二人で力を合わせて努めて来たが
終に 実を結ばずに終わった

婚約をしてあった男性として
散ってゆく男子として


女性であるあなたに
少し言って 征(ゆ)き度(た)い

「あなたの幸せを願う以外に何物もない」

徒(いたずら)に

過去の小議(しょうぎ)に拘る勿れ


あなたは過去に生きるのではない


勇気をもって過去を忘れ 

将来に新割面を見出すこと


穴澤は現実の世界には もう存在しない

今更 何を言ふのかと自分でも考へるが
ちょっぴり欲を言ってみたい

読み度い本 「万葉」「句集」
観たい画 ラファエル「聖母子像」

智恵子 会ひ度い 話し度い 無性に

今後は明るく朗らかに
自分も負けずに朗らかに笑って征く

1945年4月12日出撃 戦死 23歳
智恵子さんからもらったマフラーを巻いて。

智恵子さんは穴澤さんの煙草の吸殻を
生涯、持ち続けていたそうです。。

 

特攻隊員が

婚約者に綴った最後の手紙より

<ところ割愛しております>

 

 

 

 

 

 

こんばんは。

占い師 じんまりです。

 

沢山のいいね、

フォローしてくださいまして

本当にありがとうございますひまわり

 

フォローくださった方の

ブログは読ませて頂いてます。

素晴らしい記事をありがとうございます。

 

お盆休みの方も多いと思いますが

ごゆっくりされていますでしょうか。

 

 

あらためて、

地震注意も解除されて、

よかったです。

 

また明日から関東にかけて

台風被害も心配ですが

どうぞ、何事もありませんように。

 

 

 

今日は、終戦記念日ですね。

 

 

1945(昭和20)年の8月15日、

日本が無条件降伏をしたことで、

第二次世界大戦が終結した日です。

 

ニュースでも風化しないように特集もあり

目を向ける機会もあったかと思います。

 

特にわたくしの心に強く刻まれるのは、

若くして命を落とした「特攻隊」の話です。

 

冒頭でご紹介しました、

特攻隊員の最後の手紙から

はじまりましたが

 

よろしければ、お付き合いください。

 

苦手な方は

ムリに読まれなくて大丈夫です。

 

わたくしなりに参考資料,
他、調べたものですが

とても綴りきれないため、

わたくしの主観で綴っております。

 

 

 

 

 

 

 

人はひとのために。

 

本来、人は

ひとのために生まれ

生きているもの。

 

 

 

お国のために

家族のために

愛するひとのために

 

一つしかない命を投げ捨てて

散って行った若者のこと 忘れてはならない

 

ー特攻の母 鳥濱トメさんの言葉ですー

 

トメさんは日本軍指定の食堂でした。

ここに食べにくる隊員たちの食事、

家族への手紙を託され、

届けたりもされていたそうです。

 

隊員達にとっては、

お母さん変わりのように

慕われていた方です。

 

 

 

1941年12月8日 太平洋戦争開始。

真珠湾攻撃。

当初、大学生は徴兵を猶予されていた。

 

1943年 戦況の悪化。

兵力不足のため、取り消し。

「学徒出陣」により10万人徴兵される。

 

1944年10月 

「フィリピン戦線から特攻作戦開始」

 

追い詰められた日本軍幹部が、

最後に選んだ手段です。

 

特攻とは・・・

出撃すると帰ってくることは許されない。

 

操縦従員、偵察員の2名。

 

余計なものはすべて取り除き

戦闘機の両翼に爆弾250㎏を2つ、着け
突っ込んでいく。

その時、体にかかるG(重力)が

一気にのし掛かる。

 

掛けられた言葉は

「計器盤だけを見ろ!」

 

計器盤が800mになった時、

操縦桿を引くんだ。

引かなければ突っ込むぞ。

 

厳しい訓練の中、

そんな想像を絶する状況において

…思われたそうです。

 

「命とは なにか」

 

特攻隊員は、20歳前後です。

 

幸いにも生き残られた方々の

インタビューを何回も

繰り返し拝見しました。

 

15日に投稿したい気持ちと

まだまだ完全ではない、、

もっと知らなければ、と

せめぎあいでした。

 

リアルさを追求すると

生々しい文言を書かなければいけなくなる。

 

推敲の繰り返しで

支離滅裂になりましたけれど

 

伝えたいのは、

過去の悲惨な現状ではなく

別のこと。。

 

そういう悲劇を起こさないこと。

 

