■君臣一如の清華


(「背広の天皇」甘露寺受長)


荒天下の分別式


 国民の慶びが醒めやらぬ昭和三年一二月一四日、東京の宮城前広場では、ご即位を祝う一府四県の青年8万人の親閲があった。この日は朝から雨だったため、側近が天皇の席だけにテントを張ったのに対し陛下は、


「青年たちは雨にぬれて待っているに違いない。私だけテントの中にいるわけにはいかない。」


とテントの撤去を命じられた。そして冷たい雨の中を八十分間も身動き一つされず、青年たちの行進に答礼されたのであった。


 十二月半ばの冷たい氷雨は降りしきっている。かてて加えて、かなり激しい西北風がその氷雨を容赦なく叩きつけるので、青年たちは、唇を紫色にして、歯の根も合わぬ有様である。


そこへ突然玉座のテントが取り払われ始めた。


「どうしたことだろう?」

「ご親閲は取り止めになったのか?」


 十数万の瞳はいっせいにそれに注がれた。

係官のところへは、各団体からの質問が殺到していた。総指揮を依頼されていた陸軍の今村均中佐も驚いた。


「どうしたのです?お取りやめですか」

「いいえ。陛下の思し召しです。」

「えっ?陛下の思し召し?・・・そうですかッ」


 みるみる今村中佐の顔は感激に赤らんだ。彼はすぐに伝令を呼ぶと、各校、各団体の引率者の許へ伝えさせた。


「ただいま、陛下の思召しによって、玉座のテントは取り除かれました。ご親閲は定刻に開始されます。」


伝令が四方に飛ぶと、八万の若人のざわめきはピタリと止み、満場の空気はピリリと引き緊まっていった。


 午後二時、喇叭吹奏裡に、小豆色の自動車が式場に到着した。陛下が諸員最敬礼のうちに、自動車をお出になるその後から、野口侍従が走り寄って雨外套をお着せした。


 ところが、まさにご親閲が始まろうという瞬間、陛下は雨外套のボタンを外されると、サッと後にお捨てになった。後に侍立していた奈良侍従武官長が、かろうじてそれを受け留めたがもうどうすることもできない。


 陛下は既に行進してくる第一隊の「頭右」の敬礼に挙手の答礼を与えていらっしゃる。それを拝見して、上原勇作老元帥がすぐ外套を脱ぎ捨てた。つづいて皇族方も、大官達も一斉に脱ぎ捨てた。


なぜ、陛下は雨外套をお脱ぎになったのであろうか--


 行進してくる若人に目をやると、彼らは先ほどまで着けていた雨具を脱いでいる。テントが取り払われているのを見て、脱いでしまったのだ。陛下は早くもそれをご覧になったらしい。


 青年たちの中には、明らかに泣いている顔も見える。歯を食いしばっている顔も見える。陪席の高官達も、目をしばたいている。雨も寒さも忘れる、感激のひとときであった。


 隊伍は、潮が寄せてくるように、はてしなく御前を通過してゆく。陛下は微動だにせられず、直立されたまま、挙手の礼をお返しになる。雨はやや小降りになったとはいえ、止むことなく風をまじえて降りつづけている。


 ご親閲は予定通りに三時二十分に終わった。その間八十分、陛下は雨の中に立ちつくされて足踏み一つなさらなかったのである。


 玉座の階にお降りになる陛下のお足取りは、やや硬直なすっていらっしゃるようにお見あげした。

それもそのはずである。


見よ----


 お立ちになっていられた絨毯の上には、きちんと六十度に開かれたお足跡が、クッキリと残っているではないか。あの八十分の間、聳然とご起立になったまま、足摺りひとつなさらなかったのである。


 なんというおどろくべきご忍耐であろう。しかもなんという崇高なご忍耐であろう。


昭和二十年八月九日、ポツダム宣言受託回答文を巡る御前会議

迫水書記官長記会議録。陛下のお言葉より



 これ以上戦争を続けることは、日本国民ばかりではなく、外国の人々も大きな損害を受けることになる。

 わたしとしては、忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は忍びがたいことであり、戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽くした人であることを思うと耐えがたいことである。

 しかし国民全体を救い、国家を維持するためには、この忍びがたいことも忍ばねばならぬと思う。