先生とまた同じ舞台に立ちたいと思った

 

謝花(以下「」):

音楽に触れたキッカケは覚えていらっしゃいますか?

3~4歳の頃にNHK教育テレビを観ていて、その教育テレビでポロリっていうねずみのキャラクターがいて…

間嶋(以下「」):

にこにこぷん?

そうです。そのポロリが、Vnが得意というキャラ設定らしく、それを観て物心がないなりに「これをやりたい」と言い始めたそうです。ポロリがTV画面に映っている記憶はあるのですが、やりたいと言った事は覚えておらず… でもミーハーな母が喜んでしまい(笑)やらせようかって。

4歳の頃に近所のVn教室に通い始めたのですが、その先生と全く相性が合わず、当時は毎週のレッスンが苦痛で仕方なかったです。

怖かったんですか?

怖かったですね。途中でつまみ出されたりしました。練習も全然好きじゃなくて、ほとんどして行かなかったから(苦笑)。騙し騙しで続けていたのですが、小学校4年生の頃に辞めて、そこからは音楽なんて絶対やりたくないと思い、離れていました。その後、Clを始めたのは中学校の吹奏楽部に入部してからですね。

Clを始められた時にはプロになろうとかは…

全く。そもそも入部したのも、友達が仮入部に行くって言うから付いて行っただけで、本当は卓球部に入ろうとしていました。ある日、吹奏楽部に付いて行ったらその友達が「絶対に打楽器をやりたい」と言い、その子が入るなら私も入ろうかなって。

仮入部期間に色々と楽器を試してみて、フルートが一番気に入ったので希望を出したにも関わらず、一通りの楽器のマウスピースを先生の前で試奏した時にClのマウスピースが一番鳴って、先生に「お前はクラリネットや」って言われ、半ば無理やり割り当てられました。

しばらくはプロの道に進もうなんて全く思ってなかったのですが、中3の時に(Clに任命した)外部コーチの先生が任期終了に伴い辞めることになってしまって。演奏活動も活発にされている方だったので、先生とまた同じ舞台に立てるようになるためには自分が音楽を続けるしかないなと思って、その先生に進路相談しました。私としては吹奏楽部の強豪校に行けたら良いと思っていたのですが、折角目指すならきちんと音楽の専門教育を受けられる所が良いんじゃないかとアドバイスを受け、その先生の出身校でもある県西の音楽科を薦められました。音楽科ならもちろん音楽の専門教育も受けられるし、吹奏楽も盛んな学校だからと言われ、中3の春に漠然と音楽の道に進もうと決めました。

確か当時の県西って、まだ吉永先生がいらっしゃった頃ですよね。

そうです。私が県西に入学した年が、吉永先生のいらっしゃる最後の年でした。それもあって(県西を勧めてくれた中学校の吹奏楽部の)先生は、吉永先生の音楽に実際に触れて欲しいと願っていたようで、おかげで吉永先生のもとで貴重な1年を過ごす事ができました。

という事は、県西に入られて、音楽科の授業を受けながら吹奏楽部にも入っていたと…。結構珍しいですよね?

そうですね、音楽科の学生は専攻実技の先生に(入部を)反対されることも結構多いです。私の場合は、県西時代に習っていた鬼頭典子先生もまた県西の音楽科出身、吹奏楽部にも入ってらしたので応援してくれましたね。「ちゃんと両立できる自信があるなら頑張りなさい」と。

高校の3年間は、どのような学生生活でしたか?

