■「いざさらば 我はみくにの山桜」
定期的に紹介しようと思ってしばらく間があいてしまいました。
今回は、戦後、何かが退化しているのではないかということで
それに関する紹介。
光山文博命
朝鮮出身(本名:卓 庚鉉) 大正9年11月6日生、昭和20年5月11日没
満24歳 陸軍大尉
特別攻撃隊隊員 知覧より隼に搭乗し出撃。戦死
大東亜戦争末期、鹿児島県知覧基地から出撃した特攻機は四百三十二機に及ぶ。その知覧の町に数多くの特攻隊員の世話をした富屋旅館(軍の指定食堂)の女将、鳥浜とめさんがいた。
とめさんは、朝鮮出身で身寄りのない光山少尉に親身もおよばぬ世話をした。
二十年五月十日、出撃前夜、光山少尉はとめさんに「おばさん大変お世話になりました。お世話になったしるしとして、これしかありません。恥ずかしいのですが形見と思って受け取ってください。」
と、朝鮮の布地で織った黄色い縞の入った財布を贈り、別れの宴で、昭和の初めから日本でも流行していた朝鮮民謡「アリラン」を歌った。
明日、異民族である日本人のために特攻隊員として死のうとしている。・・・・・・とめさんは思わず顔を覆って泣いた。
戦後、四、五人の在日韓国人学生が冨屋旅館を訪ねてきた。光山少尉のことを聞いた学生たちは、とめさんに「アリラン」を歌う。
「いざさらば 我はみくにの山桜」 P121
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日韓合併といっても、たかだか数十年。
民族同化施策途中での敗戦分離は
独立自立とは何かという精神をを朝鮮民族に与えきらぬ間に
独立らしきものをあたえられた半島の悲劇でしょう。
結局、独立というものを、恨という被害者意識で支えている現状は
何も進化していないことを表している。
光山大尉、そして戦後アリランを歌った在日学生たち。
その時から
在日社会、韓国社会は精神的に退化していないか?
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林市造命
福岡県出身 大正11年2月6日生、昭和20年4月12日没
満23歳 海軍大尉
神風特別攻撃隊隊員。与論島東方洋上にて戦死。
敬虔なクリスチャンだった母の影響を受けて育った林少尉は
「すべてが神様の御手にあるのです。神様の下にある私たちには、この世の生死は問題になりませんね。私は讃美歌を歌いながら敵艦につっこみます」
と母への手紙を遺して、鹿屋基地から雲のかなたへ飛び立っていった。
戦後母まつゑさんは次の手記を某誌に寄せた。
「泰平の世なら市造は、嫁や子があって、おだやかな家庭の主人になっていたでしょう。けれども、国をあげて戦っていた時に生まれ合わせたのが運命です。日本に生まれた以上、その母国が、危うくなった時、腕をこまねいて、見ていることはできません。その時は、やはり出られる者が出て防がねばなりません。」
また「吾子は散りにき」と題して次の歌も詠んでいる。
一億の人を救ふはこの道と母をもおきて君は征きけり
母をおいて征った林少尉の最後の頼りは
「一足先に天国に参ります。天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈ってください。お母さんが来られる所へ行かなくては、たまらないですから。お母さん さよなら」
だった。
「いざさらば われはみくにの山桜」
靖国神社刊 P71
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戦後、我が国キリスト教諸団体は、特攻を軍国教育による洗脳の末の「自殺」だとし
キリスト教義に反すると訴えた。
・・・・・国家総神道の全体主義国家?
英霊と母親の至純の言葉に思う。
我が国宗教界はその時より退化していませんか?
ちなみに
「いざさらば・・」は
「母の身元にかえり咲かなむ」
と続く。
緒方襄命の辞世
ロケット特攻機桜花にて出撃、戦死
満22歳、海軍少尉
緒方少尉は昨今ラジカルな皇国思想だと非難されている平泉澄博士門下です。
「母の身元にかえり咲かなむ」
戦前思想を見る時に色眼鏡をはずせば
その本当の想いがよく見えてくるのではないでしょうか?