こんにちは。
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クタクタ過ぎて、いつも以上に頭が回りませんうずまき
眠れないって、こんなに体力を奪うものなのですね。
このままだと倒れそうだったので、活蔘のお世話になりました。
まだ目眩がするのは、ストレスかな。
内容が雑で申し訳ないですアセアセ

コロナ禍だからか、来ていたのは学生の社会科見学のみ。

かつて、ここにはたくさんの人が囚人として捕らえられた、過酷な人体実験などをされていました。
人はここまで残酷になれるのかとは思うような実験の数々が行われていました。
(A) 超高度実験 

 ドイツ空軍が新しく開発した戦闘機は、イギリスの戦闘機よりも高い高度を飛べるように、高度18000mまで上昇できるようになっていましたが、このような高度における低い気圧に操縦士が耐えられるかどうかが問題でした。

12000m以上の高度に匹敵する低圧実験は、志願者に著しい苦痛を与えたために中断せざるを得ませんでした。

そこで空軍軍医大尉のS. ラッシャー医師(敗戦前に死亡)、ドイツ航空実験研究所のS. ルッフ医師およびH. W. ロンベルグ医師は、ナチス親衛隊次官のR. ブラントの許可を得て、低圧実験室の中にダッハウ強制収容所の囚人を入れて高度20000mに匹敵する低気圧にまでさらす実験を、1942年3月頃から8月頃まで行いました。ユダヤ人やポーランド人やロシア人捕虜約80人がこの実験で亡くなりました。

実験の経過は克明に記録され、死体は解剖されました。かろうじて生き残った被験者もひどい後遺症に苦しみました。  

(B) 低体温実験 
 空中戦で撃墜されパラシュートで脱出した後、北海に落ちたパイロットは、冷たい海水にさらされて凍死することがありました。

そこでドイツ空軍軍医中佐G. A. ヴェルツ医師はラッシャーと協力して、低体温状態に陥った人間を蘇生させる実験を、ダッハウ強制収容所で1942年の8月頃から1943年の5月頃まで行いました。

囚人たちは、耐寒飛行服を着せられて氷水のタンクに3時間漬けられるか、凍てつく戸外に裸で9時間から14時間さらされたあと、さまざまな方法で体を温められました。

被験者の体温測定や血液の採取が行われ、死亡した被験者の解剖も行われました。

温める方法は、熱い湯につけるほか、親衛隊元帥ヒムラーの命令でラヴェンスブリュック強制収容所から4人のロマ(いわゆる「ジプシー」)の女性囚人を呼び寄せ、裸にさせて被験者を2人ずつの間にはさんで体温で温めさせるということまで行われました。

この実験で約90人の囚人の生命が奪われています。 
 実験結果は1942年10月にニュルンベルクで行われた医学会議で、ラッシャーにより「低体温の防止と治療」と題して、またヴェルツにより「危険な点にまで冷却した後の温め直し」と題して、それぞれ発表されています。 

(C) マラリア実験 
 やはりダッハウ強制収容所で、1942年2月頃から1945年ころまで行われたこの実験では、1000人以上の囚人たちが、汚染された蚊に刺されたり、蚊の粘液腺からの抽出物を注射されたりして、人為的にマラリアに感染させられ、さまざまな予防薬や治療薬のテストに使われました。

カトリックの司祭も被験者の中に含まれていました。

30人がマラリアによって死亡し、300人から400人が薬の副作用や合併症で亡くなったといわれています。





火葬場エリアの入り口前に再建された警備員の設置場所

2017年(ダッハウ強制収容所記念地)


バラック
キャンプが新しく建設された時
収容所
1937/38年の新しい収容所建設の際、囚人たちは34のバラックを建設しなければなりませんでした。
収容所道路の左側にある最初の2棟のバラックは、1937年から1938年にかけて、様々な用途に使われました。
例えば、食堂、収容所事務室、図書館、SS博物館、研修所などです。
Sickbays
囚人のための訓練室や軍需産業のための作業場がありました。
これらのバラックの背後には、囚人を収容するバラックがあり、200人の囚人を収容できるようになっていた。
収容所道路の右側には、医務室がありました。
医務室とは、名ばかりで医療を施す場所ではなく、人体実験の場でした。



1945年4月/5月の風呂で解放された囚人(USHMM)

1945年5月 解放された民衆

1945年4月末、SSは、連合軍による解放を防ぐために、ダッハウ強制収容所から囚人を避難させ始めました。

 ダッハウ収容所システムからの少なくとも25,000人の囚人は、チロルの方向に疲れ果てた足の行進に送られるか、貨物列車に連れて行かれます。 

その過程で数千人の囚人が亡くなっています。

  1945年4月29日、米陸軍の部隊がダッハウ強制収容所を解放しました。 

生存者は、同じ日に国際キャンプ委員会を結成します。 

何千人もの囚人にとって、解放は遅すぎます–彼らは、彼らの強制収容所の投獄の結果と同様に、疲労と病気の結果として滅びます。