家には寝るために帰るという生活でしたね。通学に1時間は掛かるので4時半くらいに起きて始発に乗り、6時半から音楽棟で朝練して8時半からの授業を受け、放課後また吹奏楽部で練習。6時くらいまで部活をして7時頃に帰宅後も専攻実技の練習があるので8~9時頃まで練習。そのあとは宿題などを済ませてご飯を食べて寝るって感じでした。

もう殆どの時間が…

修行僧みたい…。

本当に修行僧のようでした(笑)。

確かに県西の音楽科の方って朝が早いですよね。僕も(県西の最寄駅である甲東園駅がある)今津線の沿線に住んでて、宝塚駅が最寄駅の高校に行ってたんでそこまで電車で行くんですけど、早朝補習とかで6時半とか7時の電車で終点の宝塚駅で降りると、入れ替わりで県西の制服を着た方が乗って来られるんですよ。楽譜をいっぱい詰め込んだファミリアのバッグと楽器を持ってて、音楽科って大変やわ…って。

今思えば、もしかしたらその中に久津那さんもいたかも知れない。僕が高3の時に(久津那さんは)高1だったので、その当時に彼女の姿を見ていた可能性もありますね。

そんな裏話があるんですね。

松永(以下「」):

良い話…なのか?良い話になり切れてないぞ(笑)。

全員:

会ってたら良い話なんですけどね(笑)。

 

 

  先生の言葉で導かれた東京への道、音楽に悩んだ4年間、PACと学業の両立

 

東京藝大に行こうと思ったのは何故ですか?

実は東京藝大に行く気は実はギリギリまで無かったんです。県西に入学した時から志望校はずっと京都芸大(京都市立芸術大学)1本に絞って目指してたのですが、高3の10月か11月くらいに、県西で習っていた鬼頭先生の先生に当たる鈴木豊人先生のレッスンを受ける事になって、そのレッスンを受けた日の夜に鈴木先生から電話が掛かってきました。

「紗衣は東京(藝大)にチャレンジしてみる気は無いのかい?」と。

それまで東京藝大は選択肢の1つに入れた事もなかった。自分には手の届かないどころか縁すらないすごく遠いところだと思っていたし、今から間に合う訳もなかったので。でも、先生に言われた事で、自分の選択肢に(東京藝大を)入れて良いんだと思い、初めて現実味を帯びました。

鈴木先生には「僕は京都芸大も良い学校だし良い4年間を過ごせると思うけど、東京は情報量も受ける刺激の多さも全然違うし、コンサートの数も関西より多い。君は東京で刺激を受けるべき人間だと思う」と言われ、その日のうちに藝大の課題曲を調べました。ちょうどその年から課題曲が変わって、私がやった事のある曲がメインの課題曲になったんです。1次試験のエチュードも変わり今までよりは曲数が少し減って、確かにレベル的には難しいけれど間に合わないレベルではないかなと思いました。京芸の課題曲は毎年同じものが出題されていて、その時点で私の中ではほぼ完成していたので、残り数ヶ月で藝大の受験準備が集中的に出来るかなって。

メインでレッスンを受けていた鬼頭先生には、まさに二人三脚でたくさんレッスンしていただきました。ソルフェージュや音楽理論も傾向が違うので、急にレッスンが増えました。部活は引退していたけれど、寝る間も惜しんで藝大受験の準備を4ヶ月くらい集中的にし、ヘロヘロになりながら受験、奇跡的に合格しました。間違いなくギリギリの順位だったとは思いますが(笑)

親御さんは東京に行く事に対して反対とかは?

うーん…全く無かったですね。うちの両親は音楽家ではないので、どこの音大がいいとかいう知識は皆無なのですが、東京藝大のことは流石にわかっていて、それは入って欲しいと思っていたんじゃないですかね。基本的にやりたいことをいつも応援してやらせてくれるので、本当に感謝しています。

 

東京藝大の4年間はどのような生活でしたか?

何か…こんな時に言う事でもないかもしれないですが…もちろん楽しかった記憶もあるんですけど、悩んだ記憶の方が残っていますね。

音楽の事で…?

