■沖縄戦没者を侮辱する人たち


対支以外ではまだ良識の残っている読売が

まともな社説を書いています。


沖縄集団自決 検定への不可解な政治介入

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20071002ig90.htm

(10月3日付・読売社説)



 教科書検定に対するきわめて不可解な政治介入である


 来年度から使用される高校日本史教科書において、「日本軍に集団自決を強制された」などとする沖縄戦の記述が、今春の検定で修正された。


 これについて町村官房長官は、渡海文部科学相に対し、教科書の記述を再修正出来るかどうか、検討するよう指示した。

~~

今回の修正は、沖縄戦体験者の数多くの証言を否定し歪曲(わいきょく)するものだとも批判している。

 しかし検定意見は、集団自決への日本軍の「関与」を否定したのではない。

 集団自決の際に軍の「強制」があったか否かが、必ずしも明らかではないことが検定意見の付いた理由だった。

~~

 検定を経た教科書の訂正は、客観的事実の変更によって記載事実が明白に誤りとなった場合などに限られると、省令で定められている。

 町村官房長官は「沖縄の皆さん方の気持ちを何らかの方法で受け止めて、訂正できるものかどうか」と語っている。


 民主党など野党は、沖縄県民の意向を踏まえた歴史教科書に関する国会決議案の提出についても検討している。福田内閣として、この問題を国会の争点にしたくないとの思惑もあるかもしれない。


 しかし、史実に基づいて執筆されるべき歴史教科書の内容が、「気持ち」への配慮や、国会対策などによって左右されることがあってはならない


 時の政治状況によって教科書の内容、記述が変わるのであれば、中立公正であるべき教科書検定の制度が、その根底から揺らぐことにもなりかねない。


たいした保守議員であります。

ねじれ国会対策か知りませんが、妥協の箇所が違う。

それとも、野党、マスコミあげての世論扇動に対して

怖気づいた?


こちらは露骨な・・


沖縄知事らが文科相と面会

意見撤回要請-集団自決の軍強制削除で・教科書検定

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2007100300045

(時事)



同席した仲里利信県会議長が

沖縄県民137万人の総意を受け止めてほしい」と述べ、先月29日の沖縄県民大会で採択された決議文を文科相に手渡した。知事も要請文を手渡し「よろしくお願いします」と頭を下げた。
 文科相は「大変重く受け止める。検定制度に政治介入があってはならないが、皆さんの気持ちを反映させるよう関係者で知恵を出したい」と述べた。


~検定制度に政治介入があってはならないが、

皆さんの気持ちを反映させるよう~


立派な政治介入であります。

新しい歴史教科書をつくる会の教科書採択、検定見直しについて

少しでも政治的介入の匂いがすると


「政治介入反対・検閲反対」


と叫んでいたのはどの勢力であったのか?

今回も叫べ。


そうか、検閲反対、政治介入反対といいながら

「大東亜戦争」を「太平洋戦争」に呼称変えするプレスコードには

文句を言わない、ダブルスタンダードと一緒ですね。


ところで県会議長はこのように言われる。


沖縄県民137万人の総意を受け止めてほしい」


これについては

だめ狼さんにコメントいただいた産経抄から

朝日への反駁?


【産経抄】10月3日

http://sankei.jp.msn.com/life/education/071003/edc0710030254001-n1.htm

(産経MSN)



 ▼貴紙は1面で「沖縄11万人抗議」と大見出しをとり、きのうも「県民大会に11万人が参加した」と書いておられます。でも、11万人は主催者発表の数字です。記者は何の疑問も持たなかったのでしょうか。


 ▼抄子は宜野湾市内にある会場を何度か訪ねていますが、会場の面積は約2万5000平方メートル、つまり160メートル四方に過ぎません。当日の航空写真を見ると空きスペースもあり、どう数えれば11万人にもなるのでしょう。


 ▼もったいぶってすみません。関係者によると、参加者は最大で4万3000人だそうです。沖縄の警察は、主催者の反発を恐れてか真実を発表できないのです。江藤淳先生が生前、指摘された「閉された言語空間」がなお存在するようです。


 ▼主催者発表通りに集会の規模を2・5倍も誇大に報道する姿勢は、戦時中に大本営発表を垂れ流し続けた貴紙の過去とだぶってしまいます。そうそう、貴紙は論調の異なる読売、日経とネット事業や販売部門で提携されるそうですね。思い切った決断に拍手を送りますが、新聞でもネットでも事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく。 


