(山崎保代)は、アッツ島守備の大命を拝し、 守備にあたってまいりましたがアメリカ海兵隊が上陸し 任務を全うできなくなってしまいました」
「誠に申し訳ありません」
「明朝を期して、全軍で突入しますが、同時に一切の通信機を破壊し、暗号書は焼却します。皇国の無窮(むきゅう)を、お祈りしております。」
昭和天皇は、この報告を静かに聞いた後、部下に、こう命じた。
「アッツ島の山崎部隊長に、電報を打て。『アッツ島部隊は最後まで非常によくやった。そう私が言っていた』と打て」
だが、その時点では山崎部隊は玉砕した後で、すでに彼らは、この世にいなかった。
また仮に彼等が生きているとしても通信機が破壊されているので、天皇の電報が、届くはずもない。
報告者は、そのことを昭和天皇に指摘したが、天皇はさらにこう命じた。
「届かなくてもいいから、電報を打ってやれ」
昭和天皇の作戦関与と戦争責任を考える(倉敷浅尾騒動)
昭和天皇は、戦争(太平洋戦争)を望まなかったとはいえ単純な平和主義者ではなかった。
ミッドウェー海戦(1942年6月5日)の惨敗について、昭和天皇は、海軍の永野修身(ながの おさみ、軍令部総長)に次のように述べている。
「これ(ミッドウェー敗北)により、 士気の沮喪(そそう)を来たさないように注意せよ。なお、今後の作戦は、消極退嬰(たいえい=しりごみ)とならないようにせよ。」
また南太平洋海戦(1942年10月26日)については
「搭乗員を多数、失ったのは惜しむべきだが、多大の戦果をあげ、満足に思う、なお一層、奮励するよう、長官に伝えよ」と述べている。
その後、日本はマリアナ沖海戦(1944年6月19日)で惨敗し戦争を継続する国力を、ほぼ失ってしまった。
しかし天皇も統帥部(軍部)も、戦争終結に踏み出そうとせず沖縄戦に突入してしまう。
第二次世界大戦の末期、すでに多くの日本人が死に、日本本土に原爆が投下されたにもかかわらず、当時の日本の指導者たちは、「降伏」か「戦争継続」か決めることができなかった。
そこで結論を出すには、昭和天皇に決断してもらうほかなく、1945年(昭和20年)8月9日の夜11時、歴史的な御前会議が開かれることとなった。
この会議でも議論は2つに割れた。
外相、海軍大臣、枢密院議長は、”終戦”に賛成したが陸軍大臣、参謀総長、軍令部総長は”戦争継続”を主張した。
一同の発言が終わった後、最後に首相が言った。
「本日は列席一同、熱心に意見を開陳いたしましたが、ただ今まで、意見はまとまりません」
「おそれ多いことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをおうかがいして、それによって、私どもの意見をまとめたいと思います」
この首相の発言を受けて昭和天皇が口を開いた。
「それならば、自分の意見を言おう」
「自分の意見では、外務大臣の意見(日本の降伏)に同意である」
これを聞いた一同は、涙を流した。 すすり泣きの次に号泣となった。
昭和天皇も泣いた。
昭和天皇は、しぼり出すような声で、発言を続けた。
「大臣や総長は、”本土決戦”の自信があるようなことを先ほども述べたが、しかし侍従武官の視察報告によると、兵士には銃剣さえも、行きわたってはいない、ということである」
「このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか非常に心配である」
「あるいは日本民族は皆、死んでしまわなければ ならなくなるのではなかろうかと思う」
「そうなったら、どうしてこの日本を子孫に伝えることができるであろうか自分の任務は、祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである」
「今日となっては、1人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来、再び立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う」
「自分は、自分のことは、どうなっても構わない」
「堪えがたいこと、忍びがたいことであるが、かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である…」
「玉音放送」の内容(終戦の詔勅)。
「戦闘状態は、すでに4年を越え陸海将兵の勇敢な戦闘や、1億国民の努力、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず戦争における状況は良くならず、世界の情勢も、日本には不利に働いている」
「それだけではない」
「敵は新たに残虐な爆弾を使用して、何の罪もない多くの非戦闘員を殺傷し、その被害は全く図り知れない」
「それでもなお戦争を継続すれば最終的には、日本民族の滅亡を招くことになってしまうだろう」
「そのような事態になったとしたら、私(昭和天皇)はどうして我が子とも言える多くの臣民を保ち、先祖の霊に、謝罪することができようか」
「これこそが、政府に「ポツダム宣言」に 応じるようにさせた理由である」
「思うに、これから日本の受けるであろう苦難は、大変なものになる」
「臣民たちの”負けたくない”という気持ちも、私はよく知っている」
「しかし私は、これから耐えがたいことを耐え、忍びがたいことを忍んで、 将来のために平和を実現しようと思う」
「国を挙げて一つの家族のように団結し子孫ともども、固く日本の不滅を信じ、道は遠く、責任は重大であることを自覚し、 総力を将来の建設のために傾け、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努めなさい」