そうです。幼いながらに自分が信じている音楽が認めてもらえずに否定される事が多くて、コンサートだと楽しく演奏できるのに、試験やオーディションといった評価される場になると急に自信を失って、自分の音楽を出すのが怖くなったりした時期はしましたね。

4人いたClの同級生たちがみんな優秀で、その子達と対等にやらなきゃというプレッシャーもあったし、そんな天才ばかりの集まりの中に来てしまったという劣等感ばかりで…最後の方になってようやく認めてもらえるようになったので、それは自信に繋がったけれど、それまではずっと同級生の背中を追いかけていました。

そんな中で、大学2年生の時に他の楽器の同級生と木管5重奏を結成し、3年間レッスンを受けたり自主公演を開催したりしたのですが、それは大きなモチベーションになりましたね。

急に何かその…井の中の蛙じゃないですけど、東京藝大に入ったら周りとのレベルに愕然としたけど、その逆境を超克できるだけの刺激というか、周りの方々や木5の仲間がいたからこその4年間だったんですね。

そうですね。

 

ー 東京藝大在学中に結成していた木管5重奏の仲間

 

ー 卒業試験後、Clの同級生と

 

藝大を卒業されて、(東京藝大の)大学院に在籍されている時にPAC(兵庫県立芸術文化センター管弦楽団)に入られていますけど、受けようと思われたのは?

仲の良い友達がドイツに留学した影響が強いのですが、大学3年生の頃から海外に興味を持ち始めて、色々な国から来日された海外の先生のマスタークラスを受けたりしていた中でPACにも興味を持ったんです。当然地元だから存在は知っていたのですが、良いタイミングでコアメンバーのオーディション公募が出たのでとりあえず録音を送ってみたところ1次試験をパスし、そのあと受けた最終試験もパス。今思えば当時の自分の演奏は全く未完成だったと思うので、(大学院に入学したばかりの)春に最終審査の合格通知のメールを頂いた時はとにかくびっくりしました。「え、こんなんで(合格で)良いの?」って。なので、キッカケというよりは単純に興味があったから受けてみたら…って感じでしたね。

当然、東京と(兵庫県立芸術文化センターのある)西宮との往復になる訳ですけど、やっぱり両立って大変だったのでは…。

むちゃくちゃ大変でしたね。そもそも受かるとは思ってなかったし、大学院にも入学したばかりだったので、(合格通知をもらった時は)どうしよう?と思って。両立するか、大学院を中退するか、PACを辞退するのか。当時師事していた山本正治先生に相談したら、「絶対にオケの現場で経験を積んだ方が良い。大学院の方は僕が何とかするから!」って言われて(笑)。

素晴らしい…!

そんな良い話が!

それで、先生方の多大なご理解とご協力もあってPACとの両立を決めました。

PAC勤務中は実家に住み、(1ヶ月に通算1週間程度ある)PACのオフ期間の間に東京に行ってレッスンや授業を受けて…という生活でした。先生のご理解があったからこその両立でしたが、若かったから出来たと思います。怖いもの知らずだったなあって。(22歳での入団は、当時PAC最年少だった)

PACにいらっしゃった時に色々な指揮者やソリストと共演されたと思いますけど、最も印象的な方は誰でしたか?

私が退団する直前の最後の定期公演で来られたネヴィル・マリナーさんです。メインの演目がメンデルスゾーンのスコットランド(交響曲第3番)だったのですが、言葉にできないくらい本当に凄かったです…魔法使いみたいな指揮者でした。お人柄もすごくチャーミングで、息子さんもロンドン交響楽団のクラリネット奏者だということもあって、良く話しかけてくれました。

それがケルンに行かれる…辞められる前の最後の公演だったと。

はい、ケルンに入試を受けに行く直前の公演でした。

 

 

  佐渡 裕 監督の言葉で決めた、PAC退団と留学

 

確かPACのコアメンバーは原則3年間いなきゃいけないと聞いていますが、2年弱で辞められてケルンに行かれていますよね。元々海外には興味があるって仰っていましたけど、(留学を決めた)後押しは何でしたか?