まぁ、私としては、無理やり動員された人数が何の「県民総意だ」という話なのですが

産経の数字に対する疑問を補足しますと



3.5県民大会

こちらは9.29大会ではなく、

同所で行われた

「3月5日、米軍再編に反対沖縄県民大会」

の様子です。


この時も会場の混雑具合は9.29程度。

主催者発表では「3万5千人」となっています。


で、私はこの沖縄県民大会の性質を鑑みて

県会議長の

沖縄県民137万人の総意を受け止めてほしい」


という言葉に政治的欺瞞を感じるわけです。


もともと県民大会は各種左系団体の組織的動員はおろか

左派政党の組織的政治扇動によっていました。



よき時代^^

これは、「像のオリ」沖縄県民大会の際の様子ですが

ゼッケンに「日本共産党」などと「政党名」を前面に出して

「県民大会」を堂々と謳う間抜けな時代でありました。


さすがにこれでは「市民運動」を標榜するにはまずいと思ったのか

近年では政党名の露出は控えられています。


しかし実態は「反自民」政党の政治扇動であって

市民の自発的意思による県民運動などとはとうてい呼べません。


今回も、労組、県議会、自治体、

そして、政党の組織的動員による、政治アピールセレモニーに

過ぎないのです。


県議会は県民大会指示を決議し、各自治体に動員指令をだします。

また教育長自ら、個別教育機関に対し、

教師、及び生徒の動員を指示しています。


そして、交通労組協力のもと、会場へのバス輸送を無料にするなど

必死の動員攻勢をかけました。


*大量配布された無料乗車券


無料チケット

また、

民主党からは、


菅直人代表代行、川内衆院議員、大島参院議員


などが参加するなど、

党主導での大会協力を前面に出しています。


もちろん、民主党と共闘する

日教組、労組、解放同盟他の組織動員が主力を務めます。



3

2

1

まぁ、こういった各種団体の幟の数をみれば

組織的動員の実態がわかるというもの。


何が「県民の総意」であるのか?


これほどの組織的、反強制的動員指示をもってしても

既存の県民大会動員力に本土応援隊が合流しても

数万人程度と、従前と比べてあまり拡大していないのです。


しかしながら、執拗に続くプロパガンダは

ジワジワと県民意識を侵食していくでしょう。


さて、沖縄戦にて犠牲となられた県民に対し、

敵ではなく、自国軍にして命を奪われたと声高に叫ぶひとは

戦没県民を侮辱しているのではないかと。

自決を強要され、その理不尽に抵抗せず従った、

主体性のない人々であったのか?


皆までは言いません。


ところで、イデオロギー政争の道具にされる沖縄ですが

冷静に連綿と続く生命の重みというものを考えると

甚だ愚かであると感じることが多い。


こちらのエッセイに共感することがあったので紹介。

この久村さんと言う方がどういう思想の方かは知りません。

でもこういうことなんだなと。


大田實という人

http://www.hisamura.com/ohta.htm

(久村真司さん)



 大田實という人を知っていますか。第二次世界大戦で、日本海軍沖縄方面司令官(当時少将、死後中将)だった人です。敗戦色濃くなった一九四五年六月六日、大田中将は本土内務省へ向けて一通の電報を打ちます。


 その電報は、沖縄県民がいかにその身を犠牲にして戦い抜いたかということを切々と訴えたもので、電文の最後は、「沖縄県民はこのように戦いました。ぜひとも後世、格別の取り計らいをしてください。(口語訳久村)」と結ばれています。

~~

戦争も、戦争に行くことも、ましてやそこで死ぬことも、わたしには理解できないことです。しかし、ここで、この戦争に命をかけた人間が確かにいたのです。「だから戦争はいけないのだ」という観念に、この経験を集約することはできませんでした。


 五十四年の時を越えて、わたしは、失われた命の上に立っているのだという実感が沸いてきたからです。


わたしたちは、つい自分一人で生まれてきたような気持ちになることがあります。だから、「誰にも迷惑をかけていないからいいだろう。」とか「自分の命だから、死ぬのも自由だ。」などと思ったり、言ったりしてしまうのではないでしょうか。


 しかし、わたしたちが今生きているということは、わたしたちが生まれる以前の人々が、命がけで守ってきたものや、つないできたものがあるからに違いありません。わたしたちの命は、それひとつで宙に浮いているのではなく、過去の人々の命の上に立っているのです


国語の先生だそうですが、

この生命観というか、散華された県民に対する慈愛とは何か

を考えるにおいて、非常に共感を覚えました。


屍上に我あり・・・です。