人は人のために生きることの尊さを

伝えたかったのです。

 

 

 

特攻に旅立った季節は、桜舞う春。

 

母親たちは桜の花が咲くと

亡くなった息子の事を思い出されるそうです

 

 


お母さん江(へ)

思えば幼いころから
随分と心配ばかしおかけしましたね


腕白をしたり 又 何時も不平ばかし言ったり
目を閉じると子供のころのことが不思議なくらい
ありありと頭に浮かんで参ります

家を出発するとき
台所でお母さんが涙を流されたのが
東京にいる間中 頭に焼き付いて


あの頃どんなに帰りたかった事か
しれませんでした

ゆっくりお母さんに親孝行をする
機会のなかったことだけ残念です

軍隊に入ってお母さんに
お会いしたのは三度ですね

態々 長い旅をリュックサックを背負って
会いに来てくださったお母さんを見


何か言うと涙が出そうで
遂 わざわざ来なくても良かったのに等と

口では反対の事をいってしまったりして
申し訳ありませんでした

日本一のお母さんをもった
新平は常に幸福でした

日本一の幸福者 新平

最後の親孝行に
いつもの笑顔で元気で出発いたします

1945年4月16日 出撃 戦死23歳

この遺書を受け取った母親は

泣き崩れたそうです。。

 

 

 

 

 

 

 

今の平和な時代を生きていられるのは

 

家族のため、日本のために

青春を犠牲に、自らの夢を犠牲に

命を犠牲にしてくださった

若者たちのおかげでもあるのです。

 

勇気ある若者たちの、覚悟によるもの。

 

初めて知ったことですが、

片道燃料ではなく、当時台湾は日本領で

操縦桿の向きを横に倒せば他にも

逃げることはできたそうです。

 

ただ、爆弾を搭載していたので

どこかで処理をしなくてはいけないと

いうお話もありました。

 

逃げれたのに

逃げることもできたハズなのに

彼らは誰一人、逃げなかったそうです。

 

 

「逃げなかった」

 

 

資料を読み解くと、

戦術など詳しく紹介しているものもあり

生き残られた方々の貴重なお話も

YouTube等で知ることができます。

 

時の流れとともに、真実は炙り出される。

 

特攻隊員の人たちの想い

何を想い、何を感じてその時を迎えたのか

 

突撃する瞬間、すべての若者たちが

発した言葉があるそうです。

 

 

「お母さん!」

 

 

まだ20歳前後

 

最後は母への思い、、

命尽きる瞬間まで母を思って死す。

 

悲涙。

 

若い彼らの手紙は、胸を打ちます。

 

その気持ち、思いを知ること

そんな過ちを起こさないための

「終戦記念日」かと思います。

 

 

色々調べていくうちに

資料動画も見ていましたが

やはり映画も観ることに。

 

有名なところでは

 

2013年公開

「永遠のゼロ」

 

最近では2023年公開

「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」

 

永遠のゼロは知的要素が多く

インタビュー形式の展開で

描写されていました。

 

一気に物語が進むわけではなく

感情移入はしづらかったですが、

「知りたい」を追求すると

このような行動になるのは理解できます。

 

あの花の~方は

淡い恋心を純粋な描写で描かれており

物語も現代と過去軸が分断されないので

感情移入がしやすかったです。

 

切ないほどの胸のいたみ

久々に邦画で号泣しました。

 

「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」

 

小説家の汐見夏衛さんの作品です。

120万部の大ヒットで映画化。

 

家族で観たりと女性を中心に

大反響を呼んでいたそうですね。

 

特攻隊の資料が残る

記念館が後継者不足で閉館している今、

汐見さんの影響は風化されないために

一役買っておられますね。

 

とても貴重なことだと思います。

 

 

こんなにも恐ろしい時代があったのです。

 

今の時代に、同じことが起こったら

自分の子供を見送れるでしょうか。。

 

 

今のしあわせを

当たり前だと思ってはいけない。

 

当たり前のことなんて、

実は何一つないのだから。

 

目の前の人に感謝する。

周りの人に感謝する。

 

家族に感謝する。仲間に感謝する。

友達に感謝する。愛する人に感謝する。

 

今に、感謝する。

 

 

本当の意味で人を愛せる人は

ひとを心から大切にできる。

誰よりも尊く、、

 

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただきまして

ありがとうございました風鈴

 

いつまでも豊かな日本であってほしい

 

引き続き、ご自愛くださいませ。