その結果、門閥派、下士の志士集団「土佐勤王党」双方から憎まれることになり、暗殺される。だから全国の高名な学者を呼び、話を聞いた。 ■今日の大名は御謀叛(ごむほん)が上策に候ぞ(藤田柡�/strong>。。そのさい「今の時勢に大名たる者いかがすべきや」と問う容堂に柡稀附袢栅未竺嫌\叛が上策に候ぞ」-つまり徳川家ではなく天皇家を奉るべし-と答えたという。 容堂は門閥や世禄の上士以外から有能な者を抜擢(ばってき)するほかなかった
そこで目にとまったのが、後藤象二郎が「容堂も尋常一通りの人物ではないが、この人もまた尋常の人物ではなかった」と回想した後藤の師、吉田栄螭坤盲俊!洋は容堂の命を受け、公武合体を藩是として人材登用や倹約、文武の奨励、軍備の洋式化、貿易振興に着手した。(文化部編集委員 関厚夫)。 山内容堂(RMTようどう)は学問を好み、それを政治の世界に活(い)かそうとした。「黒船来航」の翌年である1854年、容堂は、尊王の雄?水戸藩に「この人あり」とうたわれ、水戸学を大成した一人でもある藤田柡蚪瓚醴·苏肖い俊!·饯螭嗜萏盲坤堡恕ⅴ讠戛`がもたらした米国大統領親書の漢訳を家老クラスのものがだれも理解できなかったと知ったときには落胆した。当時の土佐藩の上士といえば、贅(ぜい)を尽くし、愛人と遊興し、知行を50石減らされても江戸詰めは断り、地元でのんびり優雅に暮らす-という《幕府の旗本にも、おさおさ劣らぬ》(『維新土佐勤王史』)士風だった
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