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小さいころから、弱虫だった。4人兄弟の末っ子として生まれた、自称「箱入り息子」。ものすごい人見知りで、団体生活が苦手だった。小学生の頃は友達と遊んだ記憶がない。


8才の時、フィギュアスケートに出会った。少林寺拳法を習っていた3人の兄がもらってくる賞状がうらやましかった。両親に「僕も欲しい」とねだり、少林寺拳法、野球、アイスホッケーと挑戦したが、肌に合わない。小柄で内気な少年は最後に、他人とたいせんしなくてもいい競技を選んだ。



地元リンクのアットホームな雰囲気も性に合っていた。「遊び感覚で、通うのが楽しくて、どんどんスケートが好きになった」。当時のコーチ、服部直行(48)は、女の子たちの陰に隠れてリンクサイドの片隅で遊ぶ姿をよく覚えている。でも、氷に乗ると表情がガラリと変わった。一心不乱にスピンやジャンプを練習する姿に声も掛けられなかった。「この集中力は、ただものではない」と感心した。



技術は世界レベルになっても、メンタルの弱さはついて回った。何度も練習から逃げ出した。バンクーバー五輪まで1年余りとなった2008年10月、練習中に右ひざ靭帯を断裂した。


09年2月、手術後のリハビリ中に気持ちが切れた。何もかも嫌になり、コーチの長光歌子(60)に一通のメールを残して失踪した。


「もう頑張れません。今までありがとうございました」遺書とも取れるメールに長光は「最悪の事態を覚悟した」と言う。


大阪から何も考えず東京に向かった。予約もなしに跳び込んだホテルの部屋で一人考えた。「スケートをやめたら、自分に何が残るんだとう」飽きっぽくてなにも続かなかった自分が、唯一続いたのがスケートだった。ここで投げ出したら、自分にはなにもない。


1週間後に帰宅すると笑顔で長光が言った。「やめてもいいよ」。


責めようとしない師の顔を見てようやく覚悟が決まった。



バンクーバー五輪で銅メダル、直後の世界選手権では頂点に立った。日本スケート連盟の吉岡伸彦フィギュアスケート強化部長(53)は、「怪我から復帰後、精神面が大崩れした試合はない。大きく成長した」と見る。


今は「一生スケートに関わっていきたい」と思う。弱かった自分に、メダルだけでなく、自信を与えてくれた。


ようやく気づいた。「スケートとの出会いは天からの授かりものなんだ」   (敬称略)



(動画お借りしましたm(__)m )










ロクサーヌの日記




ロクサーヌの日記


手術した右膝周りを触りながらトレーニングする高橋 (12日、東京港区で)=杉本昌大撮影




画像はきれいに撮れなかったのですが、貼りました汗 (;^_^A









今日は、涙が出て困りました~・°・(ノД`)・°・




大ちゃん、、、!大好きだよラブラブ