ブロック6

こちらには犠牲者の写真の展示がありました。

名前、囚人番号、出身地、誕生日、職業、連れてこられた日、殺害された日が記載されています。

この写真は、ポーランドから連行されてきた人たちで

労働者、大工、消防士、鍵屋、靴屋、庭師、士官、会計士と記載がありました。

ほとんどの方が半年から1年で亡くなっています。

子供達の写真もあり、連行された18%にあたる約23万2,000人が18歳の子ども

そのうち93%は、ユダヤ教徒絶滅のため、家族ごと連行されてきた21万6,000人のユダヤ人の子どもだったそうです。

ほぼ到着後すぐガス室に送られました。

アウシュヴィッツに送られた囚人の衣類と識別マーク

ブロック7

こちらに展示されていた方には、

教師(3ヶ月)、ドクター(6ヶ月)、学生(8ヶ月)、煉瓦職人(1年2ヶ月)、印刷屋(4ヶ月)

1941年から1945年までの囚人用便所の典型的な内部。

バラック内の過密のため、このような衛生施設はすべての囚人にとって十分ではなかった。 

これらの便所が設置されるまでは、囚人は仮設の野戦用便所を使用しなければならなかった。

洗面台

ブロックキーパー(ブロック長)の居住区。 

収容者は、ブロック長によって任命された監督者によって直接監督されていました。

生きるためには仲間を裏切ることも多く、密告することで囚人を監査する監視者「カポ」「ブロック長老」になり、仲間の囚人の仕事を冷酷に監督していました。

当初、役人の職務は、特別に選ばれたドイツ人犯罪囚によってのみ遂行されていた。 

後に収容所が拡張されたため、他の国籍やカテゴリーの囚人も監督官になることができた。 

しかし、これらの監督者の中にはレジスタンス(革命家)のメンバーもおり、彼らはその立場を利用して、収容所に蔓延する恐怖を和らげようとした。


囚人たちは3段ベッドで眠り、軍規格に従ってその日は閉じられた。 

通常、2人の囚人が1段の寝台に寝ていた。 1941年から1945年までの囚人の部屋の典型的な内装。

囚人は3段の木製の寝台に寝ており、毎朝軍規格に合わせる必要があった。 

通常、各段に2人の囚人が寝ていた。

人体実験に使われた手術室かなと思いますが検索しても見つけられませんでした。