PACに入って大学院との両立生活を送っていたのですが、1年目は体力だけで何とかなったんです。でも2年目に入ったあたりから、目の前にある事だけをこなしている生活になっているなということに気付いて…。大好きだったはずの音楽が、音符をただ並べているだけのルーティンワークになっているような気がして。

気付いたきっかけはありましたか?録音を聴いたとか…?

いや、もう自分の感覚です。いつからか「音楽が楽しくない」と思ってしまって。PACって1stパートも2ndパートもどちらもやるんですよ。私はそれまで、首都圏のオケの客演などで2ndを吹くことは多かったのですが、1stを吹いた経験がほとんどなくて。PACで1年間仕事をしてみて、1stを吹く時にClにメロディが回ってきたら「自分って弱いな」と感じることが多かった。自分では頑張って吹いているつもりでも(後で録音を聴くと)埋もれるし面白くない。圧倒的に音楽の引き出しが少な過ぎると1年目に感じて、2年目に入った頃に顕著に「絶対的に(引き出しが)足りてない」って思ったのがそのルーティンワークに繋がったのかなと思います。2年目にPACのメンバーや職場環境が大きく変わったこともあり、負のスパイラルに陥るようにして色んな事が上手く行かなくなり始めて… 1度環境を変えた方が良いのかなと思いました。

2015年の年明けに体調を崩してしまって、PACを休養している期間がありました。すぐに復帰はしたものの、またすぐにダメになり「これ以上は働けない、身体が悲鳴上げている」と思いましたね。そんな時に青山音楽賞新人賞を頂けることが決まり、今が(留学と退団の)タイミングだと思いました。けど、今辞めたら(シーズン途中の退団だったので)オケに迷惑をかけてしまう申し訳ない気持ちや、自分ではどうしようもない気持ちやら色々な感情が入り混じり、なかなか退団の決断ができなかった。そんな時に、佐渡 裕監督に監督室に呼ばれてお話したことがありました。部屋に入るなり「紗衣ちゃん、大丈夫か?全然息吸えてないで」本当に追い詰められていた時だったから、その一言で堰を切ったように一頻り号泣して…その時に監督が

「紗衣ちゃんがPACの事を大切に思ってくれているのはホンマに感謝してるけど、そのPACのせいで苦しんでるなら俺は凄く申し訳ない。これから長い人生の中でいっぱい選択する時が来ると思うけど、周りの事なんてどうでも良いから、強く自分の意志を持って自分にとって一番良い道を選んでいかなあかんで」

「オケの事は俺が何とかするから、紗衣ちゃんは自分の選びたい道をちゃんと選びなさい。もう(選択肢は)決まってるんやろ?その道は絶対正しいって俺も思うから」

と言ってくださって、当時年齢的にも24歳で留学できる最後のチャンスかなと思っていたので、その時にやっと決断しました。佐渡監督の言葉が最後の一押しになったというか、もし話せていなかったらいつまでもウジウジしていたと思います。

見抜かれるものなんですね。

本当に良くメンバーの事を見ている方だと今でも思います。それまではあまり喋った事もなかったんですけどね。

あ、そんな感じなんや。

そうなんです。シーズンオープニングのパーティーや少人数で話す機会はありましたが、2人で話したのはその時が初めてでした。もちろん、その当時の私の様子がおかしかったというのもあったんでしょうけど、「監督、そんなとこまで見てくれてたんや!」とすごく嬉しかったですね。

 

ー 佐渡 裕 監督とウィーンにて

 

 

  ケルンの2年間で、やり残した事はなかった

 

そして環境が変わってケルンへと…。留学はどうでしたか?

