の前に


ブット氏の死去はパキスタンを危うくするかもしれない。

といっても民主化の女神^^を失ったからというわけではなく、

ムシャラフ政権基盤の再生が厳しくなったからです。


外交・内政とも騙し騙し乗り切り、辛うじて国家を一つに保ち、

且つ、発展のための試行錯誤の中にムシャラフの苦悩があるわけですが。


政治鉄則で見るなら、ムシャラフのやり方は温いのかもしれません。

政敵を抹殺・粛清しない専制統治が生き長らえるというのは奇蹟でしょう。

(本当に独裁なら^^)


元々パキスタンが

一つの国家として形成されていること自体が奇跡のようなものですが

地政学的にもあまりに隣接各国の情勢が厳しすぎます。

ムシャラフの外交とはイコール内政なのです。


中国に対して温いのも、言うなれば内政のための駆け引きであり

対中姿勢が温くとも、私が同情してしまう稀有な国なのです^^


政敵(とする)に対しても

ブット、シャリフに対して恩赦を与えたのはムシャラフ自身であります。

そもそも、内政混乱の原因・反ムシャラフと言われるチョドォリ最高裁判事を

法的解任で済まそうとして、結果粛清どころか再任を許してしまう。


大した独裁者であります。


というより、現体制を


「違憲であるかどうか問う」


裁判所が存在すること自体、ふざけた独裁政権なのであります^^

日常生活と変わらない戒厳令を出したり

反体制ジャーナリストがとっ捕まらない強権政治。


ムシャラフ・ブット連立も流れましたが周辺国には、


「ムシャラフでなければならない」



「ムシャラフ政権が磐石(=政治情勢の安定)になってはならない」


と願う国があります。

ついでにいうと、ミャンマーなんかに対してもその様に見ている国です^^


暗殺というのは暗殺者を直接雇わずとも為せると。


「赤いモスク」事件の主役は中国だった!

http://blog.goo.ne.jp/dotti5/e/970de312a84f7602ae0197946e3860e1

( 明日はどっちだ? 5 さん)


これは、ムシャラフが中国の意向を汲んだというより、

軍に中国直轄^^の勢力があるということでしょう。


パキスタンの中国国境の実質的守備隊ですが

ご多分に漏れず大変な状態だそうで。


イデオロギーでも思想でもなく

現代のアヘンである金というものの使い方をよく知っているのが

かの国でありまして。


(別にカの国が黒幕とか言いませんが)


でムシャラフですが

まぁ、強権政治の権化なら、普通こんな演説できない^^

パキスタンの苦悩であり、それはムシャラフの苦悩です。


Text of President Musharraf’s address to nation

http://www.app.com.pk/en/index.php?option=com_content&task=view&id=20166&Itemid=2

(APP)



で本題なのですが

どうも、物言いがなんといいますか・・・


筆洗

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2007122802075664.html

(東京)



 高校生諸君。沖縄の人たちに感謝しよう。もし、あの人たちがあれだけの怒りを表明してくれなかったら、君たちは沖縄戦の集団自決が「軍の関与」なしで起きたかのように書かれた日本史の教科書を読まされるところだったのだ

▼教科書会社が最初、申請した時には「軍の強制」性の記述があったのだが、文科省の検定意見が出されて「強制」どころか「関与」まで削られてしまっていた。これでは住民は勝手に死んだ、と言われているようなもの。「関与」の復活で最低限の誤りは正された

▼問題は「軍の強制」である。当時、生きて敵軍に捕まるのは恥ずかしいこと、という教えが根強かった。そして軍が住民に手榴弾(しゅりゅうだん)を配布していた事実もある。何より多くの住民が証言もしている。だが、命令文書など証拠がないと文科省は結局、「強制」を認めなかった

高校生諸君。でもこれは教科書にひと泡吹かすチャンスかもしれない。軍の強制性があったかどうか、日本史の時間などに自分たちで勉強してみてはどうか。当時の軍と民間人の関係は。そも沖縄戦とは何だったのか。現地の声を集めてみる手もあるだろう

▼今回の教科書検定の騒ぎ自体を勉強の対象にしてみることも勧めたい。なぜ突如、「強制」性を認めない意見が文科省サイドから出てきたのか。できる範囲で調べ、話し合ってみたらいい。格好のいい結論は出ても出なくても構わない

▼先生も理解してくれるはずだ。歴史家のE・H・ノーマンもこんなことを言っている。

学習は「問題を解く過程にこそ本質がある」


沖縄の諸君

あなた方の先人は、死ねと言われて手榴弾を投げ返さなかったらしい。


ましてや戦陣訓を範としたなら、手榴弾を抱えて米軍に突撃したでありましょうに。

沖縄の悲劇は「伝え聞き事実残酷であった米兵」に対し、

死して陵辱を加えさせね為の最後の抵抗であります。


そこには、後に残る国への託す思いがあふれており、

時代の空気・・・を言うなら、死して護国の神とならんとする心を言う。


それを洗脳とか強制とか、散華した先人を愚弄して喜ぶ人がいるわけです。



本訓 其の一


第七 必勝の信念


 必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。
 勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。


