こんにちは(^^)

母娘でマレーシア教育移住したAliceです。

クアラルンプール生活は2年目。

娘はインターナショナルスクールに通学。


来週は、日本への一時帰国

キリリとした冬の寒さが待ち遠しい


娘は、日本で食べたい物リストを作り

おでんの具は大根、こんぶ、牛すじ

寿司はサーモン&いくら、食べようと

今からカウントダウンを楽しんでる笑い泣き


私は、日本に帰ったら

役所の手続きがたくさんで

嬉しさよりもめんどくささが先立つ


それでも、最愛の母に会えるのは

嬉しくて仕方がない


私達がマレーシアに移住したことで

孫である私の娘を頻繁に

見せてあげられないのと

母に何かあっても直ぐには駆けつけられない

もどかしさと、申し訳なさがある


親孝行したい時には親はなし  

という言葉が何度も何度も頭を巡る


というのは

私の父は、私が中学生の時に

脳卒中で倒れあっけなく死んでしまった


当時、反抗期で思春期だった私は

父が何をしたと言うわけでないが

なんとなく父を遠ざけていた


父が話しかけても返事をせず

聞こえないふりしたり 

殆ど会話しない時期があった


父はさみしかったんだろう

私は父から長い手紙をもらった

『どうかお父さんと話して欲しい』

こう書かれていた


それでも、私は父を遠ざけていた


12 月の寒い日

昼過ぎても布団から出てこない父

大きないびきをかいて寝ている

母に父を起こすように言われ


私が、

『お父さん、起きて!スパゲッティできたよ』

父は大きないびきだけで返事しない


私と母は、父が疲れて眠いと思い

そのまましばらく寝かせた


でも、2時過ぎてもまだ寝てる

冬だから日も傾いてきた

私がもう一度起こす

『お父さん起きて、2時過ぎだよ』


父の大きないびき声が部屋にひびく

呼びかけても、返事なく

いびきと唸っているような音


慌てて母を呼び、父に呼びかけるが

いびき声ばかりで反応がない


救急車で父は搬送された

すでに脳死の状態だったが

42歳の健康な父の臓器は

人口呼吸器をつければ動いた


医者からは

父の意識が戻ることはなく

1週間以内に臓器も動かなくなり

死亡すると告げられた


口に呼吸器を付けてる以外は

父はただ寝ているように見える

でも、もう目を覚まさない


数日後、医者の告知どおり

父の臓器が全て停止し

父は死んだ


死んだ直後の父の身体は温かく

生きているかのように見えた

父の髭を剃ってあげながら

もう、ほんとに動かないの?!

お父さん、死んじゃった??

不思議と涙は出なかった


亡くなった直後は通夜や葬式で忙しく

悲しみが実感できない


でも月日が経つに連れ

父親がいなくなったのを

少しずつ実感していくのだ


『お父さんともっと話せば良かった』

『もう、お父さんの声を聞けないんだ』

『私の名前を呼ぶこともないんだ』

『なんでお父さん死んじゃったの』 


ふとした時に父を思いだしては泣いた

思春期とはいえ、父親を疎んだ代償は

14歳の中学生には重すぎた


それでも、

せめてもの救いは

父が救急車搬送される前の晩


珍しくお酒を飲みながら

『お父さんは本当に幸せだなあ〜』

と口にしたのを聞いたこと


その時の私は、

父が歯の浮くような事言ってるなと

思ったけど


父亡き後は

『お父さんは幸せな気持ちで死んでいったんだ』

と思えると少しは気が楽になるのだ



月曜日は深夜フライト

翌朝は日本に到着する

 

早く母に会い、孫娘の顔を見せたい


お母さん、長生きしてくれてありがとう

父親亡き後、シングルマザーで

4人の子を育ててくれてありがとう!



最後までお読みいただきありがとうございます😊