もう、最高でした。控えめに言って最高でした(笑)。入るまでの方が大変だったかな。習いたい先生はずっと決めていました。PAC在籍中、留学しようか悩み始めた時にPACのエキストラに札幌交響楽団の白子正樹さんが来てくださって、その時に漠然と「留学したいけど先生がなかなか見つからない」と相談をしたんです。白子さんもケルンに留学されていたのですが、彼の留学前の状況が当時の私と似ていたそうで、留学をきっかけにしていい方向に向かい始めたから、1度ケルンに行ってその先生に会ってみたら良いんじゃないかと勧められました。ちょうど間近にドイツでコンクールを受ける予定があったので、その時にケルンに寄ってその先生(ラルフ・マノ氏)に会ってレッスンしてもらい、完全にビビッと来ました。私の求めているものを全部持っていて、この先生に習うためにケルンに行くんやと思いました。

ビビッと来たというのは、何がそうさせたんですか?

うーん…直感?(笑)何事も結構直感で決めるタイプなので。

確か井阪さんもアモイヤル先生に会ってレッスンを受けたら、「この方しかいない!」ってなったと仰っていましたね。

そう!本当に「この人以外に誰がいるんやろ?」と思ったんですよ。

運命なんでしょうね、そういうのは。

それで、入試には無事合格したのですが、ドイツの音大って、他の国もそうかも知れないんですけど、全体の生徒数というのが絶対的に決まっていて、その年に卒業した人数しか入学できないシステムになっているんですね。ケルンのクラスは普段ならドイツで一番人気なので年に1~2人入れたらラッキーなのが、私が受けた年はたまたま7人も入れる年だった。でも私は8番目の合格者で、いわゆる補欠合格だったんです。先生は生徒数を増やせないかと学長にまで掛け合ってくれたのですが難航して…最終合格者の書類提出の期限間際になって、(7人の合格者のうちの1人が)他の学校に受かり、ケルンのクラスに1人空きが出たことで無事に入学許可をもらえました。本当に嬉しかったです。奇跡に奇跡が重なってケルンに行ける事になったので、それだけに絶対に無駄にしたくなかったし、自分の中で(期限は)2年と決めていたから、とにかく詰め込みました。

ラルフ・マノ先生のもとでは、どういうレッスンでしたか?

生徒に対して、絶対に妥協しない厳しいレッスンでしたね。特に音の響きに対してはすごくこだわりがある方で、そこの妥協は1回も無かったです。ただ厳しいだけでなく、自身の思い描く音を生徒が出すまでは粘り強く付き合ってくれたし、何事も同じ目線で愛情を持って一緒に考えてくれました。

2年は短くなかったですか?

留学から帰ってきた子達はよく「2年ってあっと言う間に終わるよ」と言いますが、私にとって2年は2年でした。あっという間と言われればそうかも知れませんが、ちゃんと内容のある2年間で、むしろ2年以上の価値が詰まっていたと思います。

もう1年だけとか思ったり、やり残した事とかは…?

少なくとも彼のもとでは(やり残した事は)無いです。それは彼もそう言っていて、「Saeには僕が教えられるだけの事は教えたから、後は自立するだけじゃない?」と。ドイツの学生って簡単に卒業を延長するし、そういう話ももちろん…

本当はもうちょっと長くヨーロッパにいたかったけれど、「Saeは絶対に(もう1年とか)いらんやろ、卒業して」って(笑)。

全員:

(笑)

免許皆伝みたいな感じですね。

そう、先生を必要としている子達もいっぱい待っているし(枠が空かないから)卒業しなさいって。それと私はドイツ管に持ち替えていなかったので、ドイツでは就職できないという大きな壁がありました。ドイツのオーケストラは大好きだしそこに入れたら最高なのですが、楽器を持ち替える勇気はなかったですね。ラルフは音楽的なレッスンが多くて、音楽の組み立て方はたくさん教えてもらったけれど、それ以上の事になるとテクニックの要素が強くなってくるんですよ。(ドイツ管は)演奏のテクニックも全然違うし、ドイツ管同士だからこそ分かり合える事も多いので、その点で彼も限界を感じていたのかなと。