「あなた方臣民は私の気持ちを理解し、そのようにして欲しい」
(現代語訳)
太平洋戦争の敗北から、約1ヵ月半がたった9月27日、昭和天皇はダグラス・マッカーサー(連合国最高司令官)を訪ねた。
連合国には天皇に対し、 厳罰を要求しようとする勢力があったため、天皇の側近は、陛下が生きて帰れるかどうかを心配した。
決死の覚悟で乗り込んだ昭和天皇は、マッカーサーにこう述べた。
「私は、国民が戦争遂行するにあたって政治・軍事両面で行った、全ての決定と行動に対する、全責任を負う者として私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、 お訪ねした」
マッカーサーは、この時のことを回想記において次のように振り返っている。
「私は、大きい感動にゆすぶられた」
「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする」
「この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした」
「私はその瞬間、私の前にいる天皇が、”日本の最上の紳士”である事を、感じ取ったのである」
35分にわたる会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は、変わっていた。
当初マッカーサーは、 ”天皇の出迎えも見送りもしない”と決めていたのだが、その予定を変更して 自ら昭和天皇を玄関まで送った。
後にマッカーサーは側近のフェラーズに
「私は、天皇にキスしてやりたいほどだった」
「あんな誠実な人間を、かつて見たことがない」と語り、また吉田茂によるとマッカーサーは
「陛下ほど自然そのままの純真な、善良な方を見た事がない。実に立派な、お人柄である」と述べて「陛下との会見を、非常に喜んでいた」という。
1946年(昭和21年)1月25日、マッカーサーは、陸軍省宛に極秘電報を打った。
この電報が、昭和天皇の命を救うこととなる。
「天皇を告発すれば、日本国民の間に、想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう」
「その結果もたらされる事態を鎮めるのは不可能である」
「天皇を葬れば、日本国家は分解する」
「日本政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、 混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方で、ゲリラ戦が発生する」
「『近代的な民主主義を導入する』という希望は、 ことごとく消え去り引き裂かれた日本国民の中から、共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるだろう」
「そのような事態が勃発した場合、 最低100万人の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない」
この電報を受け取った陸軍省は、すぐ国務省と話し合った。
その結果、両者、天皇には手をつけないでおくことに合意と言うより帝国憲法でも議会から上がってきた文章に文句が言えず印鑑を押すだけが天皇の仕事。
二・二六事件の時には、”反乱軍の鎮圧”を強く主張。
「1946年(昭和21年)元日の詔書で 天皇の神格性を否定し(人間宣言)、1947年施行の日本国憲法に基づき変わった名前である”日本国と日本国民統合の象徴”に変わった」
戦後は生物学の研究者として知られるようになり、編・著書に「那須の植物」などがある。
昭和天皇記念館(久恒啓一の「今日も生涯の一日なり」)
昭和天皇は20世紀の最初の年、1901年に生まれ亡くなったのは1989年であり、”戦争と革命の世紀”といわれる”激動の20世紀”を 生きたリーダーの1人。
19才のヨーロッパ諸国訪問を経て 父の大正天皇の病気により20才で摂政に就任
25才で天皇となった(その後、日本史上最長の在位を記録)
34才のとき2・26事件
40才のとき宣戦の詔書(大東亜戦争の勃発)
44才のときポツダム宣言を受諾、終戦の詔書(玉音放送) 日本の敗戦に直面
46才のとき日本国憲法の発布に伴い、日本の象徴となる。
57才のとき 皇太子・明仁親王(あきひとしんのう、現在の天皇)の結婚
63才のとき東京オリンピックが開かれ、70才のときヨーロッパ諸国訪問
74才のときアメリカ訪問
87才のとき崩御。
昭和天皇の発言集。
「戦争は、やるまでは深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ」他。
昭和天皇発言(沖縄戦の記憶)
大東亜戦争の末期、 近衛文麿(このえ ふみまろ、元首相)は、昭和天皇を訪問し「和平」を説いた。
近衛に対する天皇の返答は、”沖縄の戦勝が得られたら、それを機会に、和平を考えてもよい”というものであった。
「『沖縄で勝てる』という目算がありますか。」(近衛文麿)
「統帥部(軍部)は『今度こそ大丈夫だ』と言っている」 (昭和天皇)
「彼らの言うことで、今まで一度でも当ったことがありますか」(近衛文麿)
「今度は確信があるようだ」(昭和天皇)
戦後、昭和天皇は沖縄戦について
「私は、これが最後の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏もまた、やむを得ぬと思った。」と述べている。
