■どちらにしろ今は池田教ですが


選挙に絡んだ拉致説まで出ていた

団長さんがご無事だったようです^^


でいきなり面白いエントリー


新潟県柏崎市と言えば・・・

http://antikimchi.seesaa.net/article/48126323.html#more

(アンチキムチさん)


大本の教祖、出口王仁三郎翁の学会の牧口常三郎が兄弟という

大和維新塾さんの俗説を紹介されています。

柏崎って結構著名人が多いんですね。

(田中のまっきーも本籍はここでは?)


こう言う話は昔大本の中の人に俗説として聞いたことがあるなぁ。

真偽のほどは知りませんが。


ただ面白いのは、こう言った感じの

性豪もとい、子沢山伝説と言うのは近中(世)代史に多くあって

お種頂戴伝説というのもこの一種。


俗に言う岩屋天狗伝説とかもそうです。

室町と安土の間に「易断」という政府があったとかなかったとか。

この岩屋梓梁という怪物のような登場人物(アラブ系)も

そこいら中で、子孫を残しまくって

歴史上の有名人がそれこそみんな兄弟・末裔という話。


概要はこちら

正宗抹殺論

http://www2d.biglobe.ne.jp/~yamaka/monogatari.htm#P11

(舟山堂さん)



そして古事記や多くの古典の執筆により、易断政治の思想的根拠を固め、秀吉、家康は実は梓梁の子供だという。すなわち、和銅五年(712)に太安万呂が稗田阿礼の話をもとに撰したことになっているわが国最初の書物『古事記』は室町末期に岩屋梓梁が執筆したもので、通史は捏造だという。

~~

梓梁の足跡は北はカムチャッカ半島、西は地中海におよび、朝鮮に新王を擁立、さらに明国の武力平定をくわだてて、北京城・南京城攻略戦を展開したが、失敗して弘治三年(1557)に死ぬ。


 また、織田信長の石山本願寺攻めは、梓梁の死後に来日し、かつてザビエルが論破されたことの復讐に燃えるルイス・フロイスなどの宣教師たちが信長をそそのかし、支援した結果だと著者は言う。そして、その後の歴史上の大事件はもっぱらこの岩屋梓梁の後裔たちが引き起こしたものだとして、従来の日本の歴史とされているものは「ほとんどすべてデタラメ」だと断じるのである。


それを現代に紹介したのが梓梁の末裔だという窪田さんと言う方なんですが

東京都知事選にも立候補したことがあって

その時の政見放送?でエッ○解説をはじめたらしい。(カット)

ゆんゆん系だとして電波扱いされているみたいですが



脱力系、ニッポン文化論16【天下チンダレ】

http://ameblo.jp/naiema/entry-10004211840.html

(ナヰスな絵馬の世界さん)


皇国史観から言うととんでもない世界でもあるんですが


顕彰会の人とかは

民族派の集会などでも、和やかに参加されていたので

そのあたり、大らかななんでしょう。


物語だと思って読んでも、面白い。


AMAZONでも在庫なさそうなレア本



易断政府


ちなみに選挙時の資料


kkkk
(どちらかでDLしたのですがURL失念

勝手引用お許しください)


ちなみに大和塾さんでは

池田大作かいちょの出自について

大本と同じく亀岡・・そして穴太寺あたりを指されていますが


第5回 大日本皇道立教会

http://www.club-kamikaze.net/modules/sections/index.php?op=viewarticle&artid=19

(神風通信さん)


表の履歴からは

成田作もとい池田子之吉(かいちょの父上)が不動信仰だというんで

坂本穴太の末裔の方がピンとくる。

どちらにしろ渡来の系統か^^


コシミズさんなんで話三分の一としても

こっちの方が良いなぁ。


創価学会は北朝鮮宗教である

http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/sokakitacho.htm


で私見ですが末尾の



 戦後間もない昭和23年(1948年)に、東京大学名誉教授・江上波夫氏が「騎馬民族征服王朝説」を提出した。――東北アジアを席巻していた騎馬民族集団が紀元4世紀頃、朝鮮半島の南端から九州へと渡来し、ついに西日本一帯から邪馬台国を初めとする倭国を滅ぼし、畿内に攻め上がって大和王朝を建立する――。

 当初、デタラメだらけのこの仮説は、仮想理論があちこちで破綻するいっぽう、戦後相次いだ考古学上の発見がこの説を支持する方向に向かった。

 この事実は、「万世一系」の皇譜に疑問符を投げかける――どころの問題ではない


はちと違うと思います。

支持する方向っていっても異端扱いでしょう。

江上説、なかなか厳しいようです。

まぁ専門家でないんで偉そうなことは言いませんが

この時代の考古学と言うのは、色々厳しいんです。


視野も狭くなるし。


騎馬民族と言われてもなー。

戦国時代ちょい前ぐらいまで

ポニーみたいな馬だったわけでしょう?


よくわからんが

突発的な発見とか結構さらりと無視されたりしているし・・・


昔、群馬の高崎の六世紀ごろの古墳で頭椎太刀が見つかった時

鞘口に洋銀が使われていたって話が話題になったそうですが

洋銀(洋白・ニッケルシルバー)っていう合金は

ヨーロッパで17世紀に開発されたっていう話が

一挙に覆った・・・という話題とかどうなったんだろう。

事実なら凄い話なわけで。


どちらにしろ、考古学の原則としては

日本は突出して大陸文化から独立してはいけないらしい。

こんな悲しい状態だったらいやです。


三名川の冬桜

http://huuchan.cocolog-nifty.com/story/2005/11/post_5d29.html

(狸の溜息さん)



神田の県道沿いに「金鞘太刀出土地」なる看板が立っています。
先学の残した資料を見ると、

~~

大正9年までは東京帝大に貸与されていたそうです。大正10年に金800円で古美術商に売り、得た金を村人で分配したそうです。その後、太刀はどうなったかは分らないのですが、東京の人と言うのが来て、太刀が2万5千円で売れたので発見地を確認したい、と言って、あちこち調査して帰ったことがあるそうです。
そして大正15年、橿原神宮什物として絵葉書になったので村人の知るところとなったとさ。
金銅製頭椎太刀。今は立て看板があるのみ。古墳も残っていません


まぁどちらにしろ

この時代以前の歴史はダイナミックに論じるにしろ

もちっと大らかで、時代の人々が残した気持ちっていうのを大事にしたいもんです。

倭とか邪馬台とか卑弥呼とか、あっちがつけた変な名前も

もうちょっとなんとかならんのでしょうか。