本訓 其の二

第七 生死観

 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

第八 名を惜しむ

 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ

第二 戦陣の嗜

戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。


私には、無駄死にをするなとしか見えない・・・・・


ところで、

沖縄戦の悲劇を語るに、

話をややこしくさせる異物の存在が忘れさられているわけで

こういった不逞の輩に触れることこそ、

先の大戦の悲劇を省みることが出来るわけです。


集団自決に某かの軍による理不尽な振る舞いがかかわるとすれば

皇軍綱紀を曲解し、守るべき国民を邪魔扱いした

「混じり物」の存在のあるかなしかを論じてみ給え^^


それでこそ


「高校生諸君。でもこれは教科書にひと泡吹かす」


チャンスかもしれない^^


再掲



日本名を騙り蛮行を働く朝鮮人たち

http://ameblo.jp/disclo/entry-10023394644.html



「終戦60 年秘話」

後の「韓国大使」もいた沖縄「7人の脱走日本兵」

日高恒太朗 週刊新潮


そんな激戦のさ中、小船で密かに離島へ逃げ、島の女を愛人にして遊芸に興じていた「脱走兵」グループがいた。


その隊長は、後に韓国の大使にまで出世したエリート将校であった


~~


沖縄戦の早い時期に米軍の手に落ちた伊江島、そして6 月3 日に砲艦射撃を受け米軍が上陸した伊平屋島。両島に挟まれた伊是名島は、沖縄本島や各離島で起きた「玉砕」「集団自決」などの悲劇を免れた「イクサのなかった島」といわれていた


その伊是名島にサバニを漕いで渡ってきた逃亡兵らが、この島にタブーを作ったという見方がある。


彼らは島民にスパイ容疑をかけ、虐殺をしていたというのだ。


この事実は、昭和49 年に発刊された『沖縄県史』(沖縄戦史録2)の調査団によって明るみに出た。


~~


北隣の伊平屋島が指呼の間に見える内花集落は、博労をしていた喜納政昭(42)=当時=殺害の場と言い伝えられている。彼はサバニを自在に操って島々を渡り歩いていたことからスパイの嫌疑をかけられたのだ。


犠牲者の弟である喜納政和(72)は眉毛を逆立てて、丸い目を剥いて言う。


「あんたネ、来るのが60年遅いサ。あの連中は脱走兵の癖に、しかも戦争が終わっているのに兄を殺し、奄美から来た子供を殺し、アメリカ兵も2人か3人殺している。60年間のうのうと軍人恩給を貰って、今はもう死んでしまったかという時期だろうが、こんなロクでもない兵隊に国はオレたちの税金をずっと払い続けてきたんだ。今更、何を喋っても仕方ないだろ」


~~


処刑の日、内花海岸には地元防衛隊、要人たちが集まっていた。喜納政昭はこの浜で、待ち受けていた逃亡兵の隊長である平山大尉に射殺されたのだという。脱走兵たちは島人になりすます為、偽名を使っていた。


~~


先の喜納政和は、「あいつらは虐殺しただけじゃない」と怨念を込めて言う。
事実、逃亡兵の中には、既婚者でありながら祝言を挙げたり、17歳の娘に子供を孕ませたまま、島から逃げた者もいたのである。


~~


平山隊の元戦砲隊第一分隊長(82)の意見は手厳しい。
平山さんは優しい人物ではありましたが、戦後になって、沖縄の小島に逃げて女を捨てたという話などを聞き、軍人としては最低だと思った。昭和20 年4月20 日、平山隊の副長格だった2人の将校が八重岳で自決しています。一人は予備士官の中尉で、この人は負傷して動けなくなった。“足手まといになりたくないから自決させてくれ”と言って我々の目の前で自決されました。平山さんは私たち124 名の部隊の長だった人です。部下の自決を見ていた隊長が、米兵のいない島に逃げていたとは……卑怯だとしか言いようがない」

昭和20年4月、米軍は遂に沖縄本島に上陸した。
約3 ヵ月後、守備部隊である陸軍第32 軍は壊滅状態となり、司令官の牛島満中将は自決、20 万人余りとされる犠牲者を出した。


この7人の逃亡者は共通点がありますが、さて・・・・



平山勝敏大尉
本名 申応均
沖縄戦に第24師団砲兵大隊長として参戦。

戦後、韓国軍に入隊、韓国軍砲兵育ての親と言われる。
退役後、駐トルコ、西ドイツ両大使、国防科学研究所長歴任。


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こういう輩が沖縄死守の戦線に幹部として加わっていたことを調べるほうが

教科書にギャフンと一泡吹かせることが出来ますよ。


高校生諸君!^^




筆洗