父上様母上様御一同様

愈々明日出撃です。もう準備萬端整ひ防空壕で寝台に臥せり乍らこの便を書いています。

一昨日の攻撃に出陣する筈でしたが、飛行機の整備が悪く、残念にも取残されました。岡部中尉、森少尉、福田少尉、中村少尉は戰死されましたが、黒崎少尉、伊東少尉、西野少尉私の四人は明日一緒に征きます。昨日も出發する予定で飛行場に行き、既に飛行機に乗ってゐたのに急に中止になりがっかりしました。然し明日は出られますので断然張切ってゐます。明鏡止水といふ所です。

明日こそは必ず必ず見事に命中して見せます。目指すは正規空母です。敵機動部隊の眞只中に櫻の花を咲かしませう。

明日一緒に征く連中が皆夫々里へ便りを書いたり作戰を練ったりしてゐます。美しく勇ましいそして静かな光景です。皆偉いです。しかし皆に出来る事が私にだけ出来ない筈はありませうか。やるぞ断乎やる。

さて、二十四年間の私の生活は実に幸福なものでした。良い家族で良い両親と良い兄弟に包まれ、自由に楽しく過して来ました。本当に満足して死ねます。お父様には筑波で会へるし、お母様は苦労して遠い所を訪ねてくださいましたし、二晩もゆっくり話をして、私の氣持も私達の生活もよく知って戴きましたし、実に幸運に恵まれてゐます。最后迄この幸運が続いてうまく命中する様祈る許りです。

佐々木にも会ひました。彼は少々遅れるので口惜しがってゐます。

鹿屋荘には二度程行きました。西野と福田と三人で雛一羽と玉子十ケをもって飲みに行き、風呂へ入り、一晩ゆっくり語りました。とても有意義な一夜でした。明日征ったら、森や福田が一升さげて待ってゐる事でせう。また皆で痛飲します。

今日迄何の孝行もせず申訳なき次第ですが、お役に立った事をもって許して下さい。時岡家の長男として父祖代々の家をつげず、残念といふより申訳ありませんが、国なくして家もなしですが、その代わり沖縄だけは必ず勝ちます。安心して下さい。

(中略)

福田の恋人の○○○子さんが林田区東尻池○丁目○○ノ○○石井様方宛で便が付きますから、福田の元気だった様子でも知らせてあげて下さい。

今十一時、もう寝なくては明日の出撃に差支へますから止めます。

感謝しつつ征きます。死を知らんとす、また楽しからずや

そうそう藤田少尉の奥さんが家に来られたかも知れません。藤田も一緒に行きます。佐藤はまだ當高にゐます。

では皆様、いや、おばあさん、お父さん、お母さん、○子、お元氣で頑張って下さい。○○の宛名がわかったら知らせて下さい。

頑張って、張切って、行きます。さよなら

五月十三日午后十一時十九分

鶴夫拝

お祖母様
お父様
お母様
○子様(良い奥さんになれよ、我儘禁物)

65年以上前の遺書。

鹿屋航空基地から投函された、神風特別攻撃隊第六筑波隊海軍少尉時岡鶴夫さんの絶筆。

24歳とは思えない女性的な細やかな達筆、夜が明ければ死ぬ若者とは思えない落ち着き。

最後のほうで2カ所だけ、書き直しの跡が見られる。

「行って来ます」の「って来ます」が二本の線で消され、「きます」と。

「行って来ます」だと「行って(帰って)来ます」、往還を表すようでふさわしくない、と思い直したのか?

そして「十一時」の右にちいさく「午后」

もう夜遅いんだ、と言いたかったのか?

はたしてこのあと、かれは眠れたのか?

遺書は、4月 鹿屋の慰霊式で読みあげられたそうだ。

うらうらと暮れてゆく五月の夕方、打ち込みながら、今がこの方の犠牲の上にあるなどと嘯(うそぶ)いて納得する気には、とうていなれなかった。

大本営がいかに沖縄を捨て石としか見ていなかろうが、上層部は特攻の戦術的効果など信じもせずに送り出したのだろうが、沖縄に押し寄せるアメリカの大艦隊を食い止めるために死ぬのだと信じた、信じようとした若い人の「沖縄だけは必ず勝ちます」は、私が死ぬまでふさがらない心の傷口。

ここには、国のためとか、天皇のためとかの言葉は出てこない。

かろうじて「お役に立」つという言い方で、国家が意識されている。

だが、なんの役に立つのか、文字にしない、今この時自分がこの手を動かして文字にするのは別のことだ、この特攻隊員の、切迫した言外の思いが伝わってくるみたい。

敢えて書かなくても暗黙の了解があるから書かない、という解釈もある。

だが、その人個人にとってきわめて重要なことであれば、人はやはり書く。

時岡さんが、「皆様、いや、おばあさん、お父さん、お母さん、○子」と、改めて一人ひとりに呼びかけているように。

最後の手紙を終えようとしているこの時、そのすぐあとにもう一度、末尾の呼びかけを書くことがわかっているのに…

また、「国なくして家もなし」という言葉も、国を前に押し出している。

だが「国」は「家」、つまりは家族の存続のためという理由があって初めて正当化されている。

これが、この時代に理不尽な死を義務づけられた若者の、煩悶の末のぎりぎりの納得だったやろう。

「しかし皆に出来る事が私にだけ出来ない筈はありませうか」と、必死に自分を鼓舞している24歳の若者の内面を思うと、命のさかりにみずからその命を擲(なげう)つところに追い詰められたこの若者の取り返しのつかなさに、何十年以上たった今でも、私は狼狽する。

クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」に、「戦うのは国のため、でも死ぬのは友のため」というせりふがある。

個人にとって戦うことと死ぬこと、どちらが一大事かと言えば、もちろん死ぬこと。

つまり、具体的で身近な人間関係が国家という抽象的なものの上に位置づけられている。

それは保守主義的。

時岡少尉は保守主義者。

「お母さん」と言って死んでいったおびただしい兵士は、みな本来の意味で保守主義者。

親孝行ができなかったと詫びるのは、こうした遺書に特徴的だが、そこには自分だって生きたいのだ生きて孝行したいのだ、という思いがこめられている。

この時代、孝行とは、まず働き、家族をもつこと。

自分の人生を生きるということ。生きたいと言うために謝る。

ここに名前が挙がっている人びとの教官、と言ってもすこし先に任官されたため、すぐ下の後輩たちの指導にあたり、すべて見送ってから自分も特別攻撃に出ることになっていたところ、終戦を迎えて奇しくも生き延びた木名瀬信也さんという方がいる。

長年、大学で英文学を教えていた。

その木名瀬さんと電話で話をしたNHKの「日本海軍400時間の証言」が話題になった。

私が「戦後何十年もたって『あの作戦は失敗だったね』『残念だったね』と言って笑っている人たちのために、祖先たちは亡くなったんですね」と言いたいものだ…