留学生活の最後の時期は、悟りというか人生論みたいな話をよくされました(笑)。ヨーロッパに残りたくて、ヨーロッパのオケのオーディションはたくさん受けましたが、日本のオケも数回受けました。受からずにかなり落ち込んでケルンに帰ってきた時のレッスンでのお話が印象に残っています。

「オーデイションって本当に酷い世界だよね。どれだけ良い演奏したって1人か0人しか受からないんだから。Saeがオーディションで良い演奏をしたことも、一生懸命頑張っていることも僕は知っているし、オーディションに落ちたくらいで落ち込む必要は全くない。君は、受かった子よりもちょっとだけ運が悪かったんだ。そのちょっとというのも、本当にちょっとなんだ。焦る必要はないし、来るべき時に来るべきものはやって来るから、それまで腐らずにやり続けるしかない」

「Saeはもう自立する時に来ているし、自分でやっていけるだけの力は僕のもとで付けたから大丈夫、自信を持って日本に帰りなさい」

それで、帰国する決断をしました。

 

ー ラルフ・マノ教授の最後のレッスン後

 

 

  家族のようだった、ケルンのクラス

 

帰国されてから…もちろん、色々と追い詰められていた状態からの留学だったと思うので、精神的にも余裕が生まれたとは思うんですが、他に留学前と変わった事はありましたか?

色々な価値観や考え方が変わりましたね。ケルンのクラスって仲間意識が強くて、先生と生徒の関係が対等だし、先生が受け持っている生徒が20人くらいいて年齢もバラバラなんだけど、その生徒に仲間意識を持たせるんですよ。仲間でありライバルであり、家族みたいな感じでしたね。学年という概念がないので年齢も関係ないし、18歳の少年に「そこの音さー」とか「今日なんだか調子悪そうだね」って言われたりもするし(笑)、逆に彼らが感動するような演奏をすると、それにとても共感してくれて…。心から素直に意見が言い合えるクラスでした。それはラルフの創り出していた空気だとは思いますし、もちろん競争も起きるけど、それが良い方向に作用する事が多かったですね。

ラルフに出会えた事や習えた事も奇跡だったのですが、ラルフのクラスの子達と出会い、同じクラリネット奏者の仲間ができた事も大きな収穫でした。彼らが私の音楽の価値観や考え方を変えてくれたと行っても過言ではなく…全てを受け入れてくれる家族みたいな温かいクラスだった。

日本ではそういう事はあまりないですよね。良くも悪くも個人主義というか…。

そうですね。ケルンのクラスは週1回ラルフの個人レッスンがあって、それ以外に週2回クラスのグループレッスンがあります。1回はオケスタやモーツァルトの協奏曲を主に勉強する、オーディション向けのトレーニング、もう1回はその時に個人でやっている曲をみんなの前で発表するというものでした。みんなの前で発表する事で各々の現況やラルフのアドバイスをみんなで共有でき、とても良かったですね。学ぶ場がたくさんありました。

最初の頃は衝撃でした。初めてのグループレッスンでモーツァルトの協奏曲の1楽章の提示部を順番に1人ずつ吹くのですが、全員解釈がまるで違っていて面白かった。そんなモーツァルト、日本では聴いた事無い!という個性的なモーツァルトで、とても素敵でした。

日本にいると、そういう教育すらないだろうね。こういうものだっていうか、「型」が最初にあって…

良くも悪くもその「型」に嵌めに行きますからね。井阪さんのレッスンの話でも仰っていたけど、その人の個性や解釈に対して文句を付けないようなレッスンだったんですね。

そうですね。良いところはそのままにして、どうしてもおかしいところだけアドバイスしてっていう感じでした。日本にいるときは引き出せなかった自分の音楽の引き出しは、ラルフから教わった事も多いけど、それよりもケルンのクラスの子達や同世代の子達の演奏を聴いた事による部分が大きかったと思います。

 

ー ケルンのクラスの仲間と(東